第7話: 舌の上の毒
王宮の石畳に、蹄が滑った。
馬が前のめりに崩れる。
限界だった。
セラフィムは鐙を蹴って飛び降りた。
「ラヴェール家のセラフィムです。医務室長殿に呼ばれて参りました」
声が掠れていた。
何時間も風を切り続けた喉だ。
門衛が駆けてきた。
「お待ちしておりました。すぐにご案内いたします」
「お願いします」
鞄を抱え直して走った。
帳面五冊が重い。
三百十三番の瓶が布越しに揺れた。
門衛の背を追い、長い回廊を駆ける。
窓から差す昼の光がまぶしかった。
ここまで何刻かかったのか、もう数えていない。
医務室の前に白衣が三つ並んでいた。
モンテーニュ家の紋章。
疲れ切った顔が揃っている。
一晩中ここにいたのだろう。
奥の扉が開いた。
出てきたのは白髪の男だった。
深い隈。捲り上がったままの袖。
「ラヴェール家の薬師か」
「セラフィムです。医務室長殿ですか」
「ベルナール・モンテーニュだ。よく来てくれた」
ベルナールの目がセラフィムの白衣を見た。
薬草の染みだらけの白衣を。
「道中お疲れだろう。だが時間がない」
「殿下が倒れてから何時間経ちましたか」
「もう十四時間を越えている」
十四時間。
弱った体で、毒と戦い続けている。
「状態を教えてください」
「昨夜十時過ぎ、殿下が執務室でお倒れに。意識なし。高熱。嘔吐なし。今も変わらず」
「嘔吐がない」
「ああ。食物の急性毒なら胃が拒絶する。それがない」
「食事は除外ですね」
「同じ膳の三名は無事だ」
「何を試されましたか」
「解毒の基本三種。胃洗浄。冷却。全て反応がない」
「毒の特定は」
「できていない」
ベルナールの声が低くなった。
「色もない。匂いもない。うちの者が三人がかりで舌に載せた。何も掴めなかった」
「何も」
「苦味も辛味も酸味もない。気配だけはあるのに、正体が掴めん。我々の舌では届かなかった」
「……それで、ラヴェール家の舌を」
「すまない。契約を解かれたばかりだと聞いている」
「構いません」
間を置かず答えた。
「僕はまだ殿下の体を知っています」
「……ありがたい」
「晩餐以外に殿下だけが口にしたものは」
「後任の薬師が持ってきた薬だ」
「リュカの薬ですね。残りは」
「杯が片づけられていた。残っていない」
片づけられていた。
毒殺未遂の現場で、薬杯だけが。
「リュカ殿は今どちらに」
「控えの間に待機させている」
「他に殿下だけが口にしたものは」
「ない。殿下は食が細い。膳もほとんど手をつけておられなかった」
殿下の食の細さは、三年間見てきた通りだ。
だが引っかかった。マルタはここ二日、リュカの薬にも手をつけないと言っていた。
なぜその夜に限って口にしたのか。
「殿下に会わせてください」
「この先だ」
扉が開いた。
薄暗い部屋だった。
窓の遮光布が下ろされている。
枕元に燭台がひとつだけ灯っていた。
寝台に人が横たわっている。
黒い髪が枕に散っていた。
隙のない身なりはどこにもない。
汗に濡れた肌だけが暗がりの中で白く浮いている。
殿下。
声にはならなかった。
足が止まった。呼吸を忘れていた。
鞄の取っ手を握る手が白くなっていることに気づかなかった。
「セラフィム殿」
寝台の脇にフランツが立っていた。
椅子から立ち上がったのだろう。
掠れた声だった。
「来てくださいましたか」
「はい。遅くなりました」
「いいえ。——殿下は、このままです。ずっと」
「お一人でついていらしたんですか」
「薬師の方々が何度もお見えになりましたが……結局、私が残りました」
「フランツさん。少し壁際に」
「はい」
フランツが退いた。
その足がかすかにふらついた。
一晩中座っていたのだ。
セラフィムは寝台の傍に膝をついた。
殿下の顔を見た。
頬が赤い。だが熱の色だ。
唇が乾いて罅割れている。
呼吸は浅く、時折揺れた。
あの日、この人の前に立っていた。
「お前の薬など三年間一度も効いたことがない」と言われた。
あの日、殿下はこちらを見なかった。
今は目を閉じたまま動かない。
手を伸ばした。
額に触れた。
——熱い。
手首を取る。脈を診る。
三年間、毎朝こうしてきた。
速い。浅い。不整がある。
三年間、この脈が乱れたことは二度しかなかった。
着任直後の頭痛。高熱のあの夜。
三度目が毒だとは。
マルタが言っていた。
ここ二日、ほとんど食事を取っていなかったと。
弱った体に毒が回る。
残された時間は長くない。
「ベルナール殿」
振り返った。
扉のそばで腕を組んでいた医務室長が目を上げた。
「殿下のお体から直接、毒の痕跡を味見します」
「直接だと」
「ラヴェール家の舌は、体表の汗に溶けた毒を検知できます。濃度が百の一でも」
「聞いたことはある。だが見たのは初めてだ」
「今はこれしか手がありません」
鞄から清潔な布を取り出した。
分析用の白い布だ。
殿下の左手を取った。
袖を捲る。
手首の内側。肌が薄い。
血管が透けて見える。
汗が薄く光っていた。
熱のせいだ。
人差し指をその肌の上に滑らせた。
汗の膜をすくい取る。
「——」
ベルナールが息を呑んだ気配があった。
セラフィムはその指を、自分の唇に運んだ。
舌の上に載せた。
壁際でフランツが目を逸らした。主の肌に触れた指を唇に運ぶ所作を、正視できなかったのだろう。
