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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第2章 忘れても、愛は残るのか

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9/12

Scene 9 名前の残らない人々

記憶を売る街の奥に、

記憶を失った人々がいた。


名前は残っている。

記録も残っている。

けれど、

思い出したい顔は戻らない。


嬉しかったはずの記憶。

大切だったはずの人。

何度も尋ねる同じ日付。


忘れたことを責めず、

同じ答えを返し続ける人がいる。


治せない。

戻せない。

それでも、

目の前の誰かを放っておけない。


これは、

ソウルが異世界でもう一度、

自分の手でできることを探し始める物語。

 少女の手は、まだ目の奥に残っていた。


 ラグナ中央市場の喧騒は、細い路地をいくつか曲がるうちに遠ざかっていった。


 代わりに、乾いた車輪の音が聞こえてくる。


 前方に、一台の荷車が止まっていた。


 藁を敷いた荷台の上で、男が横たわっている。


 額には汚れた布が巻かれ、その隙間から黒ずんだ血が滲んでいた。


 二人の神官が男の身体を抱え、古い建物の中へ運び込んでいく。


 白い石壁。


 ところどころ表面が欠け、蔦が這っている。


 古い木の扉の上には、記憶取引所でも見た神殿の紋章が掲げられていた。


「神殿なのか」


 俺が尋ねると、フィーナは扉へ手を掛けた。


「神殿の施療所だ」


「記憶を買ってる神殿が、失った人間の世話もするのか」


 フィーナの手が止まる。


 振り返った横顔に、怒った様子はなかった。


「矛盾していると思うか」


「少なくとも、分かりやすくはない」


「世界は、分かりやすくできていない」


 扉が開いた。


 温かく湿った空気が、顔に触れる。


 薬草。


 汗。


 血。


 古い布。


 それらに混じって、鼻の奥を刺す刺激臭があった。


 消毒液とは違う。


 病院の処置室とは、何もかも違っている。


 それでも。


 そこに満ちる呼吸の気配だけは、同じだった。


 中は、外から想像したよりも広かった。


 壁に沿って木製の寝台が並び、中央には長椅子が置かれている。


 奥では、大きな鍋から白い湯気が上がっていた。


 包帯を巻いた男。


 咳き込む老婆。


 腕を押さえて座る子ども。


 家族らしい者が寄り添っている寝台もあれば、誰もいない寝台もある。


 その間を、白い衣を着た神官たちが忙しく行き交っていた。


 誰も、俺たちを気に留めなかった。


 いや。


 一人だけ、入口近くにいた若い神官が顔を上げた。


「フィーナさん」


「空いている寝台はあるか」


「二つだけです。さっき街道で荷車が横転して、負傷者が運ばれてきました」


 若い神官は早口で答えた。


 目の下に、薄い隈がある。


「奥の人たちは」


「変わりません」


 若い神官が視線を向けた先には、他の患者とは少し離れた一角があった。


 そこだけ、寝台の横に小さな机が置かれている。


 机の上には、何冊もの帳面。


 怪我人とは、空気が違った。


 痛みに耐えているのではない。


 何かを探している。


 自分の中にあるはずのものを、見つけられずにいる。


「記憶を失った人たちか」


「ああ」


 フィーナは短く答えた。


 最初に目が止まったのは、窓際の長椅子に座る中年の女性だった。


 膝の上へ、一枚の紙を広げている。


 色の薄い紙には、家らしきものと、三人の人間が描かれていた。


 子どもの絵だ。


 大きさの揃わない丸い顔。


 三人とも、口元が大きく曲がっている。


 笑っているらしい。


 若い神官が、女性の前へしゃがんだ。


「息子さんが描いたんですね」


「はい」


 女性は絵を見つめたまま答えた。


「五歳の時に、初めて描いてくれたそうです」


「嬉しかったでしょう」


 女性は少し考えた。


 思い出そうとしているのか。


 それとも、答えを選んでいるのか。


「帳面には、そう書いてあります」


 指先が、紙の端をゆっくり撫でる。


「でも、今はよく分かりません」


「嬉しかったことは分かるのに?」


