第13話: 百十七番目の夜
足音が戻ってきた。
速い。だが靴底を殺している。
フランツだ。
殿下の寝台の傍で顔を上げた。
蝋燭はフランツが据えたものだ。まだ長い。
扉が控えめに叩かれた。
「セラフィム殿」
「どうぞ」
フランツが入ってきた。
息が上がっていた。額に汗が浮いている。
書庫から走って戻ったのだ。
「控えの件でございます」
「見つかりましたか」
「十二冊すべて書庫にございました」
息を吐いた。
「ですが——」
「何かありましたか」
「棚の並びが違っておりました」
「並び」
「お納めしたときは日付順でございました。左から右へ。今は四冊目と五冊目の位置が入れ替わっておりました」
四冊目。
着任から四ヶ月目の処方だ。
百番台から百五十番台。
百十七番の安眠剤が入っている。
「誰かが手に取って戻した。順番を間違えて」
「左様かと存じます」
「書庫の鍵は」
「ベルナール殿がお持ちです。医務棟の者であれば申請して借りられます」
「リュカも」
「……はい」
沈黙が落ちた。
殿下の呼吸だけが聞こえた。
「フランツさん。明朝ベルナール殿に伝えてください。貸出記録を確かめたいと」
「承知いたしました」
「今夜はもうお休みください」
「セラフィム殿こそ」
「僕は薬師です。夜は慣れています」
フランツが小さく頭を下げて出ていった。
足音が消えた。
殿下の寝台を見た。
闇の中で呼吸が続いている。
穏やかだ。規則正しい。
四冊目。百十七番。安眠剤。
殿下が僕の薬で初めて眠った夜の処方だ。
あの夜から殿下の眠りは僕の仕事になった。
安眠剤は七十三回処方した。
殿下の睡眠の深さ。入眠の速さ。覚醒までの時間。
全部あの冊に書いてある。
誰かがその冊に手を触れた。
殿下の寝息が聞こえた。浅い。だが規則正しい。
——この寝息を初めて聞いた夜のことを覚えている。
着任から四ヶ月目の冬だった。
秋が過ぎ、石の壁が冷える季節になっていた。
調合室の窓から息が白い。
夕刻の鎮痛剤を届けに行った。
百十六番目の処方だ。
執務室の扉を叩いた。
「殿下。夕方のお薬です」
「入れ」
声が掠れていた。
入った。
蝋燭が二本立っている。一本は燭台に蝋の池を作っていた。
殿下の顔を見た。
目の下の隈が濃い。右手のペンが止まっている。
「どうぞ」
杯を差し出した。
殿下が受け取り一口で飲んだ。
「殿下」
「何だ」
「お眠りになれていますか」
碧い目がこちらを向いた。
「何の話だ」
「蝋燭の減りが速すぎます。一晩に三本以上お使いではありませんか」
「蝋燭の数を数えるのが薬師の仕事か」
「お体を診るのが仕事です。眠れない夜が長ければ蝋燭が減ります」
殿下の碧い目が細くなった。
「……うるさい奴だ」
「安眠のお薬を調合いたしましょうか」
「要らん」
「殿下——」
「要らんと言っている」
杯を置いた。
「承知しました。失礼いたします」
執務室を出た。
扉の向こうで殿下がため息をついた。壁越しに聞こえた。
調合室に戻った。
帳面を開いた。
百十六の処方が並んでいる。安眠剤はない。
殿下が頼まないからだ。
だが薬師の目は騙せない。
蝋燭の減り方。隈の深さ。声の掠れ。
殿下は眠れていない。
棚からリンデンの花弁を取った。
銀蛇草根。月白花の花粉。
天秤に載せた。
四ヶ月分の記録がある。
殿下の体重。代謝の速さ。胃の強さ。
全部帳面に書いてある。
乳鉢で擂った。
リンデンの甘い香りが立つ。
銀蛇草根は七割。月白花はごく少量。
多すぎると呼吸が浅くなる。少なすぎると筋が緩まない。
分銅を載せ直した。一厘だけ減らした。
杯に移した。白湯を注いだ。
舌に一滴。
甘い。苦みの角が取れている。
リンデンの香りが鼻に抜ける。
後味に嫌な残りがない。
「これなら飲める」
声に出した。独り言はもう癖になっていた。
「殿下の舌でも飲める味だ」
帳面に書いた。
「処方第百十七番。安眠剤。殿下。不眠。」
殿下は要らないと言った。
杯を手に立ち上がった。
深夜だった。
執務室の前に立った。
扉の隙間から光が漏れている。
まだ起きている。
叩いた。
「殿下。セラフィムです」
返事がなかった。
「……入ります」
扉を開けた。
蝋燭が一本。燃え尽きかけた短い火だ。
殿下は机に向かっていた。
ペンは持っていない。書類の上に手を置いたまま壁を見ていた。
振り向いた。
「何だ」
「お薬をお持ちしました」
「頼んでいない」
「頼まれておりません」
「では何だ」
「僕が持ってきたいので持ってきました」
杯を机の端に置いた。
「安眠剤です。殿下のお体に合わせました」
「要らんと言っただろう」
「はい。ですが置いていきます」
殿下の碧い目が杯を見た。
見下ろすように。
「お前の職務の範囲か」
「殿下が眠れないことは僕の責任です」
「何の責任だ」
「薬師の責任です」
沈黙が落ちた。
蝋燭の火が揺れている。
殿下が手を伸ばした。
杯を取り上げた。
「何が入っている」
「リンデンの花弁。銀蛇草根を七割。月白花を少し」
「毒は」
「入っておりません。味を確かめました」
「お前の舌で」
