第12話: 一番目の処方箋
蝋燭の灯りが頁を染めている。
「処方第一番。鎮痛剤。殿下。頭痛。」
角ばった文字だった。力の入りすぎた筆跡。横線が右上がりに歪んでいる。
三年前の自分の字だ。
殿下の寝台が手の届く距離にある。蝋燭の光が横顔を照らしていた。閉じた目。浅い呼吸。掛布の上に出た指先が白い。三年前と同じ横顔だ。
何も言わず頭を押さえていた横顔。あの日も指は白かった。だが今は毒に色を奪われている。
帳面の上で指が止まった。インクの滲みに触れた。乾いたインクの下に三年分の時間が堆積している。
——あれは、三年前の秋のことだった。
石の回廊が長かった。
十九歳のセラフィムは自分の靴音が大きすぎることが気になっていた。歩くたびに音が壁に跳ね返る。天井が高い。窓は細い。
「緊張しておられますか」
前を歩く白髪の老人が振り向いた。
「こちらが調合室でございます。東翼の最上階になります」
「少し」
「足音でわかります。大丈夫でございますよ」
「そんなに音がしていましたか」
「石の回廊はよく響きます。殿下はいつも革靴で、もっと大きな音をさせておいでです」
フランツという名だった。使用人頭。背筋の伸びた人で、歩幅が正確だった。この屋敷を知り尽くした足だ。
「窓は東向きでございます。朝の光が入ります」
「薬材棚もございますか」
「先代の薬師がお使いになっていたものをそのまま残してございます」
「先代の方は」
「お亡くなりになりました。二年前に。以来、医務室のお薬でお凌ぎいただいておりました」
「……失礼しました」
「いえ。お歳でございました。最後まで殿下のお薬を欠かされませんでした」
「立派な方だったのですね」
「あなたに似た方でした」
足を止めた。会ったこともない先代と似ていると言われた。嬉しいのか怖いのか分からなかった。
振り向くとフランツは何事もなかったように歩いていた。
扉が開いた。
光が目に入った。棚が壁を覆い、乳鉢と天秤が調合台に並んでいる。窓の外にリンデンの木が見えた。葉がわずかに色づき始めていた。秋の初めだった。
ラヴェール家の薬師がここに立つ。
胸の奥で誇りと不安が混じり合っていた。
この手で殿下の薬を調合する。一度でも間違えれば二百年の名が折れる。
「ありがとうございます。ここをお借りします」
「殿下はこの時刻、執務室においでです。お体の具合が悪いと仰ることはございません」
「仰らないだけで具合が悪いのですか」
「仰らないのでございます」
その言い方で分かった。
「承知しました。お体のことはこちらで気をつけます」
「何かご入用でしたら私にお申し付けください」
フランツが微かに目を細めた。
「かしこまりました」
足音なく立ち去っていった。
荷を解いた。
薬材の瓶を一つずつ棚に並べていく。銀蛇草根。月白花の花粉。リンデンの花弁。ラヴェール家の薬草園で母が育てたものだ。
乳鉢の重さを手で確かめた。縁に薄く残った磨り痕が長い歳月を語っている。先代の薬師のものだろう。
天秤の分銅を一つずつ載せて較べた。誤差はない。
「よし」
声に出した。誰もいない部屋で声を出すと落ち着く。母に教わったことだ。「独り言は薬師の友よ」と母は笑っていた。
指先が震えた。瓶を棚に戻すとき隣の瓶に当たって、澄んだ音が響いた。
深く息を吐いた。
——落ち着け。
薬材がある。天秤がある。乳鉢がある。
薬師が必要とするものは全部揃っている。
最後に帳面を調合台に置いた。白紙の帳面だ。今日からここに処方を書く。まだ何も書かれていない頁に指を滑らせた。
「一番目はどんな処方になるんだろう」
独り言が壁に吸われた。
夕刻だった。
窓の日差しが赤くなり始めた頃、扉が叩かれもせず開いた。
振り向いた。
長身の男が戸口に立っていた。
黒髪を後ろに流し、切れ長の碧い目をしている。
右手でこめかみを押さえていた。
何も言わなかった。
