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第1話: 三百十二番目の朝

 これが最後の調合になるとは、まだ知らない。


 舌の上で、苦みが三つに分かれた。

 銀蛇草の根。渋みが奥歯の裏に沈む。

 月白花の花粉。微かな辛みが上顎をかすめた。

 最後にリンデンの樹液が舌先で溶ける。

 甘い。

「百の一……百倍に薄めた先の、毒にも薬にもなる境」

 正確に三等分。

 セラフィムは口元を拭い、調合瓶の蓋を閉じた。


「よし」


 小さく呟いて、記録帳を引き寄せる。


「三百十二番。鎮静安眠剤。銀蛇草根〇・三、月白花〇・一、リンデン基剤」


 声に出しながら筆を走らせる。

 調合記録は薬師の命。


 分量も手順も一字の省略なく残す。

 薬は正直だ。ならば記録もまた正直でなければならない。


 筆を持つ指先は薬草の染みで淡い緑に変わっている。

 洗っても落ちない。

 三年分の調合が肌に沁みついているのだ。


 蝋燭が一本目の半ばまで減っていた。

 三刻は経ったということだ。

 東翼の最上階、薬師の調合室。

 朝の光はまだ弱い。

 手元は蝋燭に頼っている。


 殿下の安眠剤は夜明けに合わせて仕上げる。


「まだ暗いな……」


 時を置くと成分の揮発が始まるからだ。

 最も効果の高い状態で届ける。

 三年間、一日も欠かさなかった。




 渡り廊下を抜ける。

 朝霧が窓の羊皮紙を白く滲ませていた。

 足音を殺す。

 夜番の近衛が柱の陰で船を漕いでいる。

 この刻限に起きているのは屋敷ではセラフィムだけだった。


 ディートリヒの私室の前に立つ。

 薬箱を胸の前に抱え直す。

 呼吸を整えた。

 扉を三度叩く。間を空けて、もう一度。


「入れ」


 低い声。短い。

 起きている。今朝も。


 セラフィムは静かに扉を開けた。


 寝台の縁に腰掛けたディートリヒが窓の外を見ていた。

 夜着のまま。

 黒髪が肩に散っている。

 切れ長の碧眼に朝の灰色の光が映り込んでいた。

 日中の隙のない姿とはまるで違う。

 朝だけの顔。

 この部屋に入れるのは専属薬師だけだった。


「おはようございます、殿下」


 声が平らであることを確かめた。

 それから続けた。


「本日の安眠剤をお持ちしました。鎮静安眠剤です」

「置いておけ」

「承知しました」


 卓上に調合瓶を置く。

 指が瓶を離れる瞬間、視界の端で寝台の皺を捉えた。

 横になった形跡がない。

 枕の位置も昨日のまま。


「昨夜もお休みになれなかったようですね」


 言ってから、踏み込みすぎたかと思った。


 主の睡眠の質に口を出す権限は契約の範囲にない。


「月白花の配合を〇・〇五ほど変えれば——」

「要らん」


 短い。刃のようなひと言。

 セラフィムは口を閉じた。


 沈黙が部屋に降りた。

 調合室の静けさとは質が違う。

 ここの沈黙はいつも重い。

 息を吸うだけで空気が軋む。


「殿下。先日の社交でお渡しした喉薬ですが、残りは——」

「その話はいい」

「……はい」


 碧い瞳がこちらに向いた。一瞬。

 その目に何かが浮かんで——消えた。


「セラフィム」

「はい」

「お前の手は、いつも緑だな」


 声に棘はなかった。

 ただ述べているだけの声。


 セラフィムは自分の指先を見下ろした。


「……申し訳ございません。洗ってはいるのですが」

「責めていない」


 ディートリヒは窓の外に目を戻した。


「三年、一日も休まず調合しているのだろう」

「それが契約ですので」

「その染みが消えることはあるのか」

「……やめてしまえば、いずれは」


 短い沈黙。


「……そうか」


 そのひと言に何が込められていたのか、セラフィムにはわからなかった。

 わかりたいとも思った。


 それは薬師の仕事の範囲を越えている。


「では失礼いたします」


 一礼して部屋を出る。

 扉が閉まった瞬間、指先が震えた。

 薬草の染みに覆われた緑色の指が。


 冷えのせいではない。




 渡り廊下を戻る途中、厨房への階段の踊り場で厨房女中のマルタとすれ違った。


「おはようございます、セラフィム様。今朝もお早いですね」

「おはようございます。殿下に薬を届けてきたところです」

「ちょうどよかった。殿下のお食事のことでお聞きしたくて」

「何でしょう」

「今朝もほとんど召し上がらないんです。パンを半分と、スープをひと口」

「先週もそうでしたね。残している食材はありますか」

「肉類です。最近は特に」

「胃の負担が大きいのでしょう。今朝は粥に温めた牛乳を添えるくらいで十分です。あまり無理に出さないでください」

「承知しました。いつも助かります」


 マルタは屈託なく笑った。


「殿下のお体のことはセラフィム様がいちばんよくご存じですもの」

「……薬師の仕事ですから」

「それはそうですけど。あ、それともう一つ」

「何ですか」

「最近ブラシュ男爵家の方がよくいらっしゃいますでしょう。あの方がお見えの日は殿下のお食事の量がさらに減る気がするんです」

「……そうですか。覚えておきます。ありがとう、マルタさん」


 頭を下げて、調合室への階段を上った。

 ブラシュ男爵家。

 半年ほど前から出入りしている側近。

 名前は確かオリヴィエといった。

 社交的で人当たりがよく、評判は悪くない。

 なのに舌の奥が微かにざらつく。

 毒を味見したときと似た感触。

 薬師の勘だ。舌は嘘をつかない。




 調合室に戻ると、下男のペーターが扉の前で待っていた。

