表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第2章 忘れても、愛は残るのか

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/13

Scene 8 記憶を売る街

森を抜ける。


そこには、

人の声があり、

市場の匂いがあり、

生きている音があった。


ソウルは初めて、

この世界で暮らす人々を見る。


笑う人。

怒鳴る人。

走る子ども。

食べ物を買うために並ぶ人。


けれど、

その賑わいのすぐそばに、

人の記憶を売る場所があった。


生きるために、

何かを差し出す人がいる。


正しくなくても、

それしか選べない人がいる。


忘れても、

愛は残るのか。


これは、

ソウルが初めてこの世界の暮らしと、

その奥にある痛みに触れる物語。

 森を抜けたのは、太陽が頭上へ昇りきる少し前だった。

 

 木々の間を満たしていた湿った匂いが薄れ、代わりに風が人の声を運んできた。

 

 最後の木立を越える。


 視界が、一気に開けた。


 緩やかな丘陵の向こうに、灰色の城壁が横たわっている。


 その内側には、大小さまざまな屋根が幾重にも重なり、さらに奥には白い尖塔が空へ突き出していた。


 煙突から細い煙が上がっている。


 荷車の車輪。


 家畜の鳴き声。


 どこかで打ち鳴らされる鐘。


 人の暮らしが、城壁の向こうにあった。


 街だった。


「ここが、街か」


 前を歩いていたフィーナが、わずかに振り返った。


「ヴェスタ」


「ヴェスタ?」


「東方諸国ヴァルム連邦。その東部にある自治都市だ」


 聞き慣れない名前が、続けて頭へ入ってくる。


 東方諸国ヴァルム連邦。


 自治都市ヴェスタ。


 覚えようとはしたが、まだこの世界の地図すら知らない。


 名前だけが、頼りなく頭の中に浮かんでいた。


「大きいんだな」


「東部ではな」


 フィーナはそれだけ言って、再び歩き出した。


 城壁へ続く街道には、人の流れがあった。


 野菜を積んだ荷車を押す男。


 籠を背負った老婆。


 武器を腰に下げた旅人。


 皆、それぞれの目的地へ向かっている。


 行き交う誰も、俺がこの世界の人間ではないことを知らない。


 城壁の北門を抜けると、広い通りへ出た。


 石造りの建物。


 二階から張り出した木の窓。


 軒先から下がる色鮮やかな布。


 道端には、いくつもの露店が並んでいた。


 人が多い。


 誰かが笑い、誰かが怒鳴り、別の誰かが値段を交渉している。


 裸足の子どもたちが、荷車の間を縫って駆けていった。


 森の静けさが、嘘のようだった。


 病棟では、音はいつも抑えられていた。


 足音。


 話し声。


 扉を閉める音。


 眠る患者を起こさないように、誰もが無意識に音を殺していた。


 ここでは違う。


 商人の呼び声。


 子どもの笑い声。


 車輪が石畳を叩く音。


 ここでは、音が生きていた。


「ちゃんとついてこい」


 フィーナが、振り返らずに言った。


「ついてってる」


 ついてはいる。


 ただ、目が追いついていない。


 視線を動かすたびに、知らないものが現れる。


 足を止めかけ、そのたびに少し先を歩く銀灰色の髪を追った。


 通りを西へ進むにつれ、建物の様子が変わっていった。


 白く整えられた石壁は減り、蔦の這った古い家が増えていく。


 道幅も狭くなった。


 窓と窓の間に洗濯物が渡され、その下を人が行き交っている。


「ここもヴェスタなのか」


「行政上はな」


 フィーナは前を向いたまま答えた。


「昔はラグナという別の街だった」


「今は違うのか」


「ヴェスタが大きくなって、飲み込まれた」


 古い街が、大きくなった都市に吸収された。


 それでも、住んでいる人間は今もラグナと呼ぶらしい。


 街の形が変わっても、名前は残った。


 なぜか、そのことが少しだけ頭に残った。


 ラグナ中央市場は、北門近くの通りよりもさらに騒がしかった。


 干した肉。


 束ねた薬草。


 色の濃い果実。


 湯気を上げる大鍋。


 焼いた肉と香辛料の匂いが、空腹を思い出させる。


「何か食べないか」


「金は?」


「ない」


「では食べられない」


 反論できなかった。


 フィーナは一度も歩調を緩めない。


 俺は腹の辺りを押さえながら、その背中についていった。


 市場の中央に差しかかった時だった。


 足が止まった。


 広場の一角に、大きな石造りの建物が立っている。


