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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第1章「死にゆく者の隣で」

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Scene 7 この世界に神はいない

森に夜が降りる。


焚火の向こうで、

フィーナは記憶を燃やす魔法について語り始める。


使うたびに、何かを失う力。

祈っても、戻らないもの。

そして、五百年前に消えた神。


神のいない世界で、

人は何を信じ、

何を支えに生きるのか。


これは、

ソウルが初めてこの世界の真実に触れる夜の物語。

 日が沈む前に、俺たちは街へ着かなかった。


 森狼の死骸を離れてから、フィーナはほとんど口を開かなかった。


 俺も話す気にはなれなかった。


 歩くたび、右の脇腹が痛む気がした。


 傷などない。


 服も破れていない。


 それでも、足を踏み出すたび、あの森狼が地面を蹴った感触が蘇った。


 低い視界。


 血の味。


 背後から迫る足音。


 振り下ろされた刃。


 俺は何度か右手を握った。


 森狼へ触れた指先には、もう冷たさは残っていない。


 だが、あの恐怖だけが皮膚の内側へ入り込み、抜けないまま残っていた。


「今日はここまでだ」


 フィーナが足を止めた。


 太い木々に囲まれた場所だった。


 根元の土は乾いている。


 少し離れた場所を、細い沢が流れていた。


「街は?」


「明日の昼には着く」


「今日中じゃなかったのか」


「お前が倒れた」


「倒れたというか、膝をついただけだ」


「同じだ」


「違うだろ」


 フィーナは返事をせず、背負っていた荷物を地面へ下ろした。


 俺の歩調に合わせたせいで遅れたのだろう。


 そう思ったが、口には出さなかった。


 言えば、たぶん否定する。


 フィーナが乾いた枝を集め始めた。


 俺も近くの枝へ手を伸ばす。


「座っていろ」


「倒れてない」


 返事の代わりに睨まれた。


 俺は黙って枝を拾った。


 集めた薪の前で、フィーナが指先をかざした。


 淡い青色の光が一瞬だけ集まる。


 火花が散り、乾いた枝へ火が移った。


 橙色の炎が立ち上がる。


 青い光が消えたあと、フィーナは一度だけ指先を握り込んだ。


「今のが魔法か」


「そうだ」


「もっと、呪文を唱えたりするのかと思ってた」


「必要ない」


「便利だな」


 フィーナは答えなかった。


 火の前へ腰を下ろし、剣を手の届く位置へ置く。


 俺も向かい側へ座った。


 火の熱が顔へ届いた。


 森狼に触れてから体の奥に残っていた冷たさが、少しずつ薄れていく。


 フィーナは袋から硬いパンを取り出し、半分を俺へ投げた。


 慌てて受け取る。


「食べろ」


「ありがとう」


「礼はいらない」


「またそれか」


 パンは硬かった。


 噛むたびに顎が痛む。


 味もほとんどしない。


 それでも、朝から何も食べていなかった体には十分だった。


 日が完全に沈むと、森の輪郭が消えた。


 焚火の届かない場所は、黒い壁のように見える。


 だが、空だけは明るかった。


 見上げると、数え切れない星があった。


 白い光。


 青い光。


 わずかに赤みを帯びた光。


 大きさも明るさも違う無数の点が、暗い空の奥まで続いている。


 病院の窓から見上げた空とは違う。


 街の明かりも。


 ビルの影も。


 飛行機の点滅もない。


 ただ、星だけがあった。


「綺麗だな」


 声が漏れた。


 フィーナも空を見上げる。


「慣れる」


「慣れたくないな」


「なぜだ」


「綺麗だと思えなくなるのは、もったいない」


 フィーナはしばらく星を見ていた。


「変なやつだ」


「よく言われる」


「そうだろうな」


「少しは否定してくれ」


 フィーナの口元が、わずかに動いた。


 笑ったのかもしれない。


 焚火の揺れが、そう見せただけかもしれない。


 薪が爆ぜた。


 火の粉が夜空へ昇り、途中で消えた。


 しばらく、二人とも話さなかった。


 虫の声。


 沢の水音。


 枝が燃える音。


 昼間の森狼の声は、もう聞こえない。


 それでも、目を閉じると、あの呼吸が耳の奥へ戻ってきた。


「昼の話だけど」


 フィーナの視線が俺へ向いた。


「残響魔法って、何なんだ」


「昼間、話しただろう。死者や物に残った記憶の痕跡を辿る魔法だ」


「フィーナも使えるのか」


「少しなら」


「俺が見たものと同じ?」


「あれは違う」


 答えは早かった。


「普通の残響魔法で、死者の感情まで自分の体へ取り込むことはない」


「じゃあ、あれは何だった」


「分からない」


「お前でも分からないことがあるんだな」


「ある」


「意外と素直に認めるんだな」


「お前は、私を何だと思っている」


「いきなり剣を向けて、勝手に名前を変えるやつ」


「正しい判断だった」


「どっちが」


「両方だ」


「名前まで?」


「ああ」


 俺は小さく息を吐いた。


 ソウル。


 まだ呼ばれるたび、一拍遅れる。


