第11話: 消された頁
殿下の瞼が震えた。
一瞬だった。
目は開かない。呼吸も変わらない。
だが確かに動いた。
「フランツさん。今のを見ましたか」
「は——はい。お瞼が」
フランツの声が掠れた。
寝台の傍で両手を握っている。膝が小さく震えていた。
「指の次は瞼です。回復が上へ進んでいる」
毒殺未遂から五日目の朝だった。
手首に指を添えた。脈を数える。
昨日より強い。
額に手を当てた。熱が引いている。
「朝の解毒剤を投与します」
フランツが殿下の後頭部を支えた。
杯を唇に当てる。数滴ずつ。
殿下の喉が動いた。
五日間ずっとそうだ。
意識のない体が薬を受け入れる。
唇に残った薬液を指先で拭った。
——ディートリヒ。
また声もなく呼んだ。
あの日声に出た名前が舌の裏に棲みついている。
「飲めました」
「今日がリュカ殿の調合室を——」
「ええ。午前にベルナール殿と調べます」
「お供いたしましょうか」
「殿下のお傍をお願いします」
フランツが深く頷いた。
東翼への廊下をベルナールと歩いた。
「リュカには昨日通知した」
「何と言っていましたか」
「黙って頷いただけだ。質問も抗議もなかった」
三年間通った道だ。
壁の石の色も窓の位置も覚えている。
足が勝手に道を選んだ。
「感傷に浸る暇はないぞ」
「浸りません」
拳を握った。爪が掌に食い込む。
「顔に出ている」
口を閉じた。
扉の前に立った。
自分が取り付けた真鍮の取っ手が残っている。
指をかけた。冷たかった。
扉を開けた瞬間に分かった。
匂いが違う。
自分がいた頃は薬草が壁に染みていた。
リンデンの甘さ。銀蛇草根の鋭さ。
三年かけて染みた匂いだ。
今は乾いた空気しかない。
「……入ります」
ベルナールが後に続いた。
部屋を見渡した。
窓から差す光が床に四角く落ちている。埃が舞っていた。自分がいた頃は薬草の粉で空気が濁っていた。今は何もない。
調合台は同じ位置だ。
天秤も乳鉢もある。
窓際の椅子も動いていない。
自分が殿下の薬を待つ間に座った椅子だ。
腰を下ろしかけた。途中で止まった。
だが棚が目に留まった。
「ベルナール殿。棚を見てください」
薬材棚に瓶が並んでいる。
等間隔。高さ順。ラベルの向きも揃っている。
指で棚板を撫でた。埃がない。だが使った形跡もない。瓶と瓶の間に蜘蛛の糸が一本張っていた。動かしていない証拠だ。
「整然としているな」
「整然すぎます」
瓶を一つ取り上げた。
封蝋を指で確かめた。
「この銀蛇草根は未開封です」
「未開封だと?」
「封蝋が割れていません。蓋すら開けていない」
隣の瓶を取った。月白花の花粉。
これも封蝋が残っている。
「殿下の安眠剤の主材です」
「二日間担当して一度も使わなかったのか」
「そういうことです」
「では何を処方していた」
「記録を見ます」
調合台の引き出しを開けた。
帳面が一冊入っていた。
薄い。
自分の帳面は三年で五冊になった。
三百十二の処方が詰まっている。
リュカのは一冊。薄い一冊。
表紙に名前はない。日付もない。
薬師の掟では記録帳の表紙に日時と署名を記すのが初歩だ。
開いた。
一頁目。
処方第一番。殿下。鎮静剤。
配合が目に飛び込んだ。
「基剤が違います」
「何だ」
「リンデンではなく杉苔基剤です」
「問題か」
「殿下の胃は弱い。杉苔では吸収が鈍ります」
「殿下の体質に合わない」
「合いません」
頁をめくった。
処方第二番。消化剤。
分量は正確だ。字も丁寧だ。
「味見の記録がありません」
「味見」
「僕は全処方に味見の所見を書きます。乳鉢で擂った粉を舌に載せれば配合のずれが分かるので」
「リュカは味見をしない薬師だったな」
「ええ。天秤だけで調合します」
処方第三番。鎮痛剤。
やはり教科書通りの配合だった。
殿下の体重や代謝に合わせた調整がない。
殿下には効かない。
殿下がリュカの薬に手をつけなかった理由が見えた。
体が拒んだのだ。
