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第5話: 三百十三番目の瓶

 三百十三番の瓶。未投与の安眠剤。


 鞄の口を閉じる指が、一度だけ止まった。

 置いていくつもりだった。今朝までは。


 窓の外はまだ藍色だった。

 夜明け前の調合室に、人の気配はない。


 瓶を布に包んだ。

 割れないように、鞄の底に沈める。


 誰に渡すあてもない薬を、なぜ持っていくのか。

 自分でも説明がつかなかった。


 支度を終えた。

 白衣は畳んで、鞄の上に置いた。

 もう着ることはない服だ。




 扉が叩かれた。

 軽い音。均等な間隔。


「セラフィム様、まだいらっしゃいますか」

「います」


 扉が開いた。

 マルタが盆を抱えて立っていた。

 湯気の立つカップがひとつ。


「朝のうちに温かいものを。長旅になるんでしょう」

「ありがとう」


 カップを受け取った。

 蜂蜜と生姜の匂いがする。


「マルタさんが淹れてくれたの」

「厨房の端っこで、内緒に」

「怒られるようなことなの」

「セラフィム様の分だけ、多めに淹れましたから」


 少し笑った。

 久しぶりに、素直に笑えた気がした。


「殿下は……お元気ですか」


 聞いてはいけない気がした。

 でも聞かずにはいられなかった。


 マルタの顔が曇った。


「ここ二日、ほとんど召し上がらないんです。リュカ様のお薬も、お出ししても手をつけられなくて」

「……そう」

「セラフィム様がいらした頃は、粥だけでも綺麗に召し上がってくださったのに」


 喉の奥が締まった。

 薬の話ではない。

 それなのに、薬師の顔で聞いてしまう。


「マルタさん。お願いがあります」

「はい」

「眠れない夜は、温めた牛乳に蜂蜜を少し。人肌に冷ましてから」

「……セラフィム様」

「僕にできるのは、もうそれくらいです」


 マルタが目を潤ませた。


「戻ってきてくださいますよね」

「それは、殿下がお決めになることです」


 答えになっていない答えだった。

 マルタもそれ以上は聞かなかった。


「お元気で、マルタさん」

「セラフィム様も」


 盆を抱えたまま、深く頭を下げた。

 カップの湯気だけが、静かに揺れていた。




 鞄ひとつを抱えて、廊下を歩いた。

 三年間、数えきれないほど往復した廊下だ。


 すれ違う使用人が、みな頭を下げる。

 言葉はない。

 誰も、何と言えばいいか分からないのだろう。


 玄関の手前で、フランツが待っていた。

 深く頭を下げる。


「セラフィム殿」

「フランツさん」

「お見送りだけでもと思いまして」

「ありがとうございます」

「道中、お気をつけて」

「フランツさんも、殿下のことをお願いします」

「承知しております。……この老いぼれにできることは、それくらいですので」


 フランツの声が、かすかに震えた。


「三年間、お世話になりました」

「こちらこそ。フランツさんがいなければ、僕はもっと早くに音を上げていたと思います」


 フランツが微かに笑った。

 初めて見る笑い方だった。


「セラフィム殿は、強い方です」

「そうでしょうか」

「強くなければ三百十二もの処方を一度も違えたりしません」


 それ以上は、何も言わなかった。

 ただ深く頭を下げて、扉の内側に下がっていった。


 玄関に着いた。

 外はうっすらと白み始めていた。


 馬車が一台、停まっている。

 御者が荷物を積み終えたところだった。


「セラフィム様。お荷物はこれで全部ですか」

「はい。それだけです」

「軽うございますね」

「薬師の荷物は、いつもこれくらいです」


 馬車に乗り込む前、振り返った。


 公爵邸の壁が朝焼けに染まっている。

 最上階の窓——殿下の執務室。


 カーテンが揺れた気がした。

 人影があったかもしれない。

 なかったかもしれない。


 息を止めたまま、目を凝らした。

 朝の風が頬を撫でるまで、どれだけそうしていたか分からない。


 見送りの言葉はない。

 呼び止める声もない。


 当然だ。

 契約は解かれた。

 もう、待つ理由はどちらにもない。


 未練は銀蛇草の根に似ている。

 ゆっくり効いて、気づいた頃には動けなくなる。

 だから、今のうちに断ち切る。


 馬車に乗った。

 扉が閉まる。


「出してください」

「かしこまりました」


 車輪が回り出した。

 石畳を踏む音が、屋敷を遠ざけていく。


 振り返らなかった。

 振り返れば、降りてしまいそうだった。




 馬車の中は静かだった。

 窓の外を、王都の街並みが流れていく。


 市壁を抜けると、景色が変わった。

 石畳が土の道に変わる。

 建物が消え、麦畑が広がっていく。


 風が青い匂いを運んできた。

 刈り取り前の麦の匂いだ。


 昼近く、小さな町で馬を替えた。

 広場に薬草市が立っている。

 乾燥させたラベンダーの束が、山と積まれていた。


 匂いだけで、七種は当てられる。

 癖のようなものだ。

 働く場所がなくなっても、舌は忘れない。


 露店の隅で、子供が咳をしていた。

 母親らしい女が、心配そうに背中をさすっている。


「もう少しの辛抱よ」


 足が止まりかけた。

 喉に絡む咳。乾いた音。

 蜂蜜とタイムがあれば、すぐに楽になる種類の咳だ。


 指が動いた。鞄の留め金に伸びかけて——止まった。


 だが、もう薬師ではない。

 声をかける資格も、処方する権利もない。


 馬車に戻った。

 振り返らずに。