 それでも、フィーナの口から聞くその名は、朝より少しだけ自分へ近づいていた。


「魔法を使うと、何か消耗するのか」


 フィーナの手が止まった。


「なぜそう思う」


「さっき火をつけたあと、指を握ってただろ」


「見ていたのか」


「仕事柄な」


 フィーナはしばらく黙っていた。


 炎が揺れ、瞳の中で小さく燃えている。


「魔法は、記憶を燃やして使う」


「……は?」


 聞き間違いだと思った。


「今、何て言った」


「記憶を燃やす」


「比喩か?」


「違う」


 フィーナは淡々と答えた。


「魔法を使えば、記憶が失われる」


「使うたびに?」


「ああ」


「どんな記憶が」


「選べることもある」


「選べないこともあるのか」


「ある」


 焚火の中で、薪の端が崩れた。


 赤い火の粉が舞い上がり、夜の中へ消えていく。


 記憶を燃やす。


 言葉どおりなら、この炎と同じだ。


 一度燃えれば、元には戻らない。


「さっき火をつけたときも?」


「少しは」


「何を忘れた」


「分からない」


「分からない?」


「忘れたものは、思い出せない」


 当たり前の答えだった。


 だからこそ、何も言えなかった。


 何を失ったのか分からない。


 失ったことにさえ、気づけないかもしれない。


 記憶を削るというのは、その人の輪郭そのものを、少しずつ薄くしていくことのように思えた。


「怖くないのか」


「怖い」


 フィーナはすぐに答えた。


 声に迷いはなかった。


「怖いのに使うのか」


「使わなければ死ぬ」


「でも」


「戦わなければ、もっと多く死ぬ」


 炎がフィーナの横顔を照らしている。


 まだ若い。


 俺より、ずっと年下に見える。


 それなのに、その横顔は、年齢よりも多くのものを背負っているように見えた。


「だから使う」


 声は静かだった。


 誰かを救うために、自分を削る人間を何人も見てきた。


 眠らない医師。


 休憩を取らない看護師。


 病室を離れようとしない家族。


 けれど、記憶そのものを差し出す人間は初めてだった。


「どこまで忘れるんだ」


「魔法の強さによる」


「全部忘れることもあるのか」


 フィーナは答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 俺は焚火へ目を落とした。


 炎は薪を食べながら、明るく燃えている。


 熱を与える代わりに、形を失わせていく。


 フィーナの魔法も同じなのかもしれない。


 誰かを守るたび。


 何かを救うたび。


 彼女の中から、何かが燃えて消える。


「そんな魔法、神様は止めないのか」


 フィーナが顔を上げた。


「神?」


「この世界にもいるんだろ。神様くらい」


 彼女は、わずかに目を細めた。


 怒ったようには見えなかった。


 ただ、その目には、俺の知らない時間が沈んでいるように見えた。


「神はいない」


「いない?」


「この世界に神はいない」


 薪が爆ぜた。


 乾いた音が、森の静けさを割った。


「どういう意味だ」


「言葉のとおりだ」


「信じられてないってことか」


「違う」


 フィーナは焚火を見つめたまま言った。


「五百年前に消えた」


「消えた?」


「ああ」


「死んだのか」


「分からない」


「どこかへ行った?」


「誰も知らない」


「それで、何が残った」


「神殿だ」


 フィーナの声が、少しだけ冷たくなった。


「神はいない。だが、神殿は残った」


「神がいないのに?」


「ああ」


「変な話だな」


「そうかもしれない」


 それ以上、フィーナは話さなかった。


 声には、これ以上触れられたくない硬さがあった。


 俺も聞くのをやめた。


 森が静かだった。


 虫の声。


 沢の水音。


 焚火の爆ぜる音。


 俺は空を見上げた。


 数え切れない星が、神のいない世界を照らしている。


 神はいない。


 その言葉は、本来なら恐ろしいはずだった。


 祈りを受け取る者がいない。


 死んだ者を迎える者もいない。


 誰かが苦しんでいても、救いの手は降りてこない。


 神なら、苦しむ者を救うものだと思っていた。


 少なくとも、病室で祈る家族は、そう信じていた。


 それなのに。


 胸の奥にあったものが、少しだけ緩んだ。


「……そうか」


 フィーナがこちらを見る。


「何だ」


「いや」


「何かある顔だ」


「そんな顔してるか」


「ああ」


 俺はもう一度、星を見た。


「俺のいた世界も」


 言葉を探した。


「案外、似たようなものだった」


「神がいなかったのか」


「いると言う人もいた」


「お前は信じなかった?」


「分からない」


 神を信じていたわけではない。


 否定していたわけでもない。


 ただ、病室で何度も思った。


 なぜ、この人なのか。


 なぜ、これほど苦しまなければならないのか。


 何のために生き。


 何のために死ぬのか。


 答えが欲しかった。


 誰かに、この苦しみにも意味があるのだと決めてほしかった。


 けれど、答えは降りてこなかった。


「祈っても、助からない人はいた」


 自分の声が、思ったより静かだった。


「そうか」


「善い人も死んだ」


「ああ」