 血のにじんだ布を手に巻いている。


「セラフィム様、手を切ってしまいまして」

「見せてください」


 布をほどく。

 左手の甲に浅い切り傷。


「薪割りですか」

「はい。朝の分を割っていたら、斧が滑って」

「傷は浅いですね。消毒と軟膏を塗ります」

「すみません、朝からお手間を」

「薬師の仕事です。それにしても深い刃で割っていますね。次からは手袋を」

「手袋だと力が入らなくて」

「怪我のほうが仕事に差し支えますよ」


「少し沁みますよ」


 蜂蜜を混ぜた軟膏を傷口に薄く塗る。

 清潔な布を巻いた。


「三日は替えの布を巻いてください。化膿しにくくなります」

「痛みはいつ頃引きますか」

「明日には楽になるはずです」

「ありがとうございます。セラフィム様の薬はよく効きますね」

「薬が効くのは当然です。効かない薬は薬とは呼びません」


 ペーターが笑って頭を下げた。


「お大事に」


 去っていく背中に声をかける。

 効かない薬は薬とは呼ばない。

 自分で言った言葉が、胸の奥で引っかかった。

 蝋燭がまた一段細くなっていた。




 記録帳を棚から取り出す。

 三百十二の処方が最初の頁から途切れなく並んでいる。

 全てセラフィムの筆跡。

 全て殿下のために調合した薬の記録。


 一番目。着任初日の鎮痛剤。

 百十七番目。殿下が不眠を初めて訴えた夜。

 二百五十番目。社交の前夜、薬を手渡ししたとき指先が触れた。


「——手が冷えているな、お前は」

 あの夜、殿下はそう言った。

「僕ではなく殿下のほうです」

「……余計なことを言うな」

 殿下の指は冷たかった。

 翌朝から薬は卓上に置くようにした。

 理由は聞かなかった。聞けなかった。


 記録帳を閉じる。

 最後の頁には余白がある。三百十三番を書くための白い空間。

 明日もここに座る。

 殿下のために薬を調合する。

 この帳面はまだ続く。


 窓際のリンデンの花束が、朝の光の中でゆっくり揺れていた。




 午後。乾燥棚のリンデンを束ね直していると、扉が叩かれた。


「セラフィム殿」


 使用人頭のフランツだった。


「フランツさん。何でしょう」

「殿下がお呼びです。執務室へ」

「今からですか」


 午後の呼び出しは珍しい。

 投薬の報告は朝に済ませている。


「体調がお悪いのですか」

「いえ、そういった様子では」


 体調の急変ではない。なら何だ。


「理由は聞いていますか」

「いえ。ただ——」


 フランツが口ごもった。

 表情の読みにくい老家令が何かをためらっている。


「早いほうがよろしいかと」

「わかりました。すぐに伺います」

「お待ちしております」


 手を洗い、薬草の匂いを落とす。

 殿下は匂いに敏感だ。

 三年間で覚えた、数えきれないことの一つ。




 執務室の扉を開けると、ディートリヒは窓を背にして立っていた。

 午後の光が逆光になり、表情が読めない。



「お呼びと伺いました」

「座れ」


 指し示された椅子に腰を下ろす。

 ディートリヒは立ったまま。

 見下ろす形。

 普段の報告は互いに立ったまま済ませる。

 座れと言われたことは一度もなかった。


「セラフィム」


 名前。

 「お前」ではなく、名前で呼ばれた。

 それだけで胸の底が冷えた。


「はい」

「明朝、もう一度ここに来い」


 声に温度がなかった。

 命令でも依頼でもない。


 何かを決めた後の、読み上げるような声。


「話がある」


 それだけ。内容は告げない。


「……どのようなお話でしょうか」

「明日話す」


 問い返す余地がなかった。


 碧い瞳が窓の外を向いていた。


 セラフィムのほうを見ていない。


 朝の薬を届けたとき、殿下は必ず一瞬こちらを見る。

 蝋燭がひと瞬きする間だけ。


 それが三年間、毎朝繰り返されてきた。

 今、その視線がなかった。


「……承知しました」


 立ち上がり、一礼する。


 部屋を出る足取りはいつも通りに見えただろう。

 少なくともそう努めた。




 調合室に戻ると、夕日が乾燥棚を斜めに照らしていた。


 朝は穏やかに揺れていたリンデンの花束が長い影を落としている。


 セラフィムは記録帳を開いた。


 三百十二番の横に今日の日付を書き込む。


 頁をめくる。

 次の行は白い。


 三百十三番目の処方を書く場所が空白のまま残っている。


「……三百十三番目」


 明日もここに座る。

 殿下のために薬を調合する。

 この帳面に三百十三番目の処方を書き記す。


 ——そう信じたかった。


 舌の奥の苦みが消えない。

 朝の銀蛇草の渋みとは違う。


 もっと深いところで広がっていく苦さ。

 名前のつけられない毒に似ていた。


 記録帳が、かたん、と小さく鳴って閉じた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


新連載「お前の薬など三年間一度も効いたことがない」をお届けしました。タイトルのこの台詞が最初にあって、そこから全てを逆算して組み立てた作品です。


セラフィムの指先がいつも薬草で緑に染まっている設定は、書いていて気に入りました。洗っても落ちない三年分の染み。想いと同じで、簡単には消えないものです。


「三百十二」という数字にも意味を込めています。記録帳の余白に残された「三百十三番目」の場所が、この物語の行き先です。


次回、第二話「契約解除」。三年間の朝が、終わります。


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