表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第1章「死にゆく者の隣で」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/13

Scene 6 死んだ獣の声

森の奥から聞こえたのは、

苦しげな呼吸だった。


けれど、

そこに横たわっていた獣は、

すでに冷たくなっていた。


聞こえるはずのない声。

残るはずのない痛み。

それでもそうには、

その最期が確かに伝わってくる。


これは、

死んだ獣の中に残された、

恐怖と願いに触れる物語。

 木々の向こうで、何かが倒れる音がした。


 太い枝が折れるような、鈍い音だった。


 そのあとに、短い静寂が落ちた。


 虫の声も。


 鳥の声も。


 一瞬だけ、森全体が息を止めたように聞こえた。


 フィーナは剣の柄へ手をかけたまま、木々の奥を見つめていた。


「動くな」


「またそれか」


「今度は本当に動くな」


 声が低かった。


 さっきまでのわずかな緩みは、もう残っていない。


 俺も口を閉じ、耳を澄ませた。


 葉の擦れる音。


 風が枝の間を抜ける音。


 その奥に、かすかな呼吸が混じっていた。


 浅く。


 速く。


 途中で引っかかるような音。


 人間のものではない。


 それでも、聞き覚えのある響きだった。


 痛みに耐えている者の呼吸。


 息を吸うたび、胸の内側を何かに傷つけられている。


 そんな音だった。


「まだ生きてる」


「何がだ」


「呼吸が聞こえる」


 フィーナがわずかに眉を寄せた。


「私には何も聞こえない」


「でも、確かに——」


「ここで待て」


 フィーナが剣を抜いた。


 乾いた金属音が、静かな森へ鋭く響く。


 俺をかばうように一歩前へ出ると、木々の奥へ進み始めた。


 俺も数歩遅れて後を追った。


「待てと言った」


「怪我をしてるなら、見た方がいい」


「魔獣かもしれない」


「だからって、苦しんでるなら同じだ」


 フィーナは振り返らなかった。


 だが、俺を追い返そうともしなかった。


 森の奥へ進むにつれて、匂いが変わった。


 湿った土の匂いに、鉄に似た臭いが混じる。


 血の匂い。


 病棟でも、何度も嗅いだことがある。


 けれど、これはもっと濃かった。


 乾いた血。


 腐り始めた肉。


 体温を失った獣の、重い死臭。


 俺は鼻を覆いそうになった。


 フィーナは顔色一つ変えずに進んでいく。


 低い茂みを越えたところで、視界が開けた。


 黒い塊が、地面に横たわっていた。


 最初は、倒れた木の幹に見えた。


 それほど大きかった。


 灰黒色の毛。


 長く伸びた四肢。


 太い首。


 狼に似た頭部。


 だが、俺が知っている狼とは大きさが違いすぎる。


 体長は三メートルを超えていた。


 前脚だけでも、人間の胴ほどの太さがある。


「……でかいな」


「森狼だ」


「狼?」


「森狼」


「そのままだな」


「何がだ」


「いや、何でもない」


 フィーナは腕を横へ伸ばした。


 進むなということらしい。


 森狼は横向きに倒れていた。


 胸は動いていない。


 耳を澄ませても、もう呼吸は聞こえなかった。


 胸から脇腹にかけて、大きな裂傷が走っている。


 毛は黒く固まり、周囲の土まで暗い色に染まっていた。


 傷口の縁は乾いている。


 流れ出た血も、すでに土へ沈んでいた。


「死んでる」


「ああ」


「いつから」


「二日か、三日前だ」


「じゃあ、さっきの呼吸は」


「何も聞こえなかった」


 フィーナは淡々と言った。


 俺は森狼を見た。


 目は半分開いている。


 濁った瞳が、何もない場所へ向けられていた。


 死んでから数時間どころではない。


 それなのに。


 あの呼吸だけが、まだ耳の奥に残っている。


「何にやられた」


 フィーナは裂けた傷へ目を向けた。


「刃物だ」


「こんな傷を?」


「魔法で刃を強化すれば、できる」


「誰が」


「神殿兵の刃に似ている」


「神殿兵」


「この辺りを巡回している。ただ、そうだと決まったわけではない」


 フィーナは傷口の近くへしゃがんだ。


 周囲の土を確認する。


 潰れた草。


 乾いた足跡。


 折れた枝。


「何で殺した」


「魔獣だからだ」


「それだけで?」


「街へ近づけば、人を襲う」


「こいつが襲ったのか」


「知らない」


「知らないのに殺すのか」


 フィーナが顔を上げた。


「人を襲ってからでは遅い」


「そうかもしれないけど」


「かわいそうだと思ったのか」


 俺は森狼の顔を見た。


 大きな牙が、わずかに覗いている。


 生きていれば、目の前に立つことすらできなかっただろう。


