Scene 5 まだ殺してない
剣先は、まだ喉元にある。
名前も知らない。
考えていることも分からない。
信じていい理由など、どこにもない。
それでも二人は、
同じ森を歩き始める。
噛み合わない言葉。
少しだけ落ちた歩調。
触れて、すぐ離れた手。
これは、
蒼が「ソウル」と呼ばれ、
フィーナという名を知るまでの物語。
女は、しばらく俺を見下ろしていた。
夜明けの光が木々の隙間から差し込み、銀灰色の髪を淡く照らしている。
剣先は、まだ喉元にあった。
先ほどより少し離れている。
それでも、息をするたび、冷たい刃の気配が皮膚に触れた。
「いつまで、こうしているつもりだ」
「考えている」
「何を」
「お前をどうするか」
「できれば、殺さない方向で頼む」
女の目が、わずかに細くなった。
「殺すと決めたわけではない」
「安心できる言い方じゃないな」
数秒の沈黙があった。
やがて、女は剣を下ろした。
刃先が喉から離れる。
触れていた場所に、遅れて熱が戻ってきた。
俺は首筋へ手を当てた。
指先に、わずかな血がついた。
「切れてる」
「浅い」
「深さの問題じゃない」
「生きている」
「そういう問題でもない」
女は答えなかった。
剣を振り、付着していた血を払う。
それから腰の鞘へ収めた。
乾いた金属音が、森の中へ小さく響いた。
ようやく体を起こした。
背中と肩に、湿った落ち葉が貼りついている。
手で払うと、土と葉の匂いが強くなった。
足に力を入れて立ち上がる。
一瞬、視界が揺れた。
夜勤明けの体に、森の冷気が重かった。
俺がふらつくと、女の手がわずかに動いた。
けれど、その手は伸びてこなかった。
「立てるか」
「立ってる」
「倒れそうだ」
「誰かに剣を突きつけられたせいかもしれない」
「関係ない」
「あるだろ」
女は俺の言葉を聞き流し、周囲へ目を向けた。
森の奥を探るように、ゆっくりと視線を動かしている。
さっきまで俺へ向けられていた警戒が、今度は木々の向こうへ向けられていた。
「ここは安全なのか」
「安全な森などない」
「それ、今言うのか」
「今聞いたから答えた」
間違ってはいない。
間違ってはいないが、納得はできなかった。
女は数歩進み、振り返った。
「名前を、もう一度言え」
「柳井蒼。柳井が名字で、蒼が名前だ」
「ソウ」
「ああ」
女は、確かめるようにその音を繰り返した。
「ソウル」
「違う。ソウだ」
「こちらの言葉では、ソウルの方が言いやすい」
「勝手に変えるな」
「嫌なのか」
「そういう問題じゃない」
「なら、ソウル」
「話を聞け」
女は俺の抗議を無視した。
すでに、自分の中では決定したらしい。
それから、わずかに顎を引いた。
「私はフィーナ。フィーナ・アルセンだ」
「フィーナ」
口に出すと、見知らぬ世界の名前が少しだけ形を持った。
フィーナは、それ以上何も言わず、俺に背を向けた。
「行くぞ、ソウル」
「もう決定なのか」
返事はなかった。
フィーナは森の奥へ歩き始めた。
「どこへ行く」
「街だ」
「近いのか」
「歩けば着く」
「どれくらい歩けば」
「お前の足次第だ」
答えになっていない。
けれど、ここに一人で残るという選択肢はなかった。
俺は落ち葉を踏み、フィーナの後を追った。
森の中には、道らしい道がなかった。
木々の間を縫うように、フィーナは迷いなく進んでいく。
俺には、どの方向も同じに見えた。
太い幹。
湿った苔。
淡く光る草。
足元を這う、青みがかった蔓。
葉の隙間から落ちる朝の光が、霧の中に細い筋を作っていた。
フィーナの背中は、その光を横切りながら遠ざかっていく。
「ちょっと待て」
「待たない」
「待てよ」
「遅い」
俺は木の根を跨いだ。
次の一歩で、別の根に足を取られた。
体が前へ傾く。
辛うじて近くの幹へ手をつき、転倒を免れた。
手のひらに、湿った苔の感触が残った。
フィーナは立ち止まらない。
寝ていない体に、緩い上り坂がきつかった。
呼吸が少しずつ浅くなる。
「少し速度を落としてくれ」
「なぜだ」
「足の長さが違うだろ」
フィーナが足を止めた。
ゆっくり振り返り、俺の足を見た。
次に、自分の足を見た。
「それほど違わない」
「そういうところだけ真面目に確認するな」
「では、努力不足だ」
「理不尽だな」
フィーナの口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのかもしれない。
そう見えただけかもしれない。
俺が確かめるより先に、彼女は前を向いた。
再び歩き始める。
その速度は、先ほどよりわずかに落ちていた。
俺は何も言わなかった。
森の中を、二人分の足音が進んでいく。
