第2話: 未投与
三百十三番目の薬を、それでも調合した。
銀蛇草の根。月白花の花粉。リンデンの基剤。
配合は昨日と同じ鎮静安眠剤。
舌の上で苦みが三つに分かれる。
正確。問題ない。
「……よし」
蝋燭は三本目だった。
夜通し調合台の前にいた。
眠れなかったのではない。眠らなかった。
何が待っているかわからない。
わからなくても薬は調合する。
それが薬師だ。
——話がある。
殿下の声が耳に残っている。
温度のない声だった。
こちらを見なかった碧い目。
記録帳を引き寄せた。
「三百十三番。鎮静安眠剤。銀蛇草根〇・三、月白花〇・一、リンデン基剤」
声に出して記す。
手は震えていない。
薬師の手は震えない。
調合瓶を薬箱に収めた。
窓の外が白んでいる。
薬草の匂いが壁にまで沁みていた。
廊下を歩く。
今朝は霧が薄い。
昨日より明るい朝だった。
執務室の前にフランツが立っていた。
「おはようございます、フランツさん」
「……おはようございます、セラフィム殿」
声がいつもより低い。
「殿下はもう中に」
「はい。お待ちです」
口ごもるような間があった。
昨日と同じ。
何かを言いかけて飲み込む顔。
「フランツさん。何かご存じですか」
「……お伝えする立場にございません」
「そうですか」
「この三年間——」
フランツが言いかけて止まった。
喉仏が上下した。
「……いえ。何でもございません」
老家令の目が伏せられた。
「セラフィム殿」
「はい」
「どうか——お気を確かに」
老いた目が潤んでいるように見えた。
「ありがとうございます。行ってきます」
薬箱を抱え直した。
呼吸を整える。
扉を三度叩いた。間を空けて、もう一度。
「入れ」
短い声。
扉を開けた。
ディートリヒは机の向こうに座っていた。
昨日の逆光ではない。
正面から朝の光を受けている。
碧い目がこちらを見ていた。
机の上に紋章入りの紙が一枚。
公爵家の正式書面に使う厚い紙だった。
ディートリヒの指がその端を押さえている。
胸の底が冷えた。
「おはようございます、殿下」
「座れ」
椅子に腰を下ろした。
薬箱を膝の上に置く。
「本日の安眠剤をお持ちしました」
「要らん」
短い。
昨日と同じ拒絶。だが声はさらに冷えていた。
「セラフィム」
「はい」
「今日をもって、お前との専属契約を解除する」
言葉は聞こえた。
意味が追いつくまで間があった。
専属契約の解除。
膝の上で薬箱が小さく鳴った。
手が動いたのだ。
それだけ。他には何も変わらなかった。
「……理由をお聞きしてもよろしいですか」
声は震えなかった。
自分でも驚くほど。
ディートリヒの目が一瞬逸れた。
窓のほうへ。
すぐ戻った。
「お前の薬など三年間一度も効いたことがない」
声が掠れた。一瞬だけ。
空気が凍った。
三年間。
一度も。
効いたことがない。
三百十二の処方が脳裏を駆け抜けた。
一番。着任初日の鎮痛剤。
百十七番。不眠を訴えた夜。
二百五十番。薬を手渡した夜。指先が触れた夜。
全部。全部、無駄だったと。
薬草で鍛えた舌。
百の一の毒を見抜く舌。
その舌が今、何の味も感じない。
「……失礼ですが、殿下」
声が出た。遠い声だった。
「三年間、殿下のお体に不調はございませんでした」
「だからどうした」
「それは薬が効いていた証拠では」
「お前がそう思うのは勝手だ」
引き下がれなかった。
「お言葉ですが——調合記録をご覧ください」
声に力が入った。無意識だった。
「五十三番は殿下が高熱を出された夜の解熱剤です。翌朝には平熱に戻られました」
「記録の話はしていない」
「百十七番は殿下がはじめて不眠を——」
低い声が遮った。
「セラフィム。それ以上言うな」
口を閉じた。
唇を噛んだ。
調合記録を開けば全てがわかる。
成分も分量も効果も残してある。
だが主はそれを見ないと言った。
主の言葉は絶対だった。
契約解除は主側からのみ可能。
理由の開示は不要。
それが専属契約の定め。
「……失礼しました」
「書面だ。確認しろ」
紋章入りの紙を受け取った。
薬草で緑に染まった指で。
正式な解除通告。日付は今日。
ディートリヒの署名。
薬師ギルドへの届出は公爵家が行う旨。
つまりもう決まっていた。
昨日の呼び出しの前から、紙の上では終わっていたのだ。
ギルドに届出が出る。
半日で社交界に広まるだろう。
公爵家に切られた薬師。
「三年間一度も効かなかった」薬師。
冷却期間は一年。
同格以上の家には仕えられない。
「猶予は三日だ。荷物をまとめろ」
三年を、三日で畳めと。
「薬材と器具は公爵家の所有です。記録帳は僕の私物ですが、写しをお残ししましょうか」
「要らん」
「後任への引き継ぎは」
「不要だ。もう手配してある」
もう手配してある。
後任はいつから決まっていたのか。
「後任はどなたですか」
「お前が知る必要はない」
「調合室の鍵はいつお返しすれば」