 それでも。


 開いたままの瞳を見ていると、病室に残された顔を思い出した。


「それでも、生きてたんだろ」


「ただの魔獣だ」


「死んだら、全部ただのものになるのか」


 フィーナは答えなかった。


 俺は森狼へ一歩近づいた。


「触るな」


「状態を見るだけだ」


「もう死んでいる」


「分かってる」


 呼吸はない。


 胸も動かない。


 傷は深く、体温も残っていない。


 それでも、最後に確かめずにはいられなかった。


 何が起きたのか。


 どこが傷ついたのか。


 どれほど苦しんだのか。


 もう助からない人の傍でも、同じことをしてきた。


 死んだあとまで確認する意味があるのかと、何度も思った。


 それでも、誰かが生きていた痕跡を、なかったことにはできなかった。


 森狼のそばへ膝をつく。


 腐敗臭が強くなった。


 裂傷は、近くで見るとさらに深い。


 肋骨が覗き、その周囲には焼けたような跡が残っていた。


「ソウル、離れろ」


「すぐ終わる」


 俺は森狼の頭部へ手を伸ばした。


 灰黒色の毛は、土と血で固まっている。


 傷のない額へ、指先を触れた。


 冷たかった。


 田中さんの手とは違う。


 人の皮膚とも違う。


 硬い毛の奥に、完全に失われた体温があった。


 その瞬間。


 世界が反転した。


 白い光が、視界を塗り潰した。


 森が消えた。


 地面も。


 フィーナも。


 自分の手も。


 代わりに、音が押し寄せた。


 風。


 枝が折れる音。


 土を蹴る音。


 荒い呼吸。


 心臓が、胸を突き破るほど激しく打っている。


 俺の心臓ではない。


 四本の脚が地面を蹴っていた。


 速い。


 森の中を走っている。


 視界が低い。


 木々が後ろへ流れていく。


 口の中に、血の味があった。


 痛い。


 右の脇腹が熱い。


 息を吸うたび、胸の奥が裂ける。


 後ろから、複数の足音が追ってきた。


 金属が鳴る。


 人間の声。


 意味は分からない。


 それでも、殺そうとしていることだけは分かった。


 逃げろ。


 逃げろ。


 逃げろ。


 言葉ではなかった。


 意味だけが、直接流れ込んでくる。


 戻らなければ。


 群れがいる。


 小さな体。


 まだ目も開ききっていない。


 柔らかい毛。


 腹へ鼻先を押しつける感触。


 守らなければ。


 子どもたちを。


 群れを。


 ここから遠ざけなければ。


 背後で光が弾けた。


 脇腹へ衝撃が走る。


 体が宙へ浮いた。


 地面へ叩きつけられる。


 息が抜けた。


 立て。


 立たなければ。


 前脚へ力を込める。


 動かない。


 後ろ脚を引き寄せる。


 痛みだけが返ってくる。


 人間の足音が近づいてきた。


 刃が光っている。


 怖い。


 喉の奥から、低い声が漏れた。


 威嚇ではない。


 痛みだった。


 死にたくない。


 まだ戻っていない。


 子どもたちのところへ。


 群れのところへ。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 刃が振り下ろされた。


「っ——!」


 体が跳ねた。


 視界が森へ戻った。


 自分の喉から、息とも声ともつかない音が漏れている。


 手を離そうとした。


 指が動かない。


 森狼の額へ貼りついたように離れなかった。


「ソウル!」


 肩を強く引かれた。


 指先が森狼から離れる。


 その瞬間、全身から力が抜けた。


 膝が地面へ落ちる。


「はっ……」


 息が吸えない。


 胸が狭い。


 肺の奥まで空気が入らない。


 右脇腹が焼けるように痛んだ。


 反射的に手を当てる。


 傷はない。


 服も破れていない。


 それでも、痛みだけが残っていた。


「はぁっ……はっ……」


 心臓が激しく脈打つ。


 指先が震えていた。


 額から汗が落ちる。


 森は冷たいはずなのに、背中まで濡れていた。


「ソウル」


 フィーナが俺の肩を掴んでいた。


 顔が近い。


 何かを言っている。


 声は聞こえているのに、意味が入ってこない。


「ソウル、こっちを見ろ」


 頬へ冷たい指が触れた。


 視線を上げる。


 フィーナの目があった。


「息を吐け」


「……え」


「吸おうとするな。先に吐け」


 言われたとおり、肺の中の空気を押し出した。


 細く。


 長く。


 途中で咳が出た。


「もう一度」


 息を吐く。


 少しだけ、胸が開いた。


 空気が入ってくる。


 湿った土。


 血と腐敗の臭い。


 森の空気。


 自分の呼吸。


 一つずつ、感覚が戻ってきた。


 フィーナは肩から手を離さなかった。