 周囲の店よりも古く、窓が少ない。


 人の出入りはある。


 それなのに、入口の前には声がなかった。


 老人。


 若い男。


 赤ん坊を抱いた女。


 服装も年齢もばらばらな人々が、黙って列を作っている。


 市場の喧騒から、そこだけが切り離されていた。


 入口の壁には、神殿のものらしい紋章が刻まれていた。


 その下には、俺にも読める文字がある。


 記憶取引所。


「銀行みたいなものか」


「違う」


「じゃあ、何だ」


 フィーナが足を止めた。


 看板を見上げる。


 その横顔には、驚きも嫌悪もなかった。


「記憶を売る場所」


「……は?」


 聞こえた言葉と、その意味が結びつかなかった。


「記憶を?」


「そうだ」


「どうやって売るんだ」


「術式で切り離して、瓶に封じる」


 昨夜の焚き火を思い出した。


 魔法は、記憶を燃やして使う。


 そう聞いた。


 だが、それは魔法を使う者が、自分の中にあるものを代償として失う話だと思っていた。


 記憶そのものが、商品になるとは考えていなかった。


「誰が買う」


「魔法士や神殿だ。主に術式の燃料として使われる」


「どんな記憶でも売れるのか」


「価値があれば」


「価値?」


 入口の脇には、小さな札が何枚も貼られていた。


 幼少期の鮮明な記憶。


 職人の技術に関する記憶。


 愛する者と過ごした記憶。


 その横には、それぞれ金額が記されている。


 思わず、一枚へ目が止まった。


 ――家族との幸福な記憶。銀貨五枚より。


「冗談だろ」


「誰も笑っていない」


 列に並ぶ者たちの顔を見た。


 確かに、笑っている者はいなかった。


 その時、取引所の扉が開いた。


 一組の親子が出てくる。


 母親はまだ若い。


 俺より、いくつか年下に見えた。


 外套は色褪せ、袖口は何度も縫い直されている。


 痩せた片手には、小さな革袋。


 中で硬貨が触れ合い、乾いた音を立てていた。


 もう一方の手を、六つか七つほどの少女が握っている。


 少女は母親を見上げ、明るく笑った。


「お母さん」


 母親は答えなかった。


「帰ろう。今日はお肉、買えるんでしょう?」


 母親の足が止まった。


 少女も立ち止まる。


「お母さん?」


 母親は、少女の顔を見ていた。


 髪。


 目。


 頬。


 見ている、というより。


 そこにいる誰かを、記憶の中から探しているようだった。


「どうしたの?」


 母親の指から、少女の手が離れた。


「ごめんなさい」


 母親は言った。


 声が震えていた。


「あなた――」


 少女の笑顔が止まる。


「誰?」


 喉の奥が塞がった。


 少女も動かなかった。


 泣きもしない。


 言葉の意味を理解できずにいるように、母親を見上げている。


 周囲の人間は足を止めなかった。


 露店の男は客へ品物を渡した。


 荷車が親子の横を通り過ぎた。


 列に並ぶ者たちも、顔を上げない。


 誰も驚いていなかった。


 見慣れている。


 この街では。


 これが、珍しい出来事ではない。


 少女が、母親の袖を掴んだ。


「私だよ」


 母親は困ったように眉を寄せた。


 少女の指を外そうとした手が、途中で止まる。


 なぜ止めたのか。


 母親自身にも、分かっていないようだった。


 けれど、少女の名前は出てこない。


 やがて母親は視線を落とし、小さな革袋を胸元へ抱き寄せた。


 硬貨が、もう一度音を立てた。


 フィーナが歩き出す。


 俺は動けなかった。


「何だよ、それ」


 自分の声が、思ったより低かった。


 フィーナが振り返る。


「見た通りだ」


「家族を忘れたのか」


「売った記憶の中心に、あの子がいたんだろう」


 フィーナは、母親へ視線を向けた。


「記憶は、一つずつ綺麗に切り離せるものじゃない」


「どういうことだ」


「記憶は繋がっている」


「一つを切り離せば、その周りにある記憶まで崩れることがある」


 フィーナの視線が、少女へ移る。


「娘と過ごした一日を売ったつもりでも、その日の顔や声だけが消えるとは限らない」


「名前や、別の日の出来事や――」


「娘を大切に思っていた理由まで、連なって失われることがある」


 母親は少女を見つめていた。


 見知らぬ子どもを見るように。


「あの母親は、娘の名前だけじゃない」


「目の前にいる子どもが、自分の娘だという認識まで崩れたのかもしれない」


 胸の奥に、熱いものが上がった。


「こんなこと、認められてるのか」


