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第10話: 意識のない主

 殿下の黒髪に触れた。


 額に張りついた髪を払うためだ。汗が残っている。

 セラフィムは水盆の布を絞った。額に当てた。


「おはようございます、殿下」


 返事はない。

 毒殺未遂から三日目の朝だった。


 手首に指を添えた。脈を数える。

 昨日の夕方より安定している。

 速さも深さも改善が見えた。


 顔色を見た。蒼白は変わらないが頬の灰色が薄れている。

 だが殿下の目は閉じたままだ。




 扉が静かに開いた。


「セラフィム殿。お早うございます」


 フランツだった。白湯の椀を持っている。


「おはようございます。脈は安定してきました」


「そうでございますか……」


 フランツの目元が微かに緩んだ。椀を脇卓に置き、殿下の顔を覗き込む。


「フランツさん。確かめたいことがあります」


「何でございましょう」


「昨日の夕方、扉の向こうで足音がしました」


「足音」


「硬い靴底です。歩幅が狭い。三歩手前で止まって立ち去りました」


 フランツの手が膝の上で止まった。


「使用人は布靴です。あの音は革靴でした」


「革靴は貴族か医務棟の者でございます」


「歩幅の狭さが気になります」


「……リュカ殿は小柄な方です」


「この部屋の前を通る動線ですか」


「いいえ。旧調合室は東翼にございます。この前は通りません」


 セラフィムは頷いた。


「今は確証がありません。覚えておいてください」


「承知いたしました」


「それともう一つ」


「何でございましょう」


「リュカに引き継ぎをした日のことです。殿下の不眠や食事量、薬の味見のことは伝えました。ですが銀蛇草根の配合量についてはオリヴィエ殿に遮られた」


「途中で打ち切られたのですか」


「ええ。何を伝えて何を遮られたか全部覚えています。リュカの調合室を調べるとき、それが要ります」


「記録と照合なさるのですね」


「ええ」




 調合室に戻った。


 天井が低い。窓は掌ほど。元保管室の圧迫感はもう慣れた。


 午前の解毒剤を組む。帳面を開き殿下の体質と照合しながら配合比率を決めた。

 殿下の体は一晩で毒を代謝している。

 脈が安定したのは鉱物系の渋みが減り始めた証拠だ。

 代わりに脂溶性の成分が奥から染み出してくる。


 苦い粉末を一割増しにした。

 乳鉢で三成分を合わせる。

 鼻で確かめた。舌はまだ痺れている。味見はできない。

 だが鼻は分かる。三つの成分が均衡していた。


 杯に注いだ。色に濁りはない。




 殿下の部屋に戻った。

 ベルナールが先に来ていた。殿下の額に手を当てている。


「昨夜より下がっている」


「ですがまだ平熱には遠い」


「瞳孔を確かめよう」


 ベルナールが殿下の瞼を指で開いた。灯りを近づける。


「反応は正常だ。光を追っている」


「昨日より早くなっていますか」


「わずかにだが。回復は進んでいる」


「意識はまだ戻りません」


「翡翠水の解毒に前例がないんだったな」


「ありません。この毒を舌で特定できるのがラヴェール家だけですから」


 投薬を始めた。

 フランツが殿下の後頭部を支える。

 杯を唇に当てた。数滴ずつ垂らす。


 殿下の喉が動いた。

 飲み込んでいる。三日間ずっとそうだ。

 意識はないのに体が薬を受け入れる。


 唇に残った薬液を指先で拭った。

 三年間の仕草だ。殿下の唇から薬の雫を拭う。

 薬師としての動作だ。


 ——それ以上の意味はない。ないはずだった。


「飲めました」


「浸透を待つ。一刻だな」


「はい」


 ベルナールが殿下の手首を取り脈を確かめた。


「悪くない」


 立ち上がった。


「セラフィム。リュカの調合室をそろそろ調べたい」


「ありがとうございます」


「明後日の午前でどうだ。リュカには私から通知する」


「承知しました」


「何を探す」


「調合記録です。リュカが殿下に何を処方したか。何を記録し何を記録しなかったか」


「記録に不審な点があると」


「まだ分かりません。ですが薬師の記録は嘘をつけない。記録がなければそれも証拠です」


 ベルナールの目が少しだけ細くなった。


「午後に戻る。フランツ、任せるぞ」