湿った土を踏む音。
草が衣服に触れる音。
枝から落ちた雫が、葉を打つ音。
目を覚ましたときには不気味だった虫の声も、歩いているうちに森の一部として耳へ馴染み始めていた。
「さっきから思ってたんだけど」
「何だ」
「この世界では、目を覚ました相手にいきなり剣を向けるのが普通なのか」
「場合による」
「俺の場合は」
「怪しかった」
「寝ていただけだ」
「突然現れた」
「俺に言われても困る」
「魔力がなかった」
「それも俺に言われても困る」
フィーナは枝を片手で払いながら進んだ。
「普通なら、転生者は現れた時点で魔力を放つ」
「それで、暴走するのか」
「ああ」
「俺は何も出していなかった」
「だから怪しかった」
「何をしても怪しいんだな」
「まだ殺してない」
「その理屈、おかしいだろ」
「殺す理由もない」
「安心していいのか」
フィーナは少し考えた。
「半分だけ」
「半分か……」
息が漏れた。
笑ったのだと気づいたのは、そのあとだった。
田中さんが亡くなってから、まだ何時間も経っていない。
橋の上で答えの出ない問いを抱えたまま、世界が消えた。
自分が死んだのか、生きているのかさえ分からない。
それなのに。
見知らぬ森で、俺は笑っていた。
口元に残った感覚が、妙に遠いものに思えた。
「ソウル」
フィーナが呼んだ。
一瞬、自分のことだと分からなかった。
「何だ」
「足元を見ろ」
言われた直後、右足が蔓へ引っかかった。
今度は踏ん張れなかった。
体が前へ倒れる。
その腕を、横から掴まれた。
フィーナだった。
細い指が、俺の手首を強く締めている。
軽く引かれただけで、体勢が戻った。
「見ていた」
「見ていない」
「見ていたけど、避けられなかった」
「それを見ていないと言う」
フィーナは、すぐに手を離した。
触れていた場所に、指の感触だけが残った。
「助かった」
「次は自分で避けろ」
「礼くらい受け取れ」
「必要ない」
フィーナは再び歩き始めた。
俺はその背中を見ながら、手首を一度さすった。
「フィーナ」
「何だ」
「お前、友達少ないだろ」
足音が止まった。
フィーナは振り返らなかった。
「なぜそう思う」
「礼を言われても受け取らない。説明は足りない。すぐ剣を向ける」
「必要なことは説明している」
「半分くらいな」
「黙れ」
「図星か」
「黙れ、ソウル」
「はいはい」
フィーナは再び歩き出した。
朝の光が横顔へ触れたとき、耳がわずかに赤く見えた。
光のせいかもしれない。
俺は何も言わなかった。
出会ってから、まだ一時間も経っていない。
名前も、さっき知ったばかりだった。
俺を警戒し、剣を向け、何を考えているのかほとんど分からない。
それでも、フィーナの背中が少しだけ気になった。
看護師をしていると、言葉より先に顔色や仕草を見る癖がつく。
だが、目の前を歩く彼女から読み取れるものは少なかった。
どこか危うい。
どこか寂しい。
そんな気がしただけだった。
森の奥で、鳥が鳴いた。
その声に重なるように、別の音が聞こえた。
低く。
掠れていた。
獣の唸り声にも聞こえた。
フィーナが足を止めた。
さっきまでのわずかな緩みが、背中から消えた。
右手が剣の柄へ伸びる。
「今のは何だ」
「静かにしろ」
フィーナは森の奥を見つめていた。
もう一度、音がした。
苦しげな呼吸。
喉の奥から漏れる、か細い声。
俺は耳を澄ませた。
フィーナが、低く言った。
「近い」
木々の向こうで、何かが倒れる音がした。
【作品案内】
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https://note.com/narukame/n/n01fff9ddaf3f?sub_rt=share_pb
【公式設定資料(初回版)】
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ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene5では、
蒼が「ソウル」と呼ばれ、
フィーナという名前を知った。
剣を向けられて始まった出会いは、
まだ信頼と呼べるものではない。
それでも、
歩調は少しだけ緩み、
倒れかけた腕には手が伸びた。
言葉は噛み合わない。
互いのことも、ほとんど知らない。
けれど、
二人の間にはもう、
出会った直後にはなかった小さな変化が生まれている。
その先で聞こえたのは、
森の奥から漏れる、苦しげな呼吸。
次のSceneでは、
蒼が初めて、
死者に残された声へ触れる。
第1章 Scene6
「死んだ獣の声」へ。




