第3話: 名前のない花
何を残して、何を持ち出すのか。
ただの仕分けだと思っていた。
一冊目の帳面を開くまでは。
猶予は三日。今日が一日目。
セラフィムは朝から調合室にこもっていた。
棚から帳面を降ろす。
公爵家保管用の調合控えが十二冊。
三百十二の処方を全て写してある。
控えは後任のために残していく。
記録帳と日誌が五冊。
調合の原本。殿下の体調の変化。日々の気づき。
こちらは私物だ。持ち出す。
だが中身はほとんど同じだった。
どちらにも殿下のことしか書いていない。
日誌の一冊目を開いた。
頁の端にインクの染みがある。
角ばった文字。力の入りすぎた筆跡。
——あれは、三年前の秋のことだった。
「ラヴェール家のセラフィムです。本日より専属薬師を務めます」
十九歳だった。
調合室に通されたとき、手が震えていた。
ヴァランティーヌ公爵家。王家に次ぐ名門。
ディートリヒが現れたのは夕刻だった。
「お前がラヴェールの薬師か」
第一声がそれだった。
挨拶ではない。確認。
「はい。よろしくお——」
「頭痛がする。薬を出せ」
言葉を遮られた。
返事を待たない人だった。
「承知しました。拝見いたします」
「診るな。薬を出せ」
「お言葉ですが、症状を確かめないと処方が——」
「頭痛だと言った」
碧い瞳がこちらを捉えた。
冷えた光。
二十一歳の公爵令息は、その目だけで人を黙らせた。
「失礼しました。一つだけ伺います」
「何だ」
「いつからですか」
「昨夜から」
「十五分で調合します」
指先が強張っていた。
だが調合台の前に立った瞬間、指が静まった。
薬師の手は震えない。
鎮痛剤を差し出した。
ディートリヒは無言で受け取り、一息に飲んだ。
「殿下。味を確かめずに飲むのは感心しません」
「なぜだ」
「毒かもしれません」
「ラヴェール家が毒を盛ると」
「僕がそうとは申しませんが、習慣として」
碧い目がわずかに細まった。
「面白いことを言う」
それが最初の会話だった。
翌朝、頭痛は引いていた。
殿下は何も言わなかった。
効いたとも効かなかったとも。
三年間、一度も。
——頁をめくる指が止まった。
蝋燭が一本目の半ばまで減っている。
朝から二刻は経ったか。
帳面から顔を上げると、扉が叩かれた。
「セラフィム様。荷造りのお手伝いに参りました」
ペーターだった。
包帯の巻かれた左手で木箱を抱えている。
「その手で無理をしないで」
「もう痛みません。セラフィム様の軟膏が効きましたから」
「……そう。よかった」
「何をどこに入れれば?」
「衣類をその箱に。帳面と薬材には触らないでください」
「わかりました」
ペーターが衣装棚を開けた。
白衣が三着。調合用の前掛けが二枚。
「これだけですか。三年もいらしたのに」
「薬師に荷物は多くありません」
「……本当にお辞めになるんですか」
手が止まった。
「辞めるのではなく、契約を解かれたんです」
「でもセラフィム様の薬はよく効くのに」
「殿下のお考えです」
「でも——」
ペーターの声が細くなった。
「みんな困ってます。殿下のお薬のこと、誰に聞けばいいんですか」
「後任の方がいらっしゃいます」
「後任って誰ですか」
「僕にはわかりません」
本当にわからなかった。
殿下は名前を教えなかった。
「……マルタさんが泣いてました」
「そうですか」
微笑んだ。
返せたと思う。
「ペーター。箱をそこに置いていってください」
「はい。——セラフィム様」
「何ですか」
「ありがとうございました」
深く頭を下げて出ていった。
扉が閉まる。
笑みが消えた。
二冊目の日誌を開く。
五十三番の頁に殴り書きがある。
「殿下高熱。終夜看護」
——あの夜のことは、今も舌が覚えている。
深夜だった。蝋燭は四本目。
「セラフィム殿。殿下がお熱を出されました」
フランツが息を切らせて駆け込んできた。
「いつからですか」
「夕食の頃からお顔色が悪く。先ほど急にお倒れに」
「すぐ参ります」
調合台の前に立った。
解熱剤。柳樹皮。氷砂糖。
月白花の花粉を百の一に薄めて加える。
私室に入ると、殿下は寝台に横たわっていた。
珍しいことだった。
この人が横になっている姿を見たのは初めてだ。
黒髪が枕に散り、頬が薄く染まっている。
額に手を当てた。
焼けるように熱い。
「殿下。お薬をお持ちしました」
「……いらん」
「高熱を放置すれば臓腑に障ります」
「朝には治る」
「治る保証はございません」
声が強くなった。
自分でも驚いた。
「薬師として黙って見ていることはできません」
碧い目がこちらを見た。
熱で潤んでいた。
いつもの鋭さがない。
初めて見る顔だった。
「……お前は頑固だな」
「薬師はみな頑固です」
「嘘をつくな」
殿下が笑った。
口の端だけ。薄く。
初めて見た笑みだった。
薬を飲ませた。
額の布を替えた。脈を取った。
椅子を寝台の脇に置いて座った。
朝まで傍にいた。
椅子の背もたれが肩に食い込む頃には、窓の空気が冷えていた。
呼吸の音だけを聞いていた。
明け方。
熱が引いた。
ディートリヒの瞼が開いた。
「……お前。ここにいたのか」
「はい」
「一晩中か」
「薬師ですので」
「……そうか」
沈黙。
窓の外がうっすら白んでいた。
「セラフィム」
「はい」
「湯が飲みたい」
「すぐにお持ちします」
立ち上がった瞬間、裾が引かれた。
殿下の指が白衣の裾を掴んでいた。
視線を落とした。
長い指。白い手。
書類と剣の柄しか握らないはずの手が、薬師の白衣を握っている。
