Scene 4 魔力がない、生きてる
世界が白く溶けたあと、
最初に戻ってきたのは、虫の声だった。
冷たい土。
湿った森。
知らない空。
そして、喉元に突きつけられた剣。
ここがどこなのか。
なぜ生きているのか。
何一つ分からないまま、
蒼は神のいない世界で目を覚ます。
最初に聞こえたのは、虫の声だった。
短く。
高く。
いくつもの音が、暗がりの奥で重なっていた。
次に感じたのは、土の匂い。
湿った落ち葉が、頬に貼りついている。
指先に触れる地面は、冷たく柔らかかった。
風が、首筋を撫でた。
俺は、ゆっくり目を開けた。
白くない。
最初に、そう思った。
視界の上には、木々があった。
太い幹。
幾重にも重なる枝。
葉の隙間から、夜明け前の淡い光が差し込んでいる。
森全体が、薄い霧の中に沈んでいた。
橋ではない。
病院でもない。
川の音も、車の音も聞こえなかった。
俺は息を吸った。
湿った空気が、肺の奥へ入ってきた。
息ができる。
右手を胸へ当てた。
鼓動があった。
速い。
けれど、確かに動いている。
首筋へ指を当てた。
脈も触れた。
生きている。
その事実を理解するまでに、少し時間がかかった。
橋の上。
消えた音。
白く滲んだ世界。
足元の感覚がなくなった。
それから——
何が起きた。
体を起こそうとした。
「動くな」
声がした。
低く、冷たい声だった。
同時に、喉元へ硬いものが触れた。
冷たかった。
視線だけを下げる。
細い剣先が、俺の喉へ向けられていた。
刃には、夜明け前の光が薄く映っている。
少しでも動けば、皮膚を裂く距離だった。
俺は動きを止めた。
「……何だ、これ」
「動くなと言った」
「動いてない」
「口は動いている」
「そこまで止められたら、質問にも答えられないだろ」
返事はなかった。
俺は剣先から、ゆっくり視線を上げた。
銀灰色の短い髪。
霧の中でも、その輪郭だけが淡く浮かんで見えた。
若い女だった。
二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
細身だが、剣を持つ腕に迷いはない。
深い色の外套。
使い込まれた革の装具。
こちらを見下ろす瞳は、夜明け前の空のような色をしていた。
左目の下には、三日月の形をした傷がある。
目立つ傷だった。
けれど、それについて尋ねられる雰囲気ではなかった。
「質問する」
女が言った。
「お前は、何者だ」
「俺の方が聞きたいんだけど」
女の目が、わずかに細くなった。
周囲を見ようとすると、剣先が動いた。
「動くな」
「分かった。分かったから、それを少し離してくれ」
「答えが先だ」
話が通じない。
いや。
少なくとも、言葉は通じている。
なぜ会話ができる。
ここはどこだ。
この女は誰だ。
聞きたいことはいくつもあった。
けれど、喉元の剣が質問の順番を決めていた。
「柳井蒼」
「ヤナイ・ソウ」
「そう」
「何をしている人間だ」
「看護師」
女の眉が、わずかに寄った。
「カンゴシ」
「病人や怪我人の世話をする仕事だ」
「治癒術師か」
「医者とは違う。魔法も使わない」
言ってから、自分の言葉に引っかかった。
魔法。
女は、それが存在することを疑っていなかった。
俺の方がおかしなことを言ったような顔をしている。
「聞いたことがない職業だ」
「そうだろうな」
「どこから来た」
「日本」
「ニホン」
「知らないだろ」
「知らない」
即答だった。
「俺も、ここを知らない」
女は黙った。
剣先は動かない。
虫の声だけが、二人の間を埋めていた。
森の奥で、何かが葉を揺らした。
反射的にそちらを見ようとする。
刃が皮膚へ触れた。
「動くな」
「だから、少し離してくれ。切れてる」
喉へ手を伸ばそうとすると、女の目が鋭くなった。
「手も動かすな」
「無理を言うな」
痛みは弱い。
深くは切れていない。
それでも、冷たい刃先の下に薄い熱が生まれていた。
女は俺の言葉を無視した。
「魔力を見せろ」
「魔力?」
「持っているだろう」
「持ってない」
「嘘をつくな」
「本当にない」
「あり得ない」
「こっちも、今の状況全部があり得ないと思ってる」
女は、しばらく俺を見つめていた。
不審者を見る目。
敵を見る目。
それ以上に、理解できないものを見る目だった。
やがて、剣を持っていない方の手を上げた。
白い指先が、俺の胸へ向けられる。
「何をする」
「調べる」
「先に説明してくれ」
「動くな」
「それしか言わないな」
女の指先に、淡い青色の光が生まれた。
小さな火のように揺れながら、少しずつ広がっていく。
俺は息を止めた。
光は女の手を離れ、俺の胸元へ触れた。
熱くはなかった。
冷たくもない。
皮膚を通り抜け、胸の奥へ染み込んでくるような感覚だけがあった。
心臓が、一度強く打った。
光は胸から腹へ。
腕から指先へ。
体の中を探るように流れていく。
やがて、何も起こらないまま消えた。
「終わったのか」
女は答えなかった。
消えた光の跡を見つめている。
初めて、彼女の表情が崩れた。
警戒ではなかった。
困惑とも少し違う。
目の前にあるはずのないものを見た顔だった。
「……ゼロ」
「何が」