「はい」


 ベルナールが出ていった。




 一刻が過ぎた。


 殿下の脈を取った。

 整ってきている。体温も下がった。

 今日の投薬も成功だ。


「フランツさん。少しお休みになってください」


「ですが——」


「次の投薬まで時間があります。殿下のお傍は僕がおります」


「……本当にお一人で」


「何かあればすぐ呼びます」


 フランツが殿下の顔を見た。迷うような目だった。

 三日間ほとんど眠っていない顔だ。


「……では少しだけ失礼いたします」


「お願いします」


 フランツが立ち上がった。深く頭を下げて部屋を出た。


 扉が閉まった。


 二人きりになった。




 静かだった。


 殿下の呼吸だけが部屋を満たしている。

 穏やかな呼吸だ。解毒剤が効いている証。


 セラフィムは椅子から立ち上がった。

 水盆に布を浸す。絞って額の布を替えた。


 殿下の額に触れた。

 まだ熱い。だが昨日の灼熱ではない。


 布を首筋まで滑らせた。

 汗を拭う。蒼白だが張りのある肌だ。


 寝衣の合わせから覗く鎖骨に沿って布を動かした。

 薬師の仕事だ。患者の清拭は業務に含まれる。


 殿下の髪にもう一度指が触れた。

 額に張りついた黒髪を掻き上げる。

 指の間を殿下の髪が滑った。


 手が止まった。


 これは薬師の仕事だろうか。


 三年間、殿下の薬を調合してきた。

 脈を取り顔色を読んだ。

 だが髪に触れたことは一度もなかった。


 許される接触は手首と額だけだった。

 それが薬師と主の距離だ。


 今は違う。

 意識のない殿下の傍で汗を拭い髪を払い薬を唇に垂らす。

 どれも必要な処置だ。どれも薬師として正しい。


 だがこの胸の音は薬師のものではなかった。


 緑に染まった指先が黒い髪の中にある。

 殿下の寝台にこんなに近づいたことはなかった。


「……殿下」


 声が漏れた。

 返事はない。


 眠り続ける横顔がそこにある。

 切れ長の目は閉じたまま。薄い唇から規則正しい呼吸が漏れている。


「三年間、お傍にいました」


 誰にも聞かれていない。殿下の意識はない。

 だから口にしてしまった。


「三百十二の処方を書きました。一つも間違えなかった」


 喉が詰まった。指先が震えている。

 声は殿下の呼吸に紛れるほど小さかった。


「殿下のお体のことは何でも分かります。不眠の夜の脈。食の細い日の顔色。季節の変わり目の頭痛。全部」


 殿下の手がそこにあった。

 寝台の上に力なく置かれた手だ。

 剣も筆も取る公爵家嫡男の細い指。


「お前の薬など三年間一度も効いたことがないと殿下は仰いました」


 舌が痺れた。翡翠水の名残か。それとも別の痛みか。


「効かなかったのならなぜお体は僕の薬を覚えているのですか」


 意識のない体が杯を飲み込む。三日間ずっとそうだった。

 覚えている体。覚えている喉。


 殿下の指に触れた。

 触れるつもりはなかった。


 冷たい指だった。

 毒がまだ末端を蝕んでいる。

 指を包むように握った。温めるためだ。


 ——温めるためだ。薬師として。


「殿下に想いを抱くことは禁忌です」


 声が震えた。


「契約はもう解かれました。でも禁忌は消えない」


 緑の指が白い手を包んでいる。


「想いも消えません」


 三年間この手で薬を調合した。

 安眠剤。鎮痛剤。消化剤。

 三百十二のすべてに自分の指が触れている。


「僕の薬が効いていたのなら——」


 声が途切れた。


「殿下は毎晩、僕の想いを飲んでいたことになります」


 言ってしまった。

 言ってはいけない言葉だった。


 殿下の手を握る指に力がこもった。

 冷たかった指が少しだけ温まり始めている。


「目を覚ましてください」


 目を覚ませばまた僕を追い払うだろう。

 それでいい。それでいいから。


「……目を、覚まして」


 ——ディートリヒ。


 声に出ていた。

 囁くように。息が漏れるように。


 自分の声に息が止まった。

 三年間一度も口にしたことのない名前だった。


 「殿下」と呼ぶのが薬師の作法だ。

 名前を呼ぶのは対等の者だけに許される。


 部屋に自分の声が消えていった。

 殿下の呼吸は変わらない。何も聞こえていない。


 だが一度口にした名前は戻せなかった。