「出来事は分かります」


 女性の指が、絵の中に描かれた小さな顔へ触れた。


「息子が描いたことも、誕生日にくれたことも書いてあります」


「でも――」


 指が止まる。


「嬉しかったはずなのに、その嬉しさが、もう分からないんです」


 声は穏やかだった。


 悲しんでいるようには聞こえない。


 だからこそ、その言葉が重く残った。


 息子が描いた絵だと知っている。


 嬉しかったことも、記録には残っている。


 それでも。


 絵を受け取った時に胸の中へ生まれたものだけが、失われている。


 少し離れた場所では、一人の老人が帳面を開いていた。


 震える手で、同じ頁を何度も撫でている。


「今日は何日だったかな」


 近くを通りかかった若い神官が足を止めた。


「白月の十二日です」


「そうか」


 老人は頷き、帳面へ何かを書き込む。


 すでに同じ文字が、何行も並んでいた。


 神官が歩き出そうとする。


「今日は何日だったかな」


 老人が、もう一度尋ねた。


 若い神官は振り返る。


 苛立った様子はない。


 声の調子も変わらない。


「白月の十二日です」


「そうか」


 老人は安心したように頷き、同じ日付をもう一度書いた。


 訓練されているのか。


 慣れたのか。


 それとも、そうすることが当たり前になっているのか。


 俺には判断できなかった。


 その隣の寝台には、若い男が座っていた。


 二十代半ばくらいだろうか。


 身体に目立った傷はない。


 男の正面には、白髪の女性がいる。


 寝台の間には、一冊の帳面が置かれていた。


 男は帳面を開き、指で文章をなぞっている。


「母の名は、リナ」


 声に出して読む。


「母は毎朝、俺の髪を整えてくれた」


「俺は、母を大切に思っている」


 男はそこで言葉を止めた。


 顔を上げる。


 目の前の女性を見る。


 視線が、女性の目から鼻へ。


 鼻から、口元へと動く。


 覚えようとしている。


 初めて会った人間の顔を、頭へ刻み込むように。


「俺は、あなたを大切にしていたそうです」


 白髪の女性の口元が、僅かに震えた。


「そうだよ」


「すみません」


「謝らなくていい」


 女性が男の手を取る。


「今は、ここにいてくれればいい」


 男は、その手を振り払わなかった。


 けれど。


 握り返すこともなかった。


 女性の親指が、男の手の甲をゆっくり撫でる。


 何度も。


 かつて、子どもを寝かしつけた時と同じように。


 それが男の中に残っているのかは、分からない。


 身体が覚えているのか。


 何も感じていないのか。


 俺には判断できなかった。


 病院にも、家族の顔が分からなくなった患者はいた。


 認知症。


 脳腫瘍。


 意識障害。


 長く連れ添った妻を、看護師だと思う人。


 自分の息子へ、どちら様ですかと尋ねる人。


 家族は、そのたびに傷ついていた。


 病気のせいだと分かっている。


 本人が望んで忘れたわけではないことも分かっている。


 それでも。


 名前を呼ばれない痛みまでは、消えない。


 ここでも、同じだった。


 違うのは。


 この人たちの記憶が、魔法や金へ変えられたということだけ。


 施療所の奥から、寝台が軋む音がした。


 若い神官が、一人の患者を起こそうとしている。


 痩せた中年の男だった。


 目は開いているが、周囲を見てはいない。


 神官が男の両脇へ腕を入れ、力任せに引き起こそうとする。


 男の首が後ろへ落ちた。


 背中がねじれ、肩が寝台の縁に引っ掛かる。


 考えるより先に、足が動いていた。


「待ってください」


 若い神官が驚いて俺を見る。


「何ですか」


「そのまま起こすと、身体を痛めます」


 俺は寝台の反対側へ回った。


「肩と腰を支えてください。俺が頭を持ちます」


「ですが」


「先に身体を横へ向けます」


 神官の返事を待たず、男の後頭部へ手を入れた。


 皮膚が熱い。


 髪は汗で湿っている。


「聞こえますか」


 反応はない。


「身体を起こします」


 患者が理解しているかは分からない。


 それでも、何も言わずに触れることはできなかった。


 肩と腰を支え、身体をゆっくり横へ向ける。


 そこから二人で上半身を起こした。


 男の身体が大きく傾く。


