第4話: 白い指
知らない足音が二つ、廊下を近づいてくる。
軽い靴音と、やや重い靴音。
セラフィムは帳面から顔を上げた。
猶予の二日目。
調合室に残した荷物はほとんどない。
五冊の帳面と、空になった花瓶。
窓際のリンデンは昨夜のうちに枯れきった。
最後の花弁は日誌に挟んである。
蝋燭は一本目の半ば。
朝が早い。
やることがないと夜明け前に目が覚める。
足音が扉の前で止まった。
扉を叩く音が三つ。軽く、均等に。
殿下の叩き方ではなかった。
「セラフィム殿。おはようございます」
柔らかい声。
昨日、扉の向こうで聞いた声だった。
「どうぞ」
扉が開いた。
オリヴィエ・ド・ブラシュが立っていた。
栗色の髪に柔和な顔立ち。
半年前から変わらない笑顔。
目も口元もいつも同じ形をしている。
「残念ですね、セラフィム殿」
開口一番がそれだった。
「後任は私が手配しました。ご安心ください」
安心。
何に安心しろと言っているのだろう。
舌の根が強張った。
「ご丁寧にありがとうございます」
「いえいえ。殿下のためですから」
殿下のため。
この人はよく殿下の名を口にする。
「ご紹介しましょう」
オリヴィエが半歩横に退いた。
その背後にもう一人。
「リュカと申します。本日より務めさせていただきます」
青年が頭を下げた。
背はセラフィムよりやや低い。
砂色の髪を短く刈っている。
白衣は新しかった。
折り目がまだ立っている。
襟元に薬師ギルドの徽章。
銅の縁取り。
正規の薬師だ。
だが指が白い。
薬草の染みがなかった。
三年はおろか一年の染みもない。
セラフィムの緑に染まった指とは違う。
何も刻まれていない手。
「セラフィム・ラヴェールです」
引き継ぎは不要と聞いていた。
だが人が来た以上は案内する。
最後の務めだ。
「調合室をご案内します」
「こちらが調合台です」
部屋の中央。
使い込まれた木の台。
三年間ここで調合してきた。
「薬材は左の棚に。上が乾燥薬草。中段が粉末。下が液剤です」
リュカが棚を見回した。
瓶の並びをひとつずつ目で追っている。
「殿下の調合控えは十二冊、フランツさんにお預けしてあります。三百十二の処方が全て写してあります」
「ああ、それは結構です」
オリヴィエが口を挟んだ。
壁に背を預けて腕を組んでいる。
「リュカは優秀ですから。自分の処方でやりますよ」
自分の処方。
殿下の三年分の体質を記した控えを見ないで。
「オリヴィエ様。失礼ですが、殿下には体質の偏りがございます」
声が少し強くなった。
「銀蛇草根の配合量は通常の七割に抑えないと——」
「ご心配なく」
遮られた。
二度目だった。
「さすがラヴェール家ですね」
オリヴィエが言った。
穏やかな声。
「薬師としては一流だ」
間があった。
笑顔が変わらない。
「……薬師としては」
言葉の棘が遅れて刺さった。
目も口元も同じ形のまま。
セラフィムは黙った。
喉の奥に苦い膜が張る。
オリヴィエが窓辺の花瓶に目をやった。
「何を飾っていたんです」
「リンデンです」
「ああ。もう枯れましたか」
特に興味のない声だった。
「少し席を外します。リュカ、よく見ておきなさい」
「はい」
オリヴィエが出ていった。
足音が廊下の角を曲がるまで待った。
「リュカさん」
「はい」
「殿下のお体のことをお話しします」
リュカがこちらを向いた。
まっすぐな目だった。
「殿下は不眠の傾向がおありです。安眠剤は毎晩お届けしてください」
「承知しました」
「お食事の量が減っています。ここひと月ほど顕著です」
「食事の管理は薬師の仕事でしょうか」
手が止まった。
リュカの顔を見た。
「体調管理の一環です。食事が減れば薬の効きが変わります」
「なるほど。気をつけます」
「それから」
少し迷った。
だが言わなければ。
「殿下はお薬を味見せずに飲まれます。お渡しする前に自分の舌で必ず確認してください」
「……はい」
「失礼ですが、薬師になって何年ですか」
「二年です」
「どちらで修行を」
「王都の薬師ギルドです」
ギルドの正規課程。
名家の個人指導ではない。
悪いことではなかった。
ギルド出身にも優れた薬師はいる。
「舌の訓練はどこまで」
リュカの目がわずかに泳いだ。
一瞬だった。
すぐ戻る。
「基礎までです。百の一は難しいですが、十の一なら」
十の一。
日常の調合には支障がない。
だが公爵家の専属薬師としては心許ない。
「ひとつお願いしてもいいですか」
「何でしょう」
「鎮静安眠剤を調合してみてください。殿下が毎晩お飲みになるものです」
リュカがうなずいた。
調合台の前に立つ。
「銀蛇草根と月白花の花粉ですね」
「配合は」
「銀蛇草根〇・三。月白花〇・一。基剤はリンデン」
正しかった。
配合を正確に暗記している。
リュカの手が動いた。
乳鉢を取り、銀蛇草根を砕く。
力の入れ方は均等。
手際も悪くない。
計量皿に粉末を載せた。
天秤で量る。
月白花の花粉を加える。
再び天秤。
手順は正確だった。