「何をした」


「分からない」


「何を見た」


「見たんじゃない」


 声が震えた。


 俺は脇腹を押さえたまま、森狼を見た。


 死骸は動いていない。


 目も。


 胸も。


 何も変わっていなかった。


「感じた」


「何を」


「走ってた」


 口の中に、まだ血の味が残っている気がした。


「追われてた」


「誰に」


「人間に」


 フィーナの指が、肩の上でわずかに強くなった。


「傷つけられて」


 言葉が途切れた。


 さっきまで自分のものだった恐怖が、胸の奥に残っている。


「戻ろうとしてた」


「どこへ」


「群れに」


 森狼の動かない顔を見た。


「子どもがいた」


 フィーナの目が、わずかに見開かれた。


「守ろうとしてた」


「ソウル」


「怖かった」


 言葉が勝手に出た。


「すごく、怖かった」


 指先の震えが止まらない。


「死ぬのが怖かった」


 森の中へ、俺の声だけが落ちた。


 フィーナは何も言わなかった。


 これまで向けられていた警戒とは、少し違う目だった。


 俺が何をするのかではない。


 俺が何であるのかを、確かめようとしているように見えた。


「死者の感情を読んだのか」


 ようやくフィーナが言った。


「読んだ?」


「今のお前は、この森狼が死ぬ前に感じたものを話している」


「俺にも分からない」


「残響に触れたのか」


「残響?」


 フィーナの視線が、俺の右手へ落ちた。


「死者や物に残った、記憶の痕跡だ」


「記憶」


「強い感情は、魔力に焼きつくことがある。それを辿るのが残響魔法だ」


「魔法……」


「だが、感情まで自分の体で受ける術は聞いたことがない」


「でも、俺には魔力がないんだろ」


「だから、おかしい」


「またそれか」


「笑い事ではない」


 フィーナの声が鋭くなった。


 俺は口を閉じた。


 彼女の手は、まだ剣の柄の近くにある。


 最初に剣を向けられたときとは、警戒の質が違っていた。


「お前は、何なんだ」


 フィーナが言った。


 俺は答えられなかった。


 柳井蒼。


 看護師。


 日本から来た転生者。


 魔力がない。


 それでも生きている。


 今は、ソウルと呼ばれている。


 分かっていることを並べても、答えにはならなかった。


「俺にも分からない」


 そう言うしかなかった。


 手をつき、ゆっくりと立ち上がる。


 まだ膝に力が入らなかった。


「無理をするな」


 フィーナが言った。


「さっきまで、倒れそうでも歩かせたのに」


「今は事情が違う」


「どう違う」


「顔が死人みたいだ」


「看護師に言う台詞じゃないな」


「意味が分からない」


「だろうな」


 フィーナは答えず、森狼へ一度だけ目を向けた。


 それから、森の先へ歩き始めた。


 先ほどより、さらに遅い速度だった。


 俺は森狼の死骸を振り返った。


 もう声は聞こえない。


 額へ触れれば、また同じものが流れ込んでくるのかもしれない。


 確かめたいとは思わなかった。


 怖かった。


 あれは、死んだ獣の記憶を見ただけではない。


 ただの光景でもない。


 あの瞬間、森狼は確かに生きていた。


 走っていた。


 痛がっていた。


 帰ろうとしていた。


 死にたくないと願っていた。


 最後まで、何かを守ろうとしていた。


 その想いだけが、今も胸の奥に残っている。


 死んだ獣の声は、もう聞こえない。


 それでも。


 あの恐怖だけは、俺の中でまだ息をしていた。




【作品案内】

▼ リンクはこちら

  https://note.com/narukame/n/n01fff9ddaf3f?sub_rt=share_pb



【公式設定資料(初回版)】

▼ リンクはこちら

  https://note.com/narukame/n/n38e9c12c3f1b?sub_rt=share_pb



 



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene6では、

蒼が初めて「残響」に触れた。


見えたのは、

死んだ獣の記憶ではなく、

その最期に残された痛みと恐怖だった。


帰りたい。

守りたい。

死にたくない。


言葉を持たない獣にも、

確かに生きようとした想いがあった。


そして、その感情を

自分の痛みとして受け取った蒼に、

フィーナは問いかける。


「お前は、何なんだ」


蒼自身にも、まだ答えはない。


次のSceneでは、

焚火を囲む静かな夜の中で、

この世界の魔法と、

五百年前に消えた神の話が語られる。


第1章 Scene7

「この世界に神はいない」へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