次の頁をめくろうとした。
指が止まった。息が詰まった。
胸の底が冷えた。自分の帳面なら五冊三百十二の処方を一つ残らず記してある。薬師にとって記録は命と同じだ。
「ベルナール殿」
「どうした」
「四頁目がありません」
帳面の綴じ目を見せた。
頁が失われている。
根元に紙片が残っていた。
「破られたのか」
「いえ。切られています」
灯りに翳した。
綴じ糸の際に紙の繊維がわずかに残っている。
鋭い刃で一度だけ引いた跡だ。
千切った痕跡ではない。
「刃物で丁寧に切り取っています」
「記録の破棄か」
「薬師が調合記録を破るのはギルド規定で除名です」
「分かっている」
「この頁は四番目の処方です。二日で四処方。最後だけが消えている」
「それは——」
「殿下が倒れた夜の処方です」
部屋が静まった。
「間違いないのか」
「三番目が前日の処方です。四番目はあの夜しかありえない」
「あの夜の薬杯は杯ごと消えていた」
「はい。杯も消えた。記録も消えた」
ベルナールが腕を組んだ。
「あの夜の処方を知る手がかりが二つとも失われたわけだ」
「偶然ではありません」
「ああ。偶然ではない」
セラフィムは帳面を閉じた。
——薬師の記録は嘘をつけない。
だが記録そのものが消されていたら。
嘘をつく必要すらない。
「午後にリュカを呼ぶ。話を聞かなければならん」
足音がした。
扉の外で止まった。
狭い歩幅。硬い靴底。
あの夜殿下の部屋の前で聞いた足音だ。
背筋が伸びた。
扉が叩かれた。
「失礼します」
リュカだった。
小柄な体が戸口に立っている。
白い指。薬草の染みがない手。
「帳面を——引き出しに置いたままで」
視線がセラフィムの手元に吸い寄せられた。
帳面が開いている。綴じ目が見えている。切り取った痕のある綴じ目が。
リュカの顔色が変わった。
「入りなさい」
ベルナールの声は穏やかだった。
リュカが一歩入った。
扉を閉めなかった。
「リュカ」
セラフィムが呼んだ。
リュカの肩が跳ねた。
「殿下が倒れた夜の処方を訊きたい」
「……処方」
「記録の四頁目が切り取られている。何が書かれていたか教えてほしい」
リュカの目が泳いだ。
扉の向こう——廊下の奥に視線が逃げる。西翼の方角だ。
誰かがいないか確かめているように見えた。
廊下から風が入った。リュカの肩が竦んだ。
「覚えていません」
「薬師が自分の処方を忘れることはない」
「切り取ったのは僕じゃありません」
——では誰が命じた。
答えは一つしか浮かばない。
「では誰が」
リュカの口が開いた。
閉じた。
フランツが廊下で見たのと同じだ。
言いかけて止まる。
後ろめたさだけではなかった。
この少年は怯えている。
「……言えません」
「言えないのか。言えなくされているのか」
リュカの手が震えた。
白い指が白衣の裾を握っている。
「セラフィム先生」
先生。
引き継ぎの日には呼ばなかった。
昨夜殿下を名前で呼んでしまった自分がいる。呼ばれる側の重さが初めて分かった。
「僕は——」
「リュカ。今すべてを話さなくていい」
セラフィムは帳面を調合台に置いた。
「一つだけ答えてほしい。あの夜殿下に渡した薬杯の中身は普通の薬だったか」
沈黙が落ちた。
リュカの目が赤くなった。
涙ではない。堪えている目だ。
「……普通ではありませんでした」
それだけ言って背を向けた。
足音が廊下に消えていく。
狭い歩幅。硬い靴底。
あの足音は殿下の部屋の前でも止まった。
入れなかった。入らなかった。
あの少年は何かを抱えている。
自分の意思で動けない何かを。
庇いたいと思った。同時に疑わなければならないとも分かっていた。薬師として。
「ベルナール殿。リュカに見張りをつけてください」
「もう手配した。午後に呼ぶ前に自ら来るとはな。確かめずにいられなかったのだろう」
ベルナールが息を吐いた。
「あの子は被害者でもあるのか」
「分かりません。ですが怯えていました」
「誰にだ」
