第14話: 二百五十番目の手
殿下の指先が、氷のようだった。
毒が血の巡りを奪っている。ベルナールの見立て通りだ。脂溶性の毒は末端の血管を締め、体の中心にだけ熱を集めてしまう。指先から死んでいくように冷えていく。
杜松の実油を手のひらで温めた。指の股から一本ずつ、付け根から先へ擦り込む。殿下の手を両手で包み、動かした。
「……もう少しです」
声に出しても返事はない。閉じた瞼の下で瞳が動く気配もない。それでも話しかける癖が、三年ですっかりついていた。
「もう三年、こうしてお話ししています」
「今夜は、二百五十番目の処方の話をしましょうか」
「舞踏会の夜の話です」
指の関節が硬い。剣の稽古で作った皮膚の厚みが、掌の付け根に残っている。三年間、薬を渡すために数え切れないほど触れてきたはずの手だ。なのに今夜は、この手の冷たさだけが妙に胸に刺さった。
着任したばかりの頃は、この手に触れることさえ躊躇った。今はためらいもなく両手で包んでいる。三年が、薬師と主の境をどれほど曖昧にしたか。
油の瓶を持ち直したとき、栓から立った香りが鼻を抜けた。
杜松と、リンデンの仄かな甘さ。
——あの夜と、同じ匂いだった。
あれは、着任からもうすぐ三年。三度目の夏が近づいた頃のことだった。
夕刻、公爵邸の大広間には楽団の音合わせが響いていた。庭のリンデンが白い花をつけ、開け放たれた窓から甘い匂いが流れ込んでくる。
今宵は舞踏会だった。ヴァランティーヌ公爵家が三年ぶりに主催する夜会。跡取りとして殿下が社交の場に立つ、重要な意味を持つ夜だと聞いていた。
支度部屋の控えの間で待っていたとき、フランツに耳打ちされた。
「殿下のお手が、朝から冷たいのです」
「熱は」
「ございません。ただ、冷たいだけで」
「震えは」
「わずかに」
「緊張、でしょうか」
「殿下は緊張などなさいません」
「今宵だけは、そうとも言い切れないのでは」
「……セラフィム殿には、かないません」
フランツの声に迷いがあった。長年仕えた主のことを、この人さえ疑っている。
「隠れてなさるのですね」
「殿下らしいかと」
「診てまいります」
扉を叩いて入ると、殿下は姿見の前に立っていた。正装の襟を直す手が、止まっている。
「殿下。お手を」
「何だ」
「拝見します」
差し出された手を取った。
冷たい。氷というより、石だった。血の通っていない色をしている。
「異常はない。放っておけ」
「異常はございます。この冷たさで杯も持てません。ダンスの相手の手を取ったとき、気づかれます」
殿下の眉がわずかに動いた。図星だったのだろう。
「……お前に指図される覚えはない」
「殿下。血の巡らない体は毒と同じです。留まれば、いずれ体に障ります」
「大げさだ」
殿下が弱さを見せたがらないことは、よく知っていた。頭痛も、不眠も、いつも「大したことはない」の一言で片づけられてきた。
「今回も、そう仰るのですか」
「……」
「大げさではありません。もうすぐ三年、殿下のお体を診てまいりました」
「口が回るようになったな」
「殿下に教わりました」
碧い目がこちらを見た。値踏みするような視線は着任の日と変わらない。だが、もう怯まなかった。
「殿下は今宵、大勢の前に立たれます。手が震えていれば、公爵家の名に傷がつきます」
沈黙が落ちた。
殿下が視線を逸らした。
「……好きにしろ」
許可だった。
「何をする気だ」
「温めます。油で」
「油だと」
「杜松の実とリンデンです。お体に障りはございません」
「苦いのか」
「いいえ、香りだけです」
油を手のひらで温め直し、殿下の手を取った。
指の一本ずつ、付け根から先へ擦り込んだ。掌の硬い皮膚。剣だこの盛り上がり。骨の形。三年近く、薬を渡すために何百回と触れてきたはずの手なのに、今夜は違う手のように感じた。
手首まで油を伸ばしたとき、脈打つ場所に指が触れた。
「ここに塗ると、一番早く体温が指先まで届きます」
「詳しいな」
「薬師ですから」
「甘い匂いだな」
「リンデンです。殿下がお嫌いではないと存じておりますので」
「……よく見ている」
「薬師ですから」
「他には」
「殿下が苦い薬をお嫌いなことも」
指の下で、脈が速くなった気がした。
「痛みますか」
「……いや」
「殿下」
「何だ」
「お加減が悪ければ、今夜は控えても」
「行く」
即答だった。
「なぜそこまで」
「公爵家の跡取りが舞踏会を欠席すれば、何を勘繰られるか分からん」
「それだけで、殿下は動かれるのですか」
「……それ以外に理由が要るか」
「いいえ、何も」
理由は正しい。だが、目が合わなかった。
油を塗り終えた両手を、自分の手のひらで包んだ。しばらくそのままでいた。殿下は何も言わなかった。振り払いもしなかった。
やがて、殿下の指がわずかに動いた。
握り返すように。
息が止まった。