「他に何を売れば、今日を生きられたと思う」


「だからって」


 言葉が続かなかった。


 母親の色褪せた外套が目に残っている。


 痩せた腕。


 小さな革袋。


 今日、肉を買えると喜んでいた少女。


「記憶は金になる」


 フィーナは静かに言った。


「食べ物になる。薬になる。家賃になる。冬を越す薪にもなる」


「娘を忘れてまで、生きるのか」


「忘れたくて売ったと思うか」


 何も返せなかった。


 フィーナは親子へ視線を向ける。


 少女が、母親の前で必死に何かを話していた。


 自分の名前かもしれない。


 二人で過ごした日のことかもしれない。


 母親は黙って聞いている。


 だが、その顔には何も浮かばなかった。


 知らない子どもの話を聞いている顔だった。


「生きるために売った」


 フィーナが言う。


「死ねば、記憶も何も残らない」


 でも、生きていても。


 娘を覚えていない。


 それでも、この人は生きていかなければならないのか。


 口にしかけて、飲み込んだ。


 病院にも、選ばされる人はいた。


 治療費のために、家を手放す人。


 家族を守るために、自分の治療を諦める人。


 選びたいから、選ぶのではない。


 何を失うかだけを、選ばされている。


 フィーナの言うことは、分かっている。


 正しさだけでは、どうにもならない場面を、俺も何度も見てきた。


 それでも。


 生きるために、自分が誰を大切にしていたのか、その一部を切り売りする。


 そんな世界を、俺は知らなかった。


「間違ってる」


 ようやく、それだけ言った。


 フィーナは否定しなかった。


「そうかもしれない」


 意外な答えだった。


「なら、どうして」


「正しいことだけでは生きられない」


 市場の喧騒が戻ってきた。


 誰かが値段を叫んでいる。


 子どもが笑っている。


 焼けた肉の匂いが漂ってくる。


 世界は、何も変わらず動いていた。


 親子だけを、その場に残して。


 俺たちは市場を離れ、細い路地へ入った。


 しばらく歩いたところで、フィーナが足を止める。


「見て、どう思った」


「腹が立った」


 声にしても、それだけでは足りなかった。


「でも、何もできない」


「その感覚は持っておけ」


「どういう意味だ」


 フィーナは、市場の方を振り返らなかった。


「ここは、そういう場所だ」


 少しだけ間を置く。


「慣れるな」


 胸の奥に、細いものが刺さった。


 慣れるな。


 俺は、慣れてしまった人間だった。


 三百人以上を看取り、記録を書き、頭を下げ、次の部屋へ向かった。


 田中さんが死んだ朝も、涙は出なかった。


 慣れたのではない。


 慣れたふりが上手くなっただけだ。


 立ち止まらずに済む方法を覚えただけだった。


 そうしなければ、仕事を続けられなかった。


 ずっと、そう思っていた。


 けれど今。


 フィーナの言葉が、その言い訳の奥まで入り込んできた。


 慣れるな。


 その言葉が、もう一度胸の中で響いた。


 俺たちは、ラグナの路地を歩き出した。


 角を曲がると、記憶取引所の看板は見えなくなった。


 それでも。


 握り返されなかった少女の手だけが、


 いつまでも目の奥に残っていた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene8では、

森を抜けたソウルが、

初めてこの世界の街へ足を踏み入れました。


人の声。

市場の匂い。

石畳を叩く車輪の音。


そこには確かに、

誰かの暮らしがあり、

今日を生きる人々の姿がありました。


けれど、

その賑わいのすぐそばで、

人は記憶を売っていました。


家族との幸福な時間。

大切だったはずの顔。

二度と戻らないかもしれない思い出。


生きるために、

忘れることを選ばされる人がいる。


正しくないと分かっていても、

それしか選べない現実がある。


ソウルは怒りを覚えます。


けれど同時に、

フィーナの言葉によって、

この世界が単純な正しさだけでは動いていないことも知ります。


「正しいことだけでは生きられない」


そして、


「慣れるな」


その言葉は、

蒼が現代で抱えていた痛みにも、

静かにつながっていきます。


忘れても、

愛は残るのか。


この問いはまだ、

答えのないまま始まったばかりです。


次は、第2章 Scene9


「名前の残らない人々」へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