ひとつを除いて。
「リュカさん」
「はい」
「味見をしていません」
リュカの手が止まった。
「天秤で合っていれば——」
「天秤は数字を量るだけです」
声が早くなった。
薬学の話になると抑えが利かない。
「月白花の花粉は収穫時期で苦みが変わります。同じ〇・一でも体への効き方が違う。だから舌で確かめるんです」
「……なるほど。以後気をつけます」
リュカは素直にうなずいた。
だが指先は動かなかった。
粉末を口元に運ぼうとしない。
「もうひとつ」
棚から小瓶を取った。
「銀蛇草の根は遅効性の神経毒を含みます。素手で長く触ると指先が痺れる。扱いには注意を」
「存じています」
返事が速かった。
銀蛇草根の毒性は中級課程の知識。
知っていること自体は不自然ではない。
だが返事の速さ。迷いのなさ。
まるで毎日扱っているかのように。
指は白いのに。
廊下に足音が戻ってきた。
「お待たせしました」
オリヴィエが戻った。
手には何も持っていない。
席を外して何をしていたのだろう。
「引き継ぎは順調ですか」
「はい。リュカさんは基本をよく理解しています」
嘘ではない。
基本は確かに理解している。
「それは何よりです。セラフィム殿もこれで安心して旅立てますね」
「旅立つ、とは」
「薬草園にお帰りになるのでしょう。ラヴェール家の」
知っている。
帰り先まで。
「王都にいても仕方がありませんからね。冷却期間は一年でしたか。同格以上の家には仕えられない」
笑顔のまま言った。
専属契約の規定を正確に知っている。
男爵家の次男が。
「ええ。明日には発ちます」
「それがよろしいかと」
オリヴィエがリュカに目を向けた。
「リュカ。もういいでしょう」
声が変わった。
セラフィムに向けるものとは違う。
短く、平たい。
「はい。セラフィム殿、ありがとうございました」
リュカが深く頭を下げた。
砂色のつむじが見えた。
調合室の薬草の匂いはまだこの人には移っていない。
「お気をつけて」
二人の足音が遠ざかっていく。
軽い靴音とやや重い靴音。
来たときと同じ順序で。
扉が閉まった。
調合室が静かになる。
自分の匂いが薄れていた。
三年分の薬草が壁に沁みているはずなのに。
二人分の違う匂いが混じっている。
調合台に目を落とした。
リュカが使った乳鉢が残っている。
中には砕きかけの銀蛇草根。
味見をしなかった。
天秤だけで量った薬。
舌で確かめない薬師。
それだけなら技術の差で済む。
ギルド出身には珍しくない。
だが引っかかるのはそこではなかった。
配合を正確に暗記していた記憶力。
銀蛇草の毒性への即答。
慣れた手つき。
そして白い指。
経験の浅い薬師が、毒性にだけ詳しい。
フランツに伝えるべきだろうか。
リュカの味見のこと。毒性への不自然な精通。
だが何を伝える。
後任が味見をしなかった。
それだけだ。
技術の差と言われればそれまでだった。
殿下に直接申し上げるか。
——お前の仕事はもう終わった。
昨日の声が蘇った。
あの声で言われたら、それ以上は言えない。
蝋燭の芯が黒く丸まっていた。
どれだけ座っていたか分からない。
窓の外に目をやった。
空の花瓶の向こうに王都の屋根が連なっている。
明日にはこの窓から空を見ることもない。
飲み込めない何かが喉に残っている。
半年前から続く違和感。
オリヴィエの笑顔を見るたびに濃くなる。
今日、それが一段と強い。
リュカの白い指を見たときから。
証拠はない。理屈も立たない。
それでも——この舌が拾った苦みは、まだ消えない。
五冊の帳面を鞄に入れた。
三年分の記録。
殿下の体のことが全て書いてある。
明日、この城を出る。
あとはあの薬師が殿下の薬を調合する。
味見をしない薬師が。
「殿下」
誰もいない部屋で呟いた。
「……お体に気をつけてください」
薬師として言える最後の言葉だった。
鞄の口を閉じた。
花瓶を棚に戻した。
振り返らない。
これ以上この部屋にいたら出ていけなくなる。
明日、王都を発つ。
それが正しい。
正しいはずだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第四話「白い指」をお届けしました。セラフィムの緑に染まった指と、リュカの白い指。この対比を書きながら、三年間の重みとはこういうものだと改めて感じました。積み重ねた時間は指先に残るのだと。
オリヴィエの「薬師としては一流だ。……薬師としては」という台詞は、書いていて一番背筋が冷えた一言でした。褒めながら切り捨てる。笑顔のまま人を追い詰める怖さを感じていただけたら嬉しいです。
味見をしない薬師。その一点がセラフィムにはどうしても引っかかっている。薬師の舌は嘘をつかない――この物語の核心が少しずつ動き始めます。
次回、第五話。セラフィムは王都を発ちます。三年間過ごした街を去る朝に何を思うのか。
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