第6話: 殿下が、倒れた
蹄の音が、止まった。
門の前だった。
息を荒げた馬が嘶く。一頭ではない、二頭。
昨夜、遠ざかっていったはずの音が——戻ってきた。
セラフィムは眠れないまま窓辺にいた。
ミントの葉を口に含んだのは、もう何枚目か数えていない。
噛んでは吐き、また新しい葉を取る。眠れない夜の癖だった。
夜明け前の空がようやく白み始めている。
三百十三番の瓶は、夕べ置いた窓台の上にある。
琥珀色の液体が薄闇の中で鈍く沈んでいた。
何をするでもなく、ただ庭を眺めていた。
暗がりの中でもカモミールの白い花弁だけは見える。
母が植えた株だ。
三年経っても同じ場所で咲いている。
殿下は今夜も眠れているだろうか。
リュカの薬に手をつけないと、マルタが言っていた。
——もう、自分が気にかけることではない。
そう思った瞬間、蹄の音が聞こえた。
階下で門が叩かれた。
重い音。礼を守る叩き方ではない。
返事を待たず、もう一度。三度。
トマの声が応じた。
「こんな朝早くに、何の御用ですかな」
低い声がそれに被さる。
聞き取れなかった。だが声の調子だけで分かる。
急いでいる。
指先に、細い痺れが走った。
階段を降りた。裸足のまま、上着だけを引っ掛けて。
門のところにトマが立っていた。
半開きの扉の向こうに二人の男。
濃紺の外套。胸元に紋章。王宮の伝令だった。
馬は二頭とも汗で光っている。
蹄鉄の跡が門前の土を深く抉っていた。
「ラヴェール家のセラフィム殿でございますか」
伝令の一人が息を整えもせずに言った。
「そうですが。何があったのですか」
「王宮医務室より火急の沙汰でございます」
伝令が居住まいを正した。
疲労の滲んだ顔の中で、目だけが鋭い。
「ヴァランティーヌ公爵家嫡男ディートリヒ殿下が——昨夜遅く、お倒れになりました」
胸の奥で、心臓が大きくひとつ跳ねた。
「倒れた」
繰り返す。音を辿るように。意味を掴むために。
「殿下が——倒れた」
口の中のミントの葉が味を失っていた。
いつの間にか噛み潰している。
「状況を教えてください」
声が変わったのが自分でも分かった。
薬師の声だ。
背筋が伸びる。呼吸が整う。
「昨夜の晩餐後、殿下が執務室でお倒れになっているのを側近が発見いたしました」
「意識は」
「ございません。高い熱が出ておいでです」
「いつ頃のことですか」
「深夜十時を過ぎた頃と聞いております」
深夜十時。
昨夜、蹄の音を聞いたのもそのあたりだった。
あの馬はこの伝令だったのか。
「何を口にされましたか」
「晩餐の膳は他の方々と同じものでございます。殿下おひとりだけが」
殿下だけ。
膳に混ぜたのではない。
殿下にだけ渡ったもの。
「同じ膳を取られたのは何名ですか」
「三名と聞いております。いずれもご無事です」
食事か。飲み物か。薬か。
殿下は食が細い。ここひと月は特に。
他の者と同じ膳なら、食事は除外できる。
「晩餐の前後に、殿下だけが口にされたものは」
「……申し訳ございません。そこまでは」
「お茶や菓子は。薬は」
伝令が首を振った。
「医務室の者から詳しいことはお聞きになれるかと」
そうだろう。伝令は伝令だ。医学の詳細まで委ねられてはいまい。
だがもうひとつだけ。
「後任の薬師はどうしましたか」
「リュカ殿のお薬では殿下のお体に変化がございませんでした」
伝令は一度言葉を切った。
「王宮医務室のモンテーニュ家の薬師も三名お集まりになりましたが——毒の正体が分からぬ、と」
指先が冷えていく。
モンテーニュ家の薬師が三人がかりで分からない毒。
リュカにも手が出なかった毒。
常道の毒ではない。
「殿下のお体の様子は。嘔吐はありましたか」
「嘔吐は無いと聞いております。高熱と、意識の混濁のみ」
嘔吐がない。
食物経由の急性毒なら胃が拒絶する。
それがない。遅効性か、消化管を経由しない毒だ。
喉の奥が詰まった。次の問いを出す前に、一度息を整えなければならなかった。
「それで、僕のところに」
「はい。ラヴェール家の舌の技をお持ちの方でなければと」
「医務室長が」
「左様でございます」
ラヴェール家の舌。
百の一の毒を言い当てる、一族に伝わる技。
つい先日「要らない」と言われたその技が——今、必要だと。
息を吐いた。長く、深く。
「僕の薬が効かなかった? それは面白い冗談ですね」
伝令が面食らった顔をした。
セラフィムは首を振った。
独り言だ。あの日への、遅すぎる返答。
「この三年間、殿下が一度でも体調を崩しましたか」
伝令が黙った。
「——一度も、ございませんでした」
声は静かだった。胸の底だけが重く沈んで、浮き上がらなかった。
伝令に水を出すようトマに頼んだ。
二人が井戸端に下がった。
セラフィムは門柱に背を預けた。
唇が乾いていた。寒さではない。
昨日ここに着いたばかりだ。
母が「好きなだけいなさい」と言ってくれた庭。
ようやく息がつけると思った。