——これは、薬師の仕事の範囲を超えている。
分かっていた。分かっていて、手を離せなかった。
殿下の手のひらの熱が、自分の手に移ってくる。着任の日は「毒なら舌で分かります」と言い切った自分の舌でも、この感情の名前だけは分からなかった。
——いや。
分かっている。分かっていて、名付けることを避けてきただけだ。
名付けたら、薬師ではいられなくなる。
手を離した。名前は、飲み込んだ。
扉が叩かれた。
「殿下、お時間でございます」
フランツの声だった。
「お加減はいかがでした」
「温まりました」
「それは重畳。皆様お待ちです」
「分かった」
「セラフィム殿、よくぞご説得くださいました」
「説得はしておりません。お願いしただけです」
「殿下がお願いを聞き入れられるのは、珍しいことでございますよ」
殿下が手を引いた。名残惜しさなど見せない、いつもの仕草で。
「行くぞ」
「はい」
支度部屋を出ると、廊下の先に見知らぬ青年が立っていた。栗色の髪に柔らかな顔立ち。深く一礼して、殿下に微笑みかけている。
「初めまして。オリヴィエ・ド・ブラシュと申します。以後、お見知りおきを」
殿下が短く頷いて通り過ぎた。オリヴィエと呼ばれた青年の視線が、一瞬だけこちらに流れた。
燭台の明かりが栗色の髪を柔らかく照らしていた。仕立ての良い上着。物腰に隙がない。
「あなたが、専属の薬師殿ですね」
「セラフィムと申します」
「舌だけで毒を見抜くと。噂はかねがね。楽しみにしております」
「殿下のお加減が良くなられますよう」
「ありがとうございます」
人当たりの良い笑みだった。それだけの印象しか残らなかった。
大広間へ向かう足音が遠ざかる。
支度部屋にひとり残った。
油の瓶に蓋をした。
手のひらに、まだ殿下の熱が残っている気がした。
——匂いが、変わった。
杜松の甘さが遠のき、代わりに苦い匂いが鼻を刺した。
意識が戻った。
殿下の寝台の傍だった。
両手の中に、殿下の手がある。冷たさはまだ抜けきっていない。だが、さっきよりわずかに温かい。
帳面を膝に引き寄せた。二百五十番目の頁を開いた。
「処方第二百五十番。温浴油。殿下。手指の冷え。」
配合。杜松の実。リンデン油基剤。
その下に、自分の字でこう書いてあった。
「脈打つ場所に塗布。体温、指先まで最速で到達。」
指が止まった。
温めるために書いた一文だった。だが同じ一文は、何かを最も早く全身に回すための一文でもある。
油でも。
毒でも。
喉の奥が渇いた。
リュカの記録帳から切り取られていた四頁目に、同じ記述があったなら。あの夜、殿下の血に流れ込んだ翡翠水は、この手首から入れられたのかもしれない。
「……リュカ」
声に出してみたが、答えは返らない。
殿下の手首に指を戻した。脈を測る。弱いが、ある。
あの夜と、同じ場所に指が触れている。
「……殿下」
声に出したが、返事はない。
「もう少しだけ、待っていてください」
誰かがこの頁を読んだのなら。
殿下の体のどこから何を入れれば最も早く回るのか、この帳面から学んだのなら。
帳面を持つ手に力がこもった。
温めるために書いた知識が、殺すための知識になっていた。
「……許さない」
「必ず、お起こしします」
「目を開けたら、この手で薬をお渡しします」
殿下の指先を見た。
あの夜、握り返してきた手だ。今は毒に閉ざされ、同じ場所でただ温もりを待っている。
廊下に足音がした。
フランツの足音ではない。踵の硬い、聞き覚えのない歩調だった。
足音は、扉の手前で止まった。
息を潜めた。
扉は、叩かれなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十四話は「手」の話です。第十二話は蝋燭で、第十三話は寝息で回想に出入りしましたが、今回は匂いにしました。杜松とリンデンの香りがあの夜と今夜を繋ぎ、その香りが苦い匂いに変わる瞬間に現在へ引き戻される——そういう作りにしています。
殿下の手を温めるための一行が、そのまま毒を回すための一行にもなる。愛情のために書いた記録が凶器の設計図に変わるという構図は、この作品の一番苦いところだと思って書きました。セラフィムが想いの名前を知りながら口にしない瞬間も、今回のための大事な場面です。分かっているのに名付けない。名付けたら薬師でいられなくなるから。彼はこの夜もまた、名前を胸の奥に押し込みました。
オリヴィエが初めて姿を見せた夜でもあります。当時のセラフィムにとっては、ただの感じの良い青年でした。この「それだけの印象しか残らなかった」という一文の重さは、読者の皆さんの方がよくご存知だと思います。
次回、第十五話「善人の仮面」。オリヴィエが協力を申し出てきます。
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