扉の枠に肩を預けるように立ち、碧い目がこちらを捉えた。冷たい光だった。確かめるような、値踏みするような視線。
背筋が伸びた。
「ラヴェール家のセラフィムです。本日より専属薬師を務めます」
声は出た。震えなかった。そこだけは自分を褒めてやりたかった。
「お前がラヴェールの薬師か」
第一声だった。挨拶ではない。確認だ。
「はい。よろしくお——」
「頭痛がする。薬を出せ」
言葉を遮られた。返事を待たない人だった。
「承知しました。拝見いたします」
「診るな。薬を出せ」
弱みを見せたくないのだ。公爵家の跡取りとはそういうものなのかもしれない。
「お言葉ですが、症状を確かめないと処方が合いません」
「頭痛だと言った。それ以上何が要る」
「いつからか。どこが痛むか。吐き気はあるか。三つだけでも」
碧い瞳が硬く据わった。揺るがない光。
二十一歳の公爵令息は、その目だけで人を黙らせた。
「……失礼しました。では二つだけ」
「何だ」
「いつからですか」
「昨夜から」
「吐き気は」
「ない」
昨夜から。十二時間以上。
触れることはできない。だが目がある。耳がある。
こめかみを押さえる右手の力が強い。だが首は傾げていない。頸椎ではない。
光を嫌がる仕草がある。瞳孔に左右差はない。
声は低いが濁っていない。嘔吐はない。
目の下に薄い隈。眠れていない。
唇が乾いている。水分が足りていない。
——緊張性の頭痛だ。書類仕事の長い人に多い。
「緊張性の頭痛です。十五分で調合いたします」
「勝手に診断するな」
「お言葉だけで十分です。声と仕草に体が出ます」
ディートリヒの碧い目が細まった。
「ラヴェール家の薬師はみなそうやって人の体を覗くのか」
「覗くのではなく読むのです。薬師の舌と目は殿下のお体のためにあります」
「……薬を出せ」
指先が強張っていた。
だが調合台の前に立った瞬間、指が静まった。
薬師の手は震えない。
柳樹皮を天秤に載せた。分量を量る。
基剤を選ぶ。
——リンデン。
唇の乾き。目の下の隈。胃を傷めやすい体質かもしれない。リンデンなら胃に優しい。
初対面の直感で基剤を選ぶのは賭けだった。だが指がリンデンの瓶を取っていた。
乳鉢に入れて擂った。粉が細かくなっていく。手首の角度を一定に保つ。「擂り粉木は腕で動かすな。手首で回せ」。母の声が耳に残っている。
鎮痛成分を量った。分銅が傾く。
やや多い。十二時間以上の頭痛は深い。だが体重が分からない。見た目は細身だが骨格は大きい。初対面の患者に強い処方は出せない。
七割に落とした。
この数字を覚えておく。殿下の体が教えてくれるまでは、七割が基準になる。
粉を杯に移し、白湯を注いだ。
ここで手が止まった。
杯を口元に近づけた。舌の先に一滴載せた。
苦い。
柳樹皮の渋みが舌の奥に広がった。その下にリンデンの仄かな甘みが浮いてくる。二つの成分が舌の上で均衡していた。後味に痺れはない。毒性の兆候はなかった。
配合は正しい。
ラヴェール家の薬師は全ての処方を舌で確かめる。天秤は量を計るが、薬の姿は舌にしか分からない。母に教わったことだ。
背後に気配があった。
ディートリヒが壁に寄りかかったまま調合を見ていた。右手はこめかみから離れていない。だが碧い目は薬師の手元を追っていた。
「何を舐めた」
「味見です。殿下に出す前に確かめます」
「自分が毒で倒れたらどうする」
「毒なら舌で分かります」
「随分と便利な舌だな」
「ラヴェール家の薬師は全員そうです。母も祖母も」
「物好きな家だ」
「殿下の薬が安全だとお伝えするのも仕事のうちです」
「お待たせしました」
杯を差し出した。
ディートリヒが手を伸ばした。
指が触れた。
薬杯を渡す一瞬、殿下の指先がセラフィムの指に重なった。
熱かった。
心臓が一つ跳ねた。息を止めた。薬師の手が震えてはいけない。
殿下の指が杯を引き取り、一息に飲み干した。
「殿下。味を確かめずに飲むのは感心しません」
「なぜだ」