「推測で人を告発するのは薬師の仕事ではありません」
「頑固だな」
「薬師ですから」
帳面をもう一度開いた。
残った三処方の記録を目で追う。
リュカの処方は正確だった。
分量に誤りはない。
だが殿下の体に合わせた工夫がない。
自分なら銀蛇草根を七割に抑える。
殿下の体重と代謝に合わせて。
リュカは十割で書いている。
だが棚の銀蛇草根は未開封だった。
処方には書いてある。瓶には手をつけていない。
別の在庫を使ったのか。あるいは記録だけ書いて実際には調合していないのか。
自分ならリンデン基剤を使う。
殿下の胃に優しいから。
リュカは杉苔だ。
教科書通りの処方。
誰に出しても同じ配合だ。
殿下のための薬ではなかった。
三年間殿下の体を見てきた自分には分かる。
この処方を飲んで殿下が眠れるはずがない。
「消された四頁目の処方を逆算できるかもしれません」
「逆算だと?」
「僕の三年分の記録には殿下の体質が全部あります。リュカの三処方と照合すれば四番目の輪郭が見えるかもしれない」
「帳面から帳面を復元するのか」
「記録は消せても痕跡は消せません」
夕方。殿下の部屋に戻った。
遮光布の隙間から夕日が差している。
「殿下のご容態は」
「安定しておられます。お変わりなく」
「ありがとうございます」
寝台の傍に膝をついた。
手首を取る。脈を診た。
朝より強い。
体温も下がっている。
夕方の解毒剤を杯に注いだ。
「フランツさん。お願いします」
フランツが殿下の後頭部を支えた。
杯を唇に当てる。数滴ずつ。
殿下の喉が動いた。飲んでいる。
唇の端に残った雫を指で拭った。
フランツがその手を見ていた。目が潤んでいる。安堵の目だ。
——この唇にリュカの薬も触れた。
杉苔基剤の鎮静剤。殿下の胃には合わない処方。
殿下の体が二日間拒み続けた薬。
なのにあの夜だけ口にした。
普通ではない中身を。
「フランツさん。今日リュカは殿下のお傍に来ましたか」
「いいえ。足音も聞こえませんでした」
「そうですか」
殿下の手を見た。
寝台に置かれた細い指。
あの日握った手だ。握り返してくれた手だ。
殿下の呼吸を聞いた。朝より深い。薬が体に馴染んでいる。
「今日の投薬も成功です。明日も続けます」
「セラフィム殿。殿下は目を覚まされますか」
フランツの声は震えていなかった。
確かめるのではなく信じている声だった。
「目を覚まされます」
帳面を膝に開いた。
自分の記録帳だ。
五冊のうちの一冊目。
ここから辿り直す。
三年分の処方を一つずつ。
消された頁に何が書かれていたか。
答えは殿下の体の記録の中にある。
一頁目を開いた。
「処方第一番。鎮痛剤。殿下。頭痛。」
三年前の着任初日だ。
あの日の殿下の顔を覚えている。
何も言わず頭を押さえていた横顔。
蝋燭の灯りが殿下の横顔を照らしている。
三年前と同じ横顔だ。
頁を押さえた指先が震えていた。蝋燭の熱が指に触れている。あの日触れた殿下の額の温度を思い出した。
消された頁の答えはこの指で見つける。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
裏設定をひとつ。リュカの記録が「破られた」のではなく「切り取られた」点。千切るのではなく刃物で丁寧に切っている——破棄するだけなら破ればいい。丁寧に切り取ったということは、その頁を「別の場所に保存するため」に外した可能性があります。誰が、何のために。この答えはまだ先にあります。
リュカがセラフィムを「先生」と呼んだ場面は書いていて手が止まりました。引き継ぎの日には名前すら呼ばなかったこの子が、追い詰められた瞬間に出した呼び方です。この子は本当に悪意で動いたのか。答えを書くのが怖くて楽しみです。
次回、第十二話「一番目の処方箋」。三年前に遡ります。
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