目を閉じた。
最初に来たのは塩味。
汗の味。それは当然だ。
その下を探る。
舌を動かす。
唇の裏へ。歯茎の脇へ。
味を転がす。
薄い膜を引き伸ばすように。
——あった。
苦味ではない。甘味でもない。
名前のつかない味が、舌の奥で微かに震えている。
もう一度。
殿下の手首から肘の内側へ指を走らせた。
そこにも汗が浮いていた。
指に取り、舌に載せる。
少し強くなった。
輪郭が浮かび上がる。
ひとつ。鉱物系の渋み。
かすかだが確かにある。
ふたつ。植物性の鋭さ。
銀蛇草に似ている。だがもっと細い。
みっつ。脂溶性の媒体。
体の脂に溶けて全身に回る種類のもの。
嘔吐がなかった理由はこれだ。
胃を素通りする。
消化管を刺激しない。
だから体が拒絶できなかった。
「セラフィム殿」
フランツの声が遠くから届いた。
「お顔の色が」
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
舌の奥が痺れ始めている。
微量でも毒は毒だ。
自分の体にも入っている。
視界の端が白く霞んだ。床が傾ぐ。寝台の縁を掴んで堪えた。
だが、あと一箇所。
ここで止めるわけにはいかない。
殿下の襟元に指を伸ばした。
首筋。鎖骨の窪み。
汗が溜まっていた。
ここが一番濃い。
指に取った。
舌に載せた。
——来た。
三つの成分が、舌の上で重なった。
鉱物の渋み。植物の鋭さ。脂溶の媒体。
この組み合わせ。この比率。
母の書庫で読んだ古い毒物図鑑。
ラヴェール家にだけ伝わる禁忌の毒の一覧。
その中にひとつだけ。
すべての条件が一致する名前があった。
「……翡翠水」
目を開けた。
自分の声がひどく乾いていた。
水差しに手を伸ばした。
水を口に含み、布に吐いた。
もう一度。もう一度。
三度漱いで、ようやく指先の震えが止まった。
痺れはまだ舌の奥に残っていた。
「何と言った」
ベルナールが一歩詰めた。
「翡翠水です」
「聞いたことがない」
「ラヴェール家の毒物図鑑にしか載っていません。ご存じないのは当然です」
「どういう毒だ」
「鉱物と植物の複合毒です。無色。無臭。味もほとんどない。通常の舌では検知できません」
「だから我々には」
「はい」
「解毒はできるのか」
「成分が分かれば可能です。時間と材料は要りますが」
ベルナールの目に安堵が走った。
だがセラフィムは首を振った。
「問題は解毒の方ではありません」
「何だ」
「この毒は、誰にでも盛れるものではないんです」
声が自然と低くなった。
「翡翠水は、対象の体に合わせて配合を変えなければ効きません」
「どういう意味だ」
「食の量。眠りの深さ。服薬の履歴。それらに合わせて成分の比率を調整する。殿下の体を知らない者が調合しても、ただの水にしかなりません」
部屋が静まった。
燭台の炎だけが微かに揺れている。
「殿下のお食事を知っている者。殿下の不眠を知っている者。殿下がどんな薬を飲んでいたか知っている者」
一つずつ数えた。
「犯人は——殿下のお傍にいた人間です」
フランツが声を呑んだ。
「お傍に……」
「ええ。殿下の体をここまで知りうる者は多くありません」
セラフィムの目が寝台の上のディートリヒに戻った。
その条件のすべてに、自分は当てはまる。
三年間、この人の体を誰よりも知っていた薬師。
そして——その知識を引き継いだはずの者も。
リュカの白い指が脳裏を過ぎった。
薬草の染みがない、白い指。
味見をしない薬師。
オリヴィエの声が耳の奥に残っている。
——引き継ぎは不要です。
不要だった。
引き継ぎが、ではない。
セラフィムが。
そのとき——殿下の手が動いた。
寝台の縁から垂れた指が、セラフィムの膝に触れた。
意識はない。
熱にうなされた体が、近くの温度を探しただけだろう。
触れられた場所に、殿下の熱が伝わってくる。自分の体にはまだ翡翠水の痺れが残っていた。毒を分かち合っている、と思った。
三年前の夜を思い出す。
高熱の殿下が裾を掴んだ、あの一晩だけの夜。
「……僕はここにいます、殿下」
聞こえるはずがない。
それでも言った。
殿下の指は動かなかった。
ただ触れているだけだった。
それだけで十分だった。
毒を解く。犯人を暴く。
翡翠水は、殿下の体を知る者にしか調合できない。
帳面五冊。三百十二の処方箋。
三年分の記録の中に、殿下の体を知りうる者の輪郭がある。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第七話「舌の上の毒」をお届けしました。舌で毒を味わう場面は、この物語で最初から書きたかったシーンのひとつです。殿下の肌に触れ、その汗を自分の舌に載せる——薬師としての技であると同時に、どうしようもなく親密な行為でもあります。セラフィム自身はあくまで職務として振る舞っていますが、三年分の記憶がそう簡単に割り切らせてくれるはずもなく。
翡翠水という毒を設計したとき、「殿下の体質を知らなければ調合できない」という条件を付けました。これが犯人を絞り込む鍵になります。次回、三百十二の処方箋がいよいよ武器として動き始めます。
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