「毒かもしれません」
碧い目がこちらを見た。冷たかった目に一瞬だけ何かが混じった。
「ラヴェール家が毒を盛ると」
「僕がそうとは申しませんが、習慣として」
言葉を選んだ。
「薬をお渡しする前に、僕は自分で味を確かめました」
「知っている。見ていた」
壁に寄りかかったまま、調合の一部始終を見ていたのだ。
喉の奥が締まった。
「薬師は自分の調合に嘘がないか必ず舌で確かめます。薬は正直ですから」
「正直」
「はい。だから殿下にも味を確かめてから飲んでいただきたいのです」
「毎回か」
「毎回です」
「面白いことを言う」
「面白くはありません。薬師の掟です」
口の端がかすかに動いた。笑ったのかもしれない。
ディートリヒが背を向けかけた。
「殿下。もう一つだけ」
手が伸びた。
触診は許可を取るものだ。母にそう教わった。だが指が先に動いていた。
自分でも驚いていた。
指先が殿下の額に触れた。
——熱い。
だが高熱ではない。痛みによる充血の熱だ。体の芯からの火ではなく表面の熱。
殿下の碧い目が見開かれた。
瞬きを忘れたように、こちらを見ていた。怒りではなかった。もっと深い場所にある、名前のない色だった。
触れたのは一瞬だった。指を引いた。
「失礼しました。熱の有無だけ確かめたかったのです」
「診るなと言っただろう」
声は冷たかった。だが拳は上がらなかった。碧い目が見据えている。何をされたのか分からないような顔だった。
「高熱ではございません。お休みになれば明朝には引くかと存じます」
「水を飲んでください。唇が乾いておられます」
「お前に指図される覚えはない」
「指図ではありません。お願いです」
碧い目がまた見開かれた。
「お願い」
「はい。お水を飲んでいただけませんか」
沈黙があった。
「……勝手にしろ」
調合台の水差しから杯に水を注いだ。差し出した。今度は指が触れないように杯の底を持った。
ディートリヒが受け取り、半分だけ飲んで杯を調合台に置いた。
「明日も来る」
「え」
「頭痛がまた来たら薬を出せと言っている」
「はい。お待ちしております」
それだけ言って出ていった。
足音が廊下に消えていく。
立ち尽くした。
指先がまだ熱い。
殿下の額の温度が残っている。
胸が鳴っていた。
叱られた恐怖だと思った。
……思うことにした。
夜になった。
蝋燭を灯して帳面を開いた。白紙の一頁目。
筆を取った。インクを含ませる。力が入りすぎた。
「処方第一番。鎮痛剤。殿下。頭痛。」
味見所見。苦みの均衡良好。リンデン基剤。七割配合。
筆を置いた。
インクが乾くのを待った。窓の外で虫が鳴いている。秋の夜だった。
——薬は正直だ。
舌に載せれば成分が分かる。配合の歪みも混ぜ物も。嘘はつけない。
薬師も嘘をつかない。薬が正直だから。
それがラヴェール家の信条だ。母に教わり、舌に刻んだ。
殿下の額に触れた。
薬師としての行為だ。触診だ。
あの熱は体温の情報だ。
——それ以上の意味はない。
帳面のインクが乾いていく。
秋の虫が遠くで鳴いている。
翌朝。廊下でフランツとすれ違った。
「殿下の頭痛は」
「引いたようでございます。朝から執務室においでです」
「そうですか」
「殿下は何も仰いませんでしたが」
「何も仰らないのが普通なのですね」
「普通でございます」
フランツが微かに笑った。
「ですが今朝、殿下は茶を一杯余分に飲まれました」
「水を飲めとお伝えしたのを覚えていてくださったのでしょうか」
「さあ。ただの偶然かもしれません」
「偶然でも構いません。お薬の具合は伺えましたか」
「何も仰いません。ですが今朝は書類へ向かう肩がいつもより楽そうでございました」
「それなら十分です。薬師としてこれ以上のお返事はありません」
殿下は何も言わなかった。効いたとも。
だが薬は正直だ。
効いたことは殿下の体が知っている。
帳面には書かなかった。茶を一杯余分に飲んだことは処方の記録ではない。だが忘れなかった。
