第8話: 調合記録の照合
鞄の留め金が、冷たい音を立てた。
指先はまだ痺れている。視界の端に白い霞が残っている。
翡翠水を舌に載せた代償だ。
だが手は動く。手が動くならば薬師は仕事ができる。
「ベルナール殿。解毒を始めます」
振り返らずに言った。背後でベルナールの足音が一歩近づいた。
「もう調合できるのか」
「成分が分かりました。応急の解毒剤なら手持ちの材料で足ります」
「何が要る」
「水と乳鉢をお借りします。それと——灯りをもう一つ、枕元に」
寝台の脇に薬材を並べた。
旅の鞄の底にいつも入れてある。薬師の非常用一揃いだ。
翡翠水は三つの成分で構成される。
鉱物系の渋み。植物性の鋭さ。脂溶性の媒体。それぞれに対応する中和剤を配合する。
問題は比率だった。
翡翠水は対象の体に合わせて調整される毒だ。殿下に盛られた翡翠水は殿下の体にだけ効く比率で組まれている。
解毒もまた殿下の体に合わせなければならない。
他の薬師にはできない。
殿下の食事量を知らない。睡眠の深度を知らない。三年分の服薬の履歴を知らない。
セラフィムは知っている。すべて。
乳鉢を手に取った。
薬草を砕く音が暗い部屋に響く。
フランツが燭台を枕元に寄せてくれた。
灯りに照らされた殿下の顔は蒼白だった。汗が額から頬にかけて筋を引いている。呼吸のたびに薄い唇が震えた。
目を逸らさなかった。逸らせば手元が狂う。
殿下の体重を記憶から引き出す。脈拍から代謝の速度を逆算する。
鉱物系の渋みを中和するのに必要な量を割り出す。多ければ肝臓に障る。少なければ毒に届かない。
指先が痺れている。判断力が鈍っていないとは言い切れない。
出した数字をもう一度頭の中で検算した。合っている。
三年間、体調の変化に応じて配合を変えながら、三百十二回の処方を重ねてきた。
安眠剤ひとつにも同じだけの手間をかけた。
その薬を殿下は「効かなかった」と仰った。
手が止まりかけた。
振り払う。今は効いてもらわなければ困る。
ふたつ目の成分を加えた。植物性の鋭さを和らげる煎剤。
みっつ目。脂溶性の媒体を分解する苦い粉末。
三つの中和剤を乳鉢の中で合わせた。白い液体が渦を巻く。
匂いを確かめた。舌ではなく、鼻で。痺れた舌にこれ以上毒を載せるわけにはいかなかった。
薬草の青い匂い。正しい配合の匂いだ。
「できました」
小さな杯に注いだ。
意識のない者に液体を飲ませるのは危険を伴う。気管に入れば窒息する。
「顎を支えよう」
ベルナールが寝台の反対側に回った。医者の手で殿下の顎をわずかに持ち上げる。
「セラフィム殿。頭をお支えいたします」
フランツの手が殿下の後頭部を受けた。一晩中この枕元にいた手だ。老いてもなお安定していた。
セラフィムは殿下の唇に杯を当てた。
罅割れた唇。灯りの下で乾いた肌が光る。
数滴だけ、殿下の唇に垂らした。
呼吸を見る。気管に入っていないか。胸の動きに乱れはないか。
二拍待った。異常はない。
もう少しだけ傾ける。
殿下の喉が——動いた。
飲んでいる。
意識はないはずだ。それでも体が液体を受け入れている。
三年間、この手で薬を渡してきた。殿下は無言で受け取り、無言で飲み干した。それが日常だった。
体が覚えているのだろうか。この手からの薬を。
一口ごとに呼吸を確かめながら飲ませ、杯が空になった。
殿下の喉仏が最後にひとつ上下した。
「あとは待ちます。効き目が出るまで半刻ほど」
長い半刻だった。
セラフィムは殿下の手首に指を当てたまま動かなかった。脈を数えている。速い。浅い。不整がある。
まだ変わらない。
フランツが椅子に沈むように腰を下ろした。ベルナールは壁際に背を預け、腕を組んだまま目を閉じていた。
半刻が過ぎた。
燭台の蝋が半分に減った頃、ようやく熱のわずかな変化を指先が拾った。
だがまだ足りない。配合を微調整し、二度目の解毒剤を飲ませた。
窓の光が傾き、遮光布の隙間から差す筋が壁を伝って消えた。日が暮れた。
三度目の投薬。四度目。そのたびに殿下の脈を取り、呼吸の深さを聴いた。
夜が来て、燭台を替え、また夜が更けた。
窓の遮光布の隙間から冷たい風が入り込んでいた。夜明けが近い。
「セラフィム殿。お顔の色が良くありません」
フランツの声だった。昨日、到着した直後にも同じことを言われた。