 舌の上に残っている。痺れの中に。


 殿下の指が動いた。


 握られた手の中で指がわずかに曲がった。

 昨日フランツが確認したのと同じ動きだ。

 筋肉の反射。無意識の収縮。


 だが殿下の指はセラフィムの手の中にあった。

 握り返したように見えた。


 心臓が大きく一つ打った。


 反射だ。そう分かっている。

 分かっていても手を離せなかった。

 視界の端が滲んだ。頬が熱い。


 どれくらいそうしていただろう。


 殿下の手をゆっくり寝台に戻した。

 指を離した。離すのに長い一拍がかかった。


 椅子に座り直した。帳面を膝に開いた。

 呼吸を整えた。


 薬師の顔に戻らなければならない。




 扉が叩かれた。


「セラフィム殿」


「どうぞ」


 フランツが入ってきた。


「お変わりはございませんか」


「ええ。殿下の容態は安定しています」


 フランツがセラフィムの顔を見た。


「……お顔が少し赤いようですが」


「調合室が暑かったので。大丈夫です」


 嘘だった。

 薬師は嘘をつかない。だが今だけは許してほしかった。

 殿下の名前がまだ唇の裏に残っている。それを悟られるわけにはいかなかった。


「フランツさん。お休みになれましたか」


「少しだけ。……それで一つお伝えしたいことが」


「何ですか」


「先ほど廊下でリュカ殿とすれ違いました」


「リュカが」


「私を見て足を止められました。殿下のご容態はいかがかと」


「フランツさんは何と」


「臨時の解毒担当が治療を進めていると。それだけ申しました」


「リュカはどんな顔をしていましたか」


「……困ったような顔でした。怒りでも安堵でもなく」


「困惑」


「何か言いたげに口を開きかけて閉じて。そのまま東翼へ戻られました」


 セラフィムは帳面の上に目を落とした。

 口を開きかけて閉じた。言えないのか。言えなくされているのか。

 もしリュカが被害者でもあるのなら——明後日の調合室調査で分かる。


「明後日にベルナール殿とリュカの調合室を調べます」


「何をお探しに」


「調合記録です。殿下にどんな薬を出したか。何を書き何を書かなかったか」


「記録が消されていると」


「分かりません。ですが見れば分かります」


 帳面を閉じた。

 自分の記録は残っている。三年分すべて。

 問題はリュカの記録だ。たった三日分の記録。


「フランツさん」


「はい」


「リュカが殿下に薬を出した三日間で殿下は薬に手をつけなかった」


「左様でございます。ほとんど」


「なのにあの夜だけ口にした。あの夜の薬杯だけが消えている」


「……リュカ殿の調合室に記録が」


「あるはずです。あの夜の処方が書かれているか。書かれていないか。そのどちらも証拠になる」


 フランツが小さく頷いた。


 殿下の呼吸が穏やかに続いていた。

 午後にもう一度投薬する。明日も。明後日も。

 毒が消えるまで。この人が目を覚ますまで。


 緑に染まった指先を見つめた。

 さっきまで殿下の手を握っていた指だ。

 殿下の体温がまだ残っている気がした。


 ——ディートリヒ。


 心の中でもう一度呼んだ。

 今度は声にしなかった。


 明後日。リュカの調合室を開ける。

 あの三日間の処方が記録に残っているか。消されているか。

 どちらであっても真相は一歩近づく。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第十話は主従二人きりの部屋の話です。セラフィムが殿下に触れる場面——額を拭う、髪を払う、指を握る。すべて薬師として正当化できる行為で、すべて薬師の範疇を越えています。この境界の曖昧さこそが書きたかったことでした。


裏設定をひとつ。セラフィムは「ディートリヒ」と声に出してしまいます。三年間一度も口にしなかった名前です。声に出せなかったのは臆病だからではなく、出した瞬間にもう薬師には戻れないと分かっていたから。意識のないことを言い訳にして、それでも一度だけ。名前を呼ぶ行為が持つ重さを、この薬師は誰より知っています。


次回、第十一話「消された頁」。リュカの調合室を調べます。そこで見つかるもの——あるいは見つからないもの。


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