 俺は背中へ腕を回した。


「ゆっくりでいいです」


 呼吸が浅い。


 口元が乾いている。


 左の頬には、寝具の皺が赤く残っていた。


「水は飲めていますか」


「朝に少しだけ」


「一度に飲ませないでください。まずは、口を湿らせるくらいから」


 寝たまま飲ませれば、うまく飲み込めず、気管へ入るかもしれない。


 この世界に、誤嚥という言葉があるのかは分からなかった。


「まずは身体を起こして、飲み込める状態か確かめます」


 言い直すと、若い神官は頷いた。


 背後から、低い声がした。


「お前、治療師か」


 振り返る。


 灰色の髪を短く切った、年老いた神官が立っていた。


 袖を肘まで捲り、両腕には薬草の染みがついている。


 穏やかな顔ではない。


 かといって、敵意もなかった。


 俺の手元を見ている。


「看護師です」


「カンゴシ?」


「病人や怪我人の世話をする仕事です」


「治療師とは違うのか」


「多分」


「治せるのか」


 問いは、真っすぐだった。


「分かりません」


 老神官の眉間に皺が寄る。


「なら、何をする」


 俺は男の身体を支えたまま答えた。


「水を飲ませます」


「身体を起こします」


「同じ場所に傷ができないように、姿勢を変えます」


「少しでも楽に息ができる方法を探します」


 男の腰へ目を向ける。


 寝具に触れていた部分が赤くなっていた。


 このまま同じ姿勢が続けば、傷になる。


「治せなくても、できることはあります」


 老神官は何も言わなかった。


 俺の顔ではなく、患者を支えている手を見ていた。


 しばらくして、傍らの机から水差しを取る。


 それを、俺へ差し出した。


「なら、やってみろ」


 水へ浸した布で、男の唇を湿らせる。


 一度。


 もう一度。


 三度目。


 僅かに、唇が動いた。


「飲んでいるんですか」


 若い神官が横から覗き込む。


「少しだけ」


「水を欲しいと、言ったことはありません」


「言えないだけかもしれません」


 病棟でも、同じだった。


 痛いと言えない。


 苦しいと言えない。


 喉が渇いたと言えない。


 言葉がないからといって、何も感じていないわけではない。


 けれど。


 目の前の男が、何を感じているのか。


 そこまでは分からなかった。


 勝手に決めつけることもできない。


 ただ、乾いた唇は水を必要としていた。


 それだけは確かだった。


 男を寝台へ戻した後、俺は身体を横向きに整えた。


 背中と膝の間へ、丸めた布を挟む。


 若い神官が、腰の赤くなった部分を見つめていた。


「知らなかっただけです」


 責めるつもりはなかった。


 神官の数は少ない。


 誰も休んでいない。


 それでも、手が足りていなかった。


 若い神官は布の位置を確かめ、静かに頷いた。


 寝台の横には、患者ごとに帳面が置かれている。


 普通の日記とは違う。


 表紙には名前。


 中には、家族の名前。


 好きだったもの。


 失いたくない約束。


 自分が何者だったのか。


「これは?」


「記憶帳です」


 若い神官が答えた。


「本人や家族が書きます。忘れたことを、後から確認するために」


 フィーナが隣へ立った。


「自分が何者かを書くものは、錨帳と呼ぶ」


「錨」


「流されないように、繋ぎ止めるものだ」


 改めて、先ほどの若い男が持つ帳面を見る。


 擦り切れた革。


 何度も開かれた跡。


「読めば、思い出せるのか」


「思い出せない」


 フィーナの答えは早かった。


「知ることはできる。だが、知っていることと、覚えていることは違う」


 若い男は、もう一度帳面を開いていた。


 母の名は、リナ。


 母は毎朝、髪を整えてくれた。


 俺は、母を大切に思っている。


 覚えていないから、読む。


 読んでも、思い出せない。


 それでも。


 男は、また同じ頁を開いていた。


 窓から差し込む光が、少しずつ赤くなっていった。


 怪我人の処置が落ち着いた後も、俺は施療所に残った。


 水桶を運ぶ。


 寝具を整える。


 食事を取れていない患者へ、温かい汁を少しずつ飲ませる。


 元の世界なら、当たり前に使えた道具が何もない。


 体温計。


 血圧計。


 聴診器。


 酸素。