「微量です。大丈夫です」
大丈夫ではなかった。翡翠水を舌に載せた痺れはまだ消えていない。
だがそれを言えば、この場に自分がいる理由が揺らぐ。
殿下の脈がひとつ打った。
もうひとつ。
——乱れが、整ってきている。
「反応があります」
声が掠れていた。自分の喉もとうに限界を越えている。
殿下の呼吸が変わった。浅く細かった息が少しだけ深くなる。額の汗が引き始めた。
「……熱が下がり始めています」
ベルナールが壁を離れ、殿下の額に手を当てた。
「……確かに。先ほどより下がっている」
安堵の滲んだ声だった。だがセラフィムは首を振った。
「応急処置です。翡翠水は脂に溶けて全身に回っています。体の表層の毒を中和しただけで、奥にはまだ残っている」
「完全な解毒には」
「日数がかかります。殿下の体の変化を日ごとに診ながら配合を変えなければなりません」
ベルナールの目がセラフィムに戻った。
「それができるのは」
「僕だけです」
言い切った。
「セラフィム殿」
フランツが一歩踏み出した。
「お体が限界です。その舌で、これ以上は——」
「フランツさん」
遮った。声は穏やかだったが、視線だけは退かなかった。
「限界でも、殿下の体を知っているのは僕だけです」
傲慢に聞こえただろうか。だが事実だった。殿下の体を三年間診てきた薬師は、この世に一人しかいない。
ベルナールが腕を組み直した。
「率直に訊く。犯人に心当たりはあるか」
「断定はできません。ですが条件は絞り込めています」
セラフィムは殿下の手首を静かに寝台の上に戻した。
「昨日申し上げた通りです。殿下のお食事の量も不眠も服薬の履歴もすべて知っている者です。殿下のお体を知る者です」
「そしてその条件に、君自身も当てはまる」
「当てはまります」
迷わなかった。ベルナールの目が細くなったが、そこに疑いの色は見えなかった。試すような光のように見えた。
「自分が疑われうると承知の上でここにいるのか」
「僕が犯人なら殿下を解毒する理由がありません」
「それはそうだ」
「ベルナール殿。確かめたいことがあります」
「何だ」
「リュカの薬杯が片づけられていた件です。毒殺未遂の現場で薬杯だけが消えていた。誰の指示ですか」
ベルナールの表情がわずかに動いた。
「分からん。我々が駆けつけたときには既になかった」
「薬の残りも」
「ない。杯ごと消えていた」
消えていた。
毒が入っていたとすれば——証拠ごと。
「もうひとつ」
「何だ」
「侍女のマルタの証言です。殿下はここ二日ほとんど食事を取らずリュカの薬にも手をつけておられなかった」
「私もそう聞いている」
「なのにあの夜に限って何かを口にされた。もしそれがリュカの薬杯だとすれば——二日間拒んでいた薬を飲む理由が要ります」
フランツが顔を上げた。
「何があったのでしょう。殿下がなぜあの夜だけ——」
「まだ分かりません。ですが調べなければ分からないままです」
セラフィムは立ち上がった。
膝に殿下の指の温度がまだ残っている気がした。昨日、無意識に触れてきた指の温もりが。
窓の遮光布の隙間から白い光が差し込んでいた。夜が明ける。
「ベルナール殿」
「何だ」
「僕はもう殿下の専属薬師ではありません。契約は解除されています」
声に感情を混ぜなかった。事実だけを述べた。
「宮廷に留まる資格のない人間です。冷却期間の規定があり同格以上の家に仕えることもできません」
「……そうだった」
「ですが殿下の解毒ができるのは僕だけです。翡翠水の成分を特定できる舌はラヴェール家にしかない」
鞄の上に手を置いた。帳面五冊が入っている鞄だ。
「お願いがあります。殿下の解毒を僕に任せてください。その代わり——」
一度、息を吸った。
視界の端が白く滲んだ。膝が震えているのを、鞄の取っ手を握る力で抑えた。
「——調合記録の照合をさせてください」
「調合記録の照合」
「弁明ではございません」
声が変わった。自分でも分かった。震えが消え、芯だけが残った声だった。
「調合記録の照合でございます」
ベルナールが口を引き結んだ。
「この帳面には三年分の処方が記録されています。日時も成分も分量も——すべてが殿下のお体に合わせた記録です。翡翠水を調合するには殿下の体質を正確に把握する必要がある。僕の記録と照合すれば犯人がどの情報をどこまで持っていたか特定できます」