——蝋燭が音を立てた。
蝋が垂れて燭台に溜まっている。
帳面の上に意識が戻った。
角ばった文字。力の入りすぎた筆跡。今の自分ならもう少し穏やかに書く。三年は長い。文字も変わる。
殿下の寝台を見た。蝋燭に照らされた横顔。三年前も今も同じ横顔だった。だが三年前は自分の意思で目を閉じていた。今は毒に閉じさせられている。
帳面に目を落とした。三年前には強張っていた指が今は迷いなく頁を繰る。だが迷いがないのは技術だけだ。
一頁目。味見所見。リンデン基剤。七割配合。
——七割。
体重も分からないまま、様子を見て決めた暫定の数字だ。
着任初日に自分がそう決めた。
以来三年間、殿下への処方は全て体質に合わせて調整してきた。銀蛇草根は七割。月白花は慎重に。基剤はリンデン。
三百十二の処方の全てに殿下の体の情報が刻まれている。
その全てを、調合控え十二冊に写してフランツに引き渡した。
帳面を握る手に力がこもった。
翡翠水は殿下の体質に合わせなければ効かない毒だ。体重。代謝速度。服薬履歴。その情報がなければ調合できない。
——その情報が全部、あの十二冊に書いてある。
誰があの控えに触れたのか。
フランツは引き渡しの後、どこに保管したのか。
オリヴィエが後任薬師を連れてきた日——あの控えはまだ棚にあったのか。
リュカの記録帳から消された四頁目。あの頁に翡翠水の処方が書かれていたなら、殿下の体質データを知る者がその配合を設計したことになる。
三年分の処方の全てが、自分の手で書いた控えの中にある。
殿下を三年間守るために書いた記録が、殿下を毒するために使われたとしたら。
胸の奥が冷えた。
蝋燭の炎が揺れた。
殿下の呼吸が闇の中に続いている。
帳面を閉じた。
扉の外にかすかな気配があった。
「フランツさん」
扉が開いた。蝋燭を手にしたフランツが立っている。
「お蝋燭が短くなっておられると思いまして」
「ありがとうございます。一つ訊いてもいいですか」
「何でございましょう」
「僕が退去するとき、調合控え十二冊をお渡ししました。あれは今どこにありますか」
フランツの手が止まった。蝋燭の炎が揺れた。
「……医務室の書庫に納めました。医務室長のベルナール殿のご指示で」
「誰かが持ち出した形跡はありますか」
「確かめてまいります」
「お願いします。明朝で構いません」
フランツが頷いた。新しい蝋燭を燭台に据えて古い芯を抜き取った。
「セラフィム殿。あの控えが何かの鍵でございますか」
「殿下の体質が全部書いてあります。毒を調合するにも、あの情報が要る」
フランツの顔から血の気が引いた。
「今夜のうちに確かめてまいります」
「お願いいたします」
扉の手前でフランツが振り向いた。
「あの控え、殿下のために書いてくださったものでございましたのに」
「だからこそ確かめなければなりません」
足音が廊下に消えていく。
殿下の呼吸が闇の中に続いている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十二話は三年前に遡りました。着任初日の「味見」——セラフィムが自分の薬を舌で確かめるあの場面は、シリーズ全体を貫く伏線です。第七話で殿下の肌から翡翠水を検知できたのは、三百十二回の味見で鍛え上げた舌があったから。地味な日課が三年後に主の命を救う。そういう物語を書いています。
初対面で額に触れる場面、書いていて手が止まりました。十九歳のセラフィムはあの熱を「叱られた恐怖」だと言い聞かせていますが、三年後の今も同じ嘘を自分につき続けている。薬は正直なのに、自分の心にだけは正直になれない薬師。この子のそういうところが好きです。
次回、第十三話「百十七番目の夜」。殿下の不眠に気づいた夜の話です。
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