「魔力がない」
「だから、そう言った」
「あり得ない」
「二回目だぞ」
女は剣先を向けたまま、俺を見下ろしていた。
さっきまでよりも、強く警戒している。
だが、その奥に別の色が混じっていた。
恐れているように見えた。
俺を、ではない。
俺に起きている何かを。
「お前」
女が言った。
「転生者だな」
「転生?」
「この世界の人間ではない」
世界。
その言葉が、胸の奥へ沈んだ。
俺はもう一度、周囲を見た。
幹の根元には、淡く青い光を放つ草が生えていた。
蛍ではない。
葉そのものが、内側から光っている。
見たことのない蔓が、太い木の枝へ絡みついていた。
その先に咲く花は、風もないのにゆっくりと開閉している。
遠くで響いた鳴き声も、知っている動物のものではなかった。
夢。
そう考えようとした。
けれど、喉元の痛みは消えない。
土の冷たさも。
湿った匂いも。
胸の鼓動も。
すべてが、あまりにもはっきりしていた。
橋の上で、世界が白く溶けた。
そして、ここで目を覚ました。
「俺は」
声が掠れた。
「死んだのか」
「知らない」
女は即座に答えた。
「知らないのか」
「私は、お前が来る前を見ていない」
「それは、そうだけど」
「この世界の外から来た者を、転生者と呼ぶ」
「世界の外」
「お前がニホンと呼んだ場所がどこかは知らない。だが、ここではない」
俺は自分の手を見た。
輪郭はある。
指も動く。
病院で何度も洗ったせいで荒れた皮膚も、そのままだった。
白衣ではない。
橋にいたときと同じ服を着ている。
何が起きたのか。
まだ分からない。
「転生者は、他にもいるのか」
女の表情が硬くなった。
「いた」
「いた?」
「こちらへ来た者は、体の中に大量の魔力を取り込む」
剣先が、ほんの少し下がった。
「器が耐えられない」
「どうなる」
「暴走する」
「その後は」
「死ぬ」
森の空気が、急に冷たくなった気がした。
「全員か」
「私が知る限りは」
「それなら、俺は」
「生きている」
女は、確かめるように言った。
「魔力がない」
一拍置いた。
「なのに、生きてる」
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
「魔力がないから、生きているんじゃないのか」
「それなら、なぜ何も取り込まなかった」
「俺に聞くな」
「だから、分からない」
初めて、女の声にわずかな苛立ちが混じった。
俺は息を吐いた。
夢ではない。
たぶん。
死んだかどうかも分からない。
けれど、心臓は動いている。
呼吸もできる。
喉は痛い。
土は冷たい。
生きている。
少なくとも、今は。
「一つ確認していいか」
「何だ」
「ここは、日本じゃないんだな」
「ニホンが何かは知らない」
「じゃあ、この場所の名前は」
「ヴァルム連邦の東方森林地帯だ」
聞いたことのない名前だった。
地名だけではない。
国の名にも。
歴史にも。
記憶のどこにもない。
「本当に、ここは別の世界なのか」
「まだ信じられないのか」
「目が覚めたら知らない森にいたんだ。
すぐ信じろという方が無理だろ」
「魔力も、転生者のことも説明した」
「説明を聞いたからって、すぐ納得できるわけじゃない」
女は黙った。
それから、わずかに視線をそらした。
俺の言葉を理解しようとしているように見えた。
だが、すぐにこちらへ目を戻す。
その間も、剣は下ろされなかった。
「生きている転生者は、初めて見た」
女は、もう一度言った。
確かめるような声だった。
森の向こうから、朝の光が差し込んだ。
青く光っていた草が、少しずつ色を失っていく。
鳥に似た何かが、頭上の枝から飛び立った。
大きな翼が空気を打つ。
淡い金色の羽が一枚、ゆっくりと落ちてきた。
それは地面へ触れる前に、光の粒となって消えた。
俺は、その光を見送った。
ここは、日本ではない。
病院も。
橋も。
田中さんのいた世界も、ここにはない。
あの人の声も、もう届かない。
それでも、俺は呼吸をしている。
胸の奥では、心臓が動き続けていた。
何のために。
その答えは、まだなかった。
ただ一つだけ、分かることがあった。
俺には、魔力がない。
それでも——
俺は、生きている。
【作品案内】
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【公式設定資料(初回版)】
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ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene4では、蒼が初めてテルナ・ヴァイドの地に立ち、
フィーナと出会った。
知らない森。
通じるはずのない言葉。
魔力という、この世界では当たり前の力。
そのどれもが、蒼にとっては現実とは思えないものばかりだった。
けれど、ただ一つだけ確かなことがある。
魔力はない。
それでも、蒼は生きている。
次のSceneでは、
フィーナとの奇妙なやり取りが続き、
蒼は「ソウル」と呼ばれることになる。
第1章 Scene5
「まだ殺してない」へ。