「……犯人の輪郭を記録から逆算すると」
「はい。引き継ぎの際にリュカに伝えた情報もすべて覚えています。何を伝え何を伝えなかったか」
ベルナールが長い息を吐いた。
「リュカを疑っているのか」
「疑っているのではありません。記録を照合するだけです」
「……いい度胸だ」
ベルナールの口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれなかった。
「医務室長の権限でできることには限りがあるが、殿下の解毒に必要な措置として君の滞在を認めることはできる。公爵閣下には私から報告を上げておく」
「ありがとうございます」
「条件がある。調合室と薬材の調査は私の立ち会いのもとで行え。宮廷の規律を逸脱するわけにはいかん」
「承知しました」
「フランツ」
ベルナールが老家令に目を向けた。
「殿下の身辺のことは君が一番知っている。協力を頼めるか」
フランツが椅子から立ち上がった。深く頭を下げる。
「もとよりそのつもりでございました」
掠れた声の中に硬い芯があった。
「セラフィム殿がお戻りになったときから——私はそう信じておりました」
ベルナールが部屋を出た。
医務室の薬師たちに指示を出すためだった。
部屋には三人が残された。
眠り続ける殿下。フランツ。そしてセラフィム。
セラフィムは椅子を寝台の傍に引き寄せ、腰を下ろした。
殿下の呼吸を聞く。先ほどより穏やかだ。解毒剤が効いている。
だが意識はまだ戻らない。
鞄から帳面を一冊取り出した。
一番古い一冊だ。着任初日からの記録。
表紙に日付が書いてある。三年前の春。
頁を開く前に、膝の上の帳面の重さを確かめた。
三年分の処方箋。三年分の殿下の体の記録。
——そして三年分の、名前をつけられない想いの重さ。
薬師が主に恋慕を抱くことは禁忌だ。
その契約はもう解かれた。
だからといって想いが許されるわけではない。帳面を抱く腕がかすかに震えた。
自分がここにいるのは薬師としてだ。
殿下の命を守り、毒を解き、犯人を暴く。
それだけが今の自分に許された理由だ。
「フランツさん。少しお休みになってください。殿下のおそばには僕がおります」
「いえ。私もここに」
「……ありがとうございます」
帳面の表紙を開いた。
一行目。
「処方第一番。鎮痛剤。殿下。頭痛。」
三年前の自分の筆跡だった。
ここから始まる。三百十二の処方箋を一つずつ辿り、殿下の体を知りうる者の輪郭を浮かび上がらせる。
窓の向こうで朝が白く広がっていた。遮光布の隙間から差し込む光が帳面の上に細い筋を引く。
殿下の呼吸が穏やかに繰り返されていた。
今はまだ眠っている。
だが毒を解けばこの人は目を覚ます。目を覚ませば、「お前の薬など三年間一度も効いたことがない」と言った、あの声が戻る。
痺れの残る舌が疼いた。毒の代償か、それとも聞きたい声を想っての渇きか。
それでいい。
あの声が、聞きたかった。
頁をめくった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
Arc1「薬師の追放」が完結しました。「弁明ではございません。調合記録の照合でございます」——この台詞は企画段階から決まっていた言葉です。全八話をかけてこの一言を言わせるために、セラフィムの有能さと献身と痛みを積み上げてきました。弁明ではなく照合。感情ではなく記録。そう言い切れる冷静さの裏にある想いの深さを読み取っていただけたなら嬉しく思います。
裏設定をひとつ。翡翠水の解毒は本来もっと時間がかかります。セラフィムが応急処置に成功したのは、三年間の処方箋が殿下の体のデータベースになっていたから。「効かなかった」と言われた薬の一つ一つが今この瞬間殿下を生かしている——この皮肉がArc2以降で効いてきます。
Arc2「三百十二の処方箋」では帳面の中身がいよいよ動き始めます。処方の記録を辿ることは殿下の体を辿り直すこと。薬師と主の三年間を一頁ずつ。お付き合いいただけたら幸いです。
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