 薬。


 できることは少なかった。


 それでも。


 何もないわけではない。


「ずいぶん働くんだな」


 フィーナの声がした。


 壁際に寄り掛かり、腕を組んでいる。


「見てないで手伝え」


「私は怪我をしていない」


「患者の話だ」


「神官がいる」


「足りてないだろ」


 フィーナは周囲を見た。


 反論はしなかった。


 けれど、手伝おうともしない。


 代わりに、俺の持っていた空の水桶を取り上げた。


「水場は裏だ」


 そのまま扉へ向かう。


「手伝わないんじゃなかったのか」


「道を教えるだけだ」


 水桶を持ったまま言っても、説得力はなかった。


 俺はもう一つの桶を手に取り、後を追った。


 裏庭の井戸で水を汲み、施療所へ戻る。


 フィーナは水桶を床へ置いた。


 中の水は、ほとんど揺れていない。


「治癒魔法では戻らない」


 突然、フィーナが言った。


「分かってる」


「身体の傷なら、塞げるものもある」


「記憶は戻らない」


「それも分かってる」


「それでもやるのか」


 水桶の縁から、一滴の水が床へ落ちた。


「何もしない理由にはならない」


 答えてから、自分の言葉に引っ掛かった。


 何もしない理由にはならない。


 なぜ。


 ここで水を運ぶことに、何の意味がある。


 身体を起こす。


 口を湿らせる。


 同じ問いに、何度でも答える。


 それで記憶が戻るわけではない。


 息子が母親を思い出すわけでもない。


 失った愛情が、元の形に戻るわけでもない。


 病院にいた頃も、同じだった。


 治せない。


 戻せない。


 終わりを止められない。


 田中さんの命も。


 三百人以上の患者の命も。


 俺には止められなかった。


 それでも。


 目の前で身体がずり落ちていれば支えた。


 喉が乾いていれば水を渡した。


 苦しそうなら、少しでも楽な姿勢を探した。


 意味があるからではない。


 正しい答えを知っているからでもない。


 放っておけなかった。


 今は。


 それだけだった。


 施療所を出る頃には、外は薄暗くなっていた。


 若い神官が、入口近くの灯りへ火を入れている。


 老神官は、怪我人の包帯を替えていた。


 俺は扉へ手を掛けた。


 背後から、老人の声が聞こえる。


「今日は何日だったかな」


 若い神官が振り返る。


「白月の十二日です」


「そうか」


 老人は安心したように頷き、帳面へ日付を書く。


 俺が扉を開ける前に、また声がした。


「今日は何日だったかな」


 若い神官は手を止めた。


 老人のそばへ歩いていく。


「白月の十二日です」


 最初に聞かれた時と、同じ声だった。


 老人は安心したように頷き、また帳面を開いた。


 忘れたことを責めない。


 何度でも、同じことを答える。


 それが何になるのか。


 俺には、まだ分からなかった。


 扉を出ると、夕暮れのラグナに長い影が伸びていた。


 施療所の外には、荷車の音と、人々の声が戻っている。


 それでも。


 老人の問いと、神官の答えは、


 しばらく耳から離れなかった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene9では、

記憶取引所の奥にある、

もう一つの現実を描きました。


記憶を売った人。

魔法で何かを失った人。

大切だったはずの感情だけが、

抜け落ちてしまった人。


名前は残っている。

帳面にも書かれている。

目の前に、その人はいる。


それでも、

顔が浮かばない。

懐かしさが戻らない。

大切だったという実感だけが、

どこかへ消えている。


ソウルはそこで、

異世界でもまた、

治せないものの前に立つことになります。


記憶は戻せない。

失われた感情も、

簡単には取り戻せない。


それでも、

身体を起こすことはできる。

水を飲ませることはできる。

何度でも、

同じ問いに答えることはできる。


それが何になるのか。


ソウルには、

まだ分かっていません。


けれど、

分からないままでも、

放っておけないものがある。


次は、第2章 Scene10


「大丈夫です」へ。

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