「三日目の朝でよい」
「薬材の在庫表は」
「フランツに預けろ」
喉の奥が苦い。
飲み込んだ。
「殿下。最後にひとつだけ」
これだけは伝えなければ。
「不眠が続いております。お食事も減っています。後任の方にはそのことをお伝えください」
「お前の仕事はもう終わった」
静かな声だった。
刃ではなかった。
もっと重い何か。
——終わった。
その一言が胸の底に沈んだ。
「……承知しました」
書面を丁寧に畳んだ。
端と端を合わせて。
立ち上がった。
薬箱を抱え直す。
三百十三番目の瓶がまだ中にある。
届け先を失った薬。
「三年間お仕えできたこと、光栄に存じます」
深く一礼した。
顔を見られないように。
振り返らず扉に向かった。
「セラフィム」
背中に名前が落ちた。
足が止まる。
背後で衣擦れがした。手を——伸ばしかけたのだろうか。
振り返りたかった。
振り返れば何かが変わるかもしれないと。
それは薬師の期待ではなかった。
沈黙が長い。
廊下の先で鳩が一声鳴いた。
「……何でもない。行け」
最後の命令だった。
扉を閉めた。
音を立てないように。
廊下にフランツはもういなかった。
まっすぐ歩いた。
背筋を伸ばして。
すれ違う使用人に会釈を返した。
踊り場の階段でマルタとすれ違った。
「おはようございます、セラフィム様。今朝もお早いですね」
「おはようございます、マルタさん」
「殿下のお食事のことでお伺いしたくて。昨日の粥と牛乳でよろしいですか」
「ええ。お願いします」
「承知しました」
「あ、それと——殿下がセラフィム様のお薬を飲まれた朝はお顔色がいいんです」
息が止まった。
「やっぱりお薬って効くんですね」
「……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいです」
「それと、ブラシュ男爵家のお方がいらっしゃる日はまたお食事が減るんですよね」
「……覚えておきます」
「お食事の件、引き続きよろしくお願いしますね」
「マルタさん」
「はい」
「お食事の件は今後フランツさんにご相談ください。僕はしばらく手が離せなくなりますので」
「そうなんですか。お忙しいんですね」
笑顔を返した。
返せたと思う。
マルタは笑って階段を降りていった。
効いている。
マルタにはわかるのだ。
殿下にわからないはずがない。
調合室の扉を閉めた瞬間、膝が折れた。
床に手をついた。
薬箱が倒れる。
調合瓶が転がった。
割れない。
三年間毎朝運ぶために選んだ瓶だ。
冷たい床に掌を押しつけた。
緑に染まった指が震えている。
——やめてしまえば、いずれは。
昨日の自分の言葉だった。
指の染みは消えるかと訊かれて答えた言葉。
殿下は「そうか」と言った。
もう決めていたのだ。
あの「そうか」は別れの言葉だった。
目の奥が熱い。
泣くわけにはいかない。
薬師は感情で判断を曇らせない。
ましてこの涙は薬師の涙ではない。
三年間ずっと隠してきた。
殿下の前では薬師でしかいられなかった。
立ち上がった。
膝を払う。
薬箱を拾い、瓶を戻した。
記録帳を開いた。
三百十三番の処方の横に書き加える。
——未投与。
調合したのに届かなかった薬。
薬師の記録にあってはならない二文字。
帳面を閉じた。
次の頁はもう要らない。
窓際のリンデンが揺れている。
明日もここで揺れるだろう。
セラフィムがいなくなっても。
「……嘘です」
誰にも聞こえない声で呟いた。
「僕の薬が効かないはずがない」
「効かない薬は薬とは呼びません」
昨日、ペーターに言った言葉。
あの言葉が今、自分に返ってきた。
殿下がそうだと言うなら、僕の三年間は薬ですらなかったのか。
——違う。
薬は正直だ。
ならば嘘をついたのは殿下のほう。
なぜ殿下が嘘をつくのか。
それを問う資格は、もう自分にはない。
三百十三番目の瓶を調合台に置いた。
琥珀色の液体が光を受けて震えている。
荷物をまとめなければならない。
三年分の記録と。
名前をつけられなかった想いを。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第二話「未投与」をお届けしました。タイトルにもなっているあの台詞——「お前の薬など三年間一度も効いたことがない」。三百十二の処方箋を全否定するたった一言の破壊力を、書きながら自分でも苦しくなりました。
セラフィムが最後まで薬師としての顔を保ち続ける場面は、書いていて胸が痛かったです。崩れ落ちるのは調合室の扉を閉めてから。「未投与」の二文字を記録帳に書き加えるあの瞬間——薬師にとってこの二文字がどれだけ重いか、感じていただけたら嬉しいです。
次回、第三話「荷造り」。三年分の想いを畳む三日間が始まります。
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