「それでも、みんな理由を探してた」


 田中さんの顔が浮かんだ。


 もう十分生きた。


 そう言いながら、最後まで窓の外を見ていた。


 あの人は、何を待っていたのだろう。


 家族か。


 朝か。


 それとも、誰かの答えだったのか。


「神がいないなら」


 俺は言った。


「救われないのも、罰じゃないのかもしれない」


 フィーナが俺を見た。


 何も言わない。


「苦しむのも」


 言葉が、ゆっくり形になった。


「俺が何かを間違えたからじゃないのかもしれない」


 橋の上で聞いた声が蘇った。


 あなたは、人を助けているんじゃない。


 自分が救われたいだけ。


 否定できなかった。


 人の死に寄り添いながら、必要とされる理由を探していたのかもしれない。


 救えなかった命を自分の責任にすれば、そこには少なくとも原因が生まれる。


 俺が足りなかった。


 俺が間違えた。


 俺に力がなかった。


 世界に意味がないと認めるより、その方が楽だったのかもしれない。


「変なやつだ」


 フィーナが言った。


「またそれか」


「神がいないと聞いて、安心する人間は初めて見た」


「俺も、今気づいた」


「何に」


「安心したことに」


 フィーナは少しだけ首を傾けた。


 それから、焚火へ視線を戻した。


「神がいなくても、人は死ぬ」


「ああ」


「魔獣も死ぬ」


「ああ」


「祈っても、記憶は戻らない」


 その言葉だけが、炎の中へ落ちた。


 俺はフィーナを見た。


 彼女は焚火を見つめている。


 炎が瞳の奥で揺れていた。


「それでも、生きるしかない」


 独り言のような声だった。


 俺は何も答えなかった。


 答えられなかった。


 ただ、その言葉を胸の中へ置いた。


 それでも、生きるしかない。


 橋の上では、選べなかった。


 生きたいとも。


 死にたいとも。


 どちらも言えなかった。


 今も、答えが出たわけではない。


 けれど。


 朝、森で目を覚ました。


 心臓が動いていた。


 呼吸をしていた。


 魔力の必要な世界で、魔力がなくても、俺は生きていた。


 森狼は、最後まで生きようとしていた。


 フィーナは、記憶を失うと知りながら魔法を使っている。


 神がいなくても。


 それでも、生きている。


 薪が崩れた。


 炎が小さくなった。


 フィーナが新しい枝を火へ入れる。


「眠れ」


「お前は?」


「見張る」


「交代する」


「お前は役に立たない」


「言い方」


「事実だ」


「少しは遠慮しろ」


「なぜだ」


 俺は息を吐いた。


 フィーナは焚火の向こうへ座り直した。


 剣を膝へ置き、暗い森を見つめる。


 銀灰色の髪が、火の光を受けて揺れていた。


「フィーナ」


「何だ」


「忘れたくない記憶はあるのか」


 彼女の肩が、わずかに止まった。


 だが、振り返らなかった。


「ある」


「それでも、魔法を使う?」


「必要なら」


 短い答えだった。


 それ以上、聞けなかった。


 俺は地面へ横になった。


 フィーナが貸してくれた薄い布を肩まで引き上げる。


 土は硬かった。


 木の根が背中へ当たる。


 病院の仮眠室より、ずっと寝心地が悪い。


 それでも、不思議と目を閉じることができた。


 焚火の音が聞こえる。


 沢の音。


 虫の声。


 時折、フィーナが枝を動かす音。


 誰かが、そこにいる音だった。


 看取りの夜、俺は死にゆく誰かの隣にいた。


 今は、誰かが俺の隣にいる。


 それだけの違いが、不思議なくらい大きく感じられた。


 空には、数え切れない星があった。


 そのどこにも、神はいない。


 祈りを聞く者も。


 答えを与える者も。


 生きる理由を決める者もいない。


 だからこそ。


 いつか、自分で選ばなければならないのかもしれない。


 正しいかどうかも分からないまま。


 間違えるかもしれないまま。


 それでも。


 この世界に神はいない。


 その言葉を聞いた瞬間。


 なぜか俺は——


 少しだけ、生きやすくなった気がした。




第1章 完

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【公式設定資料(初回版)】

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ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene7では、

焚火を囲む静かな夜の中で、

この世界の魔法と、

五百年前に消えた神の存在が語られた。


魔法を使うたび、

失われていく記憶。


祈っても、

戻らないもの。


神はいない。

それでも、人は死に、

傷つき、

生きる理由を探し続ける。


その事実を前にして、

蒼は初めて、

自分の苦しみが罰ではないのかもしれないと気づく。


そして、

誰かが隣にいることの重さを、

静かに受け取っていく。


これで、第1章

「死にゆく者の隣で」は完結。


次は、第2章 Scene8

「記憶を売る街」へ。

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