一日。たった一日の安息だった。
「若様」
トマが戻ってきた。
盆も水差しも持っていない。
「行くおつもりですね」
問いではなかった。そう言い切る声だった。
「……分かりますか」
「顔を見れば分かります。三つの頃からお顔を見ておりますから」
トマの目は穏やかだった。
責めるでもない。止めるでもない。
ただ、知っている目。
「契約は解かれたのに」
「はい」
「あの方は、僕の薬など効かなかったと仰ったのに」
「はい」
声が震えた。
「——それでも行かなければ、僕は僕でなくなる」
トマが何も言わずにうなずいた。
麦わら帽子の縁を指でなぞりながら、少しだけ目を細めた。
「お支度を。馬は伝令の方にお借りするのがよろしいでしょう。あの子たちは速いですから」
「トマ。水を余分に一袋、用意してもらえますか」
「はい。薬草の鞄はそのままお持ちですか」
「持っていきます。帳面も全部」
「よろしゅうございました。解いていなくて」
昨日着いたばかりだ。荷解きなど、まだしていなかった。
部屋に戻った。
鞄を開ける。昨日閉じたばかりの鞄を。
帳面を確かめた。五冊。
三年分の調合記録。
すべてがここにある。
リュカはこの帳面を見なかった。
見る必要がないと、オリヴィエが言った。
窓台の三百十三番の瓶に手を伸ばした。
琥珀色の液体に朝日が差し込んでいる。
鞄に入れた。布に包んで、底へ。
机の引き出しを開けた。
殿下への手紙。白紙のまま。
昨夜、「拝啓、ディートリヒ様」の先が続かなかった紙。
引き出しに戻した。
今は言葉より先に手が要る。
鞄の上に畳んだままの白衣があった。
もう着ることはないと思った服。
着る人間のいなくなった白衣。
広げた。
袖を通した。
三年分の薬草の匂いが肩から立ち上る。
抜けなくていい。
この匂いごと、戻る。
袖口のボタンを留めた。
指先の薬草の染みが、今は頼もしかった。
階下で声がした。
「若様、水袋と乾菓子をお入れしました」
「ありがとう、トマ」
門の前に出た。
伝令の一人が馬を引いている。もう一人が鐙を押さえて待っていた。
白衣のセラフィムを見て、二人の目がかすかに変わった。
「お待たせしました。すぐに参ります」
「殿下の元に一番速い道は」
「お馬は疲れております。お屋敷に替え馬はございますか」
「トマ、馬を一頭出せますか」
「すぐに」
「街道をまっすぐ参ります。替え馬なら昼前には」
「それで参りましょう」
「かしこまりました」
「若様」
振り返った。
トマが麦わら帽子を胸に抱えて立っていた。
「奥様には知らせておきます。帰ったと思ったら、もう発ったと」
「……すみません、トマ。昨日着いたばかりなのに」
「庭の薬草は明日も咲きます。薬草園は逃げません」
「母に伝えてください。すぐに戻りますと」
「承知しました」
深く頭を下げるトマの姿を目に焼きつけた。
馬に跨った。
伝令が隣に並ぶ。
走り出す。
薬草園の門が背中の向こうに小さくなっていく。
昨日通ったばかりの道を、今度は逆に。
朝日が正面から射している。
鞄の中で瓶がかすかに鳴る。
三百十三番。
渡す相手のいない薬。
その相手が今——倒れている。
風が冷たかった。
体が芯から強張っていた。
昼前には着ける。
殿下が倒れてから半日以上が過ぎる。
毒の正体が分からないまま。
耳の奥で自分の脈が聞こえた。
速い。
三年間、毎朝脈を診た手が覚えている。
安眠剤が効いて穏やかに沈んでいくときの、静かな拍動。
あの鼓動が今どこかで乱れている。
マルタの声が蘇った。
——ここ二日、ほとんど召し上がらないんです。
食事を取っていない体に、毒が入った。
弱った体に毒が回る速さを計算する。
止められない。
止めたくもなかった。
「待っていてください」
風に溶ける声だった。
誰にも届かない。それでもセラフィムは馬を急かせた。
王都は、まだ遠い。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第六話「殿下が、倒れた」をお届けしました。「転」の第一話、物語が動き始める回です。昨日たどり着いたばかりの薬草園を、翌朝にはもう発たなければならない。セラフィムにとってこの一日の安息がどれほど短かったか、書いていて胸が痛みました。
「それでも行かなければ、僕は僕でなくなる」——この一言が、セラフィムという人間の核だと思っています。契約を解かれ、薬が効かなかったと言われ、それでも毒に倒れた主の元へ駆ける。薬師としての誇りなのか、禁忌の想いがそうさせるのか。本人にも区別がつかないまま馬を走らせています。
前話ラストの蹄の音がここに繋がりました。次回、セラフィムは王宮でついに毒と対面します。ラヴェール家の舌が何を味わうのか——お楽しみに。
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