 御者が水を配りに来た。


「お客さん、薬師さんですか」

「……そうでした」

「でした?」

「今はもう、ただの人です」


 御者が肩をすくめた。


「薬草の匂いが染みついてますよ。手にも、着物にも」

「そうですか」

「一度染みついたものは、そう簡単には抜けません」

「詳しいんですね」

「昔、うちの親父も薬師崩れでね。似たような匂いをさせてました」

「お父様はお元気ですか」

「とうに逝きましたよ。でも庭の薬草だけは残りましてね。近所の婆さんが時々もらいに来ます」


 その通りだと思った。

 三年分の匂いは、たぶん一生抜けない。


 馬車は再び走り出した。

 午後の陽が、背中側から差してくる。


 畑がなだらかな丘に変わっていく頃、遠くに見覚えのある屋根が見えた。




 薬草園の門は、記憶より小さく見えた。

 子供の頃は、もっと大きかった気がする。


 門の前に、人が立っていた。

 腰の曲がった老人。麦わら帽子。


「トマ」

「若様」


 トマが帽子を取った。

 白い眉の下の目が、大きく見開かれる。


「お戻りになるとは聞いておりましたが……」

「急にすみません」

「いいえ。この庭は若様のものです」


 トマが門を開けた。

 足を踏み入れた瞬間、香りに包まれた。


 カモミール。セージ。ミント。

 三年ぶりの匂いなのに、体が覚えている。


「庭は変わっていませんね」

「若様の庭ですから。手入れだけは怠っておりません」


「旦那様と奥様は」

「今は南の領地に。若様のことは文でお知らせしてあります」

「そうですか」

「すぐにはお戻りになれないでしょう。手紙のやり取りだけで、半年はかかりますから」

「それで構いません」

「奥様から、言付けを預かっております」

「なんでしょう」

「『好きなだけ、その庭にいなさい』と」


 母らしい言葉だった。

 多くを語らず、それでいて許しだけは惜しまない人だった。


 誰もいない大きな家。

 それでいい。

 今は、誰にも会いたくなかった。


「若様のお部屋は、そのままにしてあります」

「ありがとう、トマ」

「お疲れでしょう。今日はもう休んでください」


 鞄を持って、家の中に入った。

 三年前に出たときの部屋のままだった。

 埃ひとつない。

 トマが手入れをしてくれていたのだろう。


 机の上に、紙とペンを置いた。

 殿下への報告書。

 薬師としての、最後の義務のつもりだった。


「拝啓、ディートリヒ様——」


 その先が続かなかった。

 体調のこと。食事のこと。伝えたいことは多いのに、書き出すと一行も進まない。


 どの言葉を選んでも、義務ではなく未練に見えた。


 結局、白紙のまま引き出しにしまった。

 鍵はかけなかった。

 いつかまた、書けるかもしれないと思ったからだ。




 夕食は簡単なものだった。

 トマの淹れた薬草茶と、パン。


「お粗末なものですみません。急なことで、碌な支度もできず」

「十分です。ありがとう、トマ」

「若様は……お変わりありませんね」

「そう見えますか」

「無理をなさっているのが、傍目にもわかります」

「……そうかもしれません」

「昔から、そうやって静かに強がるところが」


 トマが笑って、部屋を出ていった。


 窓辺に三百十三番の瓶を置いた。

 夕闇の中で、琥珀色が沈んで見える。


 誰にも渡せない薬。

 それでも、捨てる気にはなれなかった。


 外に出た。

 庭のミントを一枚摘んで、口に含む。


 清涼な刺激が舌に広がった。

 いつもと同じ味。

 変わらないものが、ひとつはある。


 ラベンダーはまだ蕾だった。

 開くのは、もう少し先だ。

 虫の音が、庭の隅から絶え間なく響いていた。


 夜が更けていく。

 眠気は来なかった。


 マルタの言葉が頭を離れない。

 ——ここ二日、ほとんど召し上がらないんです。


 薬師の仕事はもう終わった。

 そう自分に言い聞かせても、体調を気にかける癖だけは消えなかった。


 遠くで、何かが動く音がした。

 耳を澄ませる。


 蹄の音だった。

 一頭、いや二頭。

 こんな夜更けに、街道を急ぐ馬が。


 王都の方角から。


 音は次第に近づき——そして、遠ざかっていった。

 別の屋敷へ向かったのだろう。

 自分には関わりのないことだ。


 そう思うのに、手の中の瓶が、いつもより重く感じられた。


「……何でもありませんように」


 声に出してから、自分の願いの弱さに苦笑した。


 窓の外はただ暗い。

 何も見えない。


 それでも、長い間、その暗がりを見つめていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第五話「三百十三番目の瓶」をお届けしました。承の最終話、セラフィムが王都を去る朝です。マルタとの別れの場面で「殿下がここ二日、ほとんど召し上がらない」という一言を入れましたが、これはまだ毒とは関係のない、ただの喪失の症状として書きました。それだけに、あとから振り返ると怖い伏線になっていればと思います。


最上階の窓でカーテンが揺れた場面は、殿下が見送りに来たのか、それとも別の理由だったのか、あえて断定せずに書きました。言葉にできない人の不器用さを、また違う形で描けていたら嬉しいです。


ラストの蹄の音は、まだ何も起きていません。ただ、セラフィムの手の中で瓶が重くなる感覚だけを残しました。次回、王都から本当の急使が届きます。


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