一瞬のことだった。
指が離れた。
「……何でもない。行け」
背を向けた殿下の耳が赤かった。
熱のせいだ。
そう思うことにした。
——日誌を閉じた。
そう思うことにした。
あの朝も。今日も。
薬師の観察だ。薬師の義務だ。
殿下の食事量に気づくのは薬師の仕事。
寝台の乱れがないと案じるのも。
一晩中傍にいたのも。
全部、薬師の仕事の範囲だと言い聞かせてきた。
では——なぜ。
裾を掴まれたあの一瞬を、今もまだ覚えている。
指の感触まで。
薬師の仕事ではないからだ。
蝋燭が二本目に替わっている。
四冊目の日誌を開いた。
頁の間から乾いた花弁がこぼれた。
リンデン。
乾いた花弁に、まだリンデンの香りが残っていた。
「殿下。安眠剤の基剤を変えてみました」
「何にだ」
「リンデンの花です。樹液より香りが柔らかく、穏やかに効きます」
「勝手に変えるな」
声は冷たかった。
だがいつもの冷たさとは違う。
嫌がっているのではない。戸惑っている。
三年目になると、その差がわかるようになっていた。
「お気に召さなければ元に戻します」
「……好きにしろ」
好きにしろ。
殿下の語彙では許可だった。
翌朝。
調合室の前にリンデンの花束が置かれていた。
名札はない。
フランツに尋ねた。
「殿下がお庭から切らせたものです」
「殿下が?」
「ええ。セラフィム殿。殿下はああいう方です」
「はい」
「花を切らせたのは初めてのことです。覚えておかれるとよろしい」
リンデンの花束を窓際に飾った。
枯れるたびに新しい花が扉の前に置かれた。
最後まで名札はつかなかった。
日誌には「基剤変更。効果良好」とだけ記した。
花束のことは書かなかった。
薬師の記録に書く中身ではない。
——本当は、書けなかっただけだ。
文字にしたら認めてしまう。
この胸の奥にあるものに名前をつけてしまう。
主への恋愛感情は禁忌。
契約の定めに記されている。
三百十二の処方は全て正確だった。
判断を歪ませたことは一度もない。
だが想いは、ある。
名前をつけたことがないだけで。
——窓際のリンデンが揺れていた。
花は枯れかけている。
最後に届いたのは契約解除の二日前だった。
もう新しい花は届かない。
乾いた花弁を日誌に挟み直した。
押し花のように。
これだけは持っていく。
日が傾いていた。
蝋燭が三本目に替わっている。
仕分けを終えた。
棚に十七冊あった帳面が、五冊になった。
十二冊分の空白が壁に影を落としている。
残った五冊の重さだけが、三年間の証だった。
殿下が何を食べ、いつ眠り、いつ顔色が変わるか。
全部書いてある。
薬師の観察だ。
それ以上の意味はない。
——それ以上の意味が、あった。
ずっと。
扉が叩かれた。
「セラフィム殿」
フランツだった。
「調合控えのお引き渡しの件で参りました」
「はい。十二冊、全て揃っています」
「拝受いたします」
老家令が帳面の山を抱えた。
腕がわずかに震えている。
「フランツさん、お持ちします」
「いえ。これは私の仕事です」
フランツが帳面の背表紙を見つめた。
長い沈黙。
「セラフィム殿。一つだけよろしいですか」
「何でしょう」
「この三年間、殿下のお体が大事に至らなかったのは偶然ではございません」
「……フランツさん」
「老いの口出しです。お許しください」
「いいえ。嬉しいです」
「お気をつけて」
「フランツさんも。殿下のお食事のこと、よろしくお願いします」
「承知しております」
十二冊の帳面が廊下に消えていった。
棚に空白ができた。
三年分の重みがあった場所に、埃の跡だけが残っている。
フランツの足音が遠ざかっていく。
その向こうから、別の声が聞こえた。
「ご苦労様です。明日、薬師を連れてまいりますので」
柔らかい声。
人当たりのよい声。
オリヴィエ・ド・ブラシュ。
「引き継ぎはご不要とのことですので、そのまま着任させます」
相手の返事は聞こえなかった。
足音が遠ざかっていく。
明日。
新しい薬師。
オリヴィエが連れてくる薬師。
舌の奥がざらついた。
半年前から消えない違和感。
毒を味見したときに似た感触。
根拠はない。
証拠もない。
だが薬師の舌は嘘をつかない。
後任はオリヴィエが手配した。
殿下は「もう手配してある」と言った。
あれはいつから決まっていたのだ。
窓の外が暗くなっていく。
枯れかけたリンデンが闇に沈んだ。
調合台に三百十三番の瓶が置いたままだ。
昨日、未投与と記した薬。
琥珀色の液体が蝋燭の火を映して揺れている。
「殿下。今夜も眠れないでしょう」
答えはない。
誰もいない調合室に、薬の匂いだけが漂っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第三話「名前のない花」をお届けしました。三年分の帳面を「控え」と「記録帳」に仕分ける。その作業がどれだけ残酷か、書いていて胸が苦しくなりました。想い出に「これはあなたのもの、これは僕のもの」と線を引く痛さを感じていただけたら嬉しいです。
窓際で枯れかけているリンデンの花束。名札のつかない花を切らせた殿下のことを思いながら書きました。言葉にできない人の不器用な優しさが、花を通じて少しでも伝わっていたらいいなと思います。
次回、第四話「後任」。オリヴィエが新しい薬師を連れてきます。セラフィムの舌が覚えた違和感の正体が、少しずつ形を持ち始めます。
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