「はい」
殿下が杯を口に運んだ。
一口。止まった。
「……甘いな」
「殿下が飲みやすいように調合しました」
「苦いと思った」
「苦い薬がお嫌いだと知っております」
「いつ知った」
「四十三番目の処方です。風邪の煎剤を出したとき、殿下が眉を寄せておいでだったので」
自分の眉間を指で示した。
殿下の口の端がわずかに動いた。
「……覚えているのか」
「すべて覚えております」
殿下が残りを飲み干した。
「座れ」
声が低かった。
「え」
「椅子がある。座れ」
窓際の椅子に書類が載っていた。
「書類を——」
「どけていい」
書類を端に寄せた。
腰を下ろした。
殿下は机に腕を組んで顔を伏せた。
こちらに背を向けている。
「殿下。寝台に——」
「ここでいい」
「お体に障ります」
「お前がいるだろう」
息が止まった。
「倒れたら起こせと言っている」
「……承知しました」
殿下の呼吸が深くなっていく。
薬だ。リンデンが体に回り始めている。
肩の上下が小さくなった。
声が途切れた。
眠っている。
殿下が僕の前で眠った。
背を向けて腕を組んで。無防備に。
蝋燭の最後の火が殿下の黒髪を照らしていた。
——この人の眠りを守りたい。
その想いに名前をつけてはいけないことを知っていた。
だが杯の縁にまだ熱が残っていた。
殿下の指が触れた、その温度だった。
蝋燭が消えた。
闇の中で殿下の寝息だけが聞こえた。
窓の外で風が鳴っている。
冬の風だ。石の壁を叩いて去っていく。
殿下の肩に上着が掛かっていないことに気づいた。
自分の上着を脱いだ。
起こさないように殿下の肩に載せた。
——薬師の職務の範囲だ。
そう言い聞かせた。
翌朝だった。
廊下でフランツとすれ違った。
「セラフィム殿。一晩中起きておいでだったのでは」
「殿下の執務室で」
「執務室で——」
「安眠剤を飲んでいただきました」
フランツの足が止まった。
「殿下が安眠のお薬を」
「驚かれますか」
「先代の薬師にも一度もお受けになりませんでした」
「一度も」
「眠れぬことをお認めになること自体お嫌だったのだと思います」
足が止まった。
先代にも飲まなかった薬を殿下が飲んだ。
四ヶ月前に「診るな」と言った人だ。
「セラフィム殿が何か特別なことをなさったのでしょうか」
「特別なことは何も。ただ甘くしただけです」
「甘く」
「殿下は苦い薬がお嫌いですから」
フランツが目を細めた。
「殿下は今」
「まだ執務室におられます。起こしに参った者が戻されました」
「戻された」
「『まだいい』と仰ったそうです」
——まだ眠っていたい。
「ありがとうございます」
調合室に戻った。
帳面を開いた。百十七番の横に書き加えた。
「投薬後入眠。翌朝まで覚醒なし。」
その日の夕刻。
殿下は何も言わなかった。
だが翌朝の執務室に杯が置いてあった。
昨夜の杯だ。洗って伏せてあった。
杯の傍に上着が畳んであった。昨夜肩に掛けた自分の上着だ。
次の日も。その次の日も。
殿下は一度も「持ってこい」とは言わなかった。
ただ杯が机にあった。
洗って。伏せて。同じ場所に。
百十八番目の安眠剤はその杯から始まった。
——殿下の呼吸が乱れた。
意識が引き戻された。
殿下の寝台が目の前にある。
毒に閉じられた目。浅い呼吸。
あの冬の夜と同じ寝息だ。
僕の薬で初めて眠った夜と同じ深さの。
帳面を膝の上で開いた。
百十七番。安眠剤。リンデン基剤。銀蛇草根七割。月白花少量。
殿下の入眠に必要な量。覚醒までの時間。
全部この帳面に書いた。そして控えに写した。
翡翠水は脂溶性の毒だ。
対象が眠りに入る時刻に合わせて血中濃度を設計する。
殿下の睡眠の記録がなければできない。
——僕が書いた控えにすべてある。
百十七番の頁を、誰かの指がなぞった。
僕が殿下の眠りを測った数字を、一つずつ。
帳面を閉じた。頁が指に貼りついた。
あの夜殿下の肩に掛けた上着の温度を思い出した。
拳を握った。
殿下の手に目が行った。
左手だ。指が動いた。
右手の次は瞼だった。瞼の次は左手。
回復が広がっている。
指がかすかに曲がった。
何かを掴もうとしているように見えた。
帳面を胸に抱いた。
控えに触れた者を突き止める。
殿下が目を覚ます前に。
殿下の眠りを奪った者の名前を。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
裏設定をひとつ。殿下は安眠剤を「持ってこい」と言いませんでした。代わりに洗った杯を毎晩机に置きました。これがこの人の精一杯のお願いです。命令なら何百回でもできるのに、お願いだけはできない人なんです。
「お前がいるだろう」を書いたとき、自分でもどきっとしました。殿下は「倒れたら起こせ」と言い訳をつけていますが、本当に伝えたかったのはその前のたった一言だと思います。セラフィムがそれに気づくのは、もう少し先です。
次回、第十四話「二百五十番目の手」。舞踏会前夜の話です。
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