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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第1章「死にゆく者の隣で」

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3/12

Scene 3 橋の上の問い

夜が明けても、

すべてが終わるわけではない。


見送った命の重さも、

答えられなかった問いも、

胸の奥に残り続ける。


誰かの死に寄り添ってきた蒼は、

朝焼けの橋の上で、

今度は自分自身に問いかける。


――俺は、何のために生きている。

 夜勤を終えた頃には、空はもう明るくなっていた。


 薄い青色の空。


 東の端だけが、淡い橙色に染まり始めていた。


 病院の自動扉を抜けると、冷たい空気が頬に触れた。


 消毒液の匂いが、まだ服に残っていた。


 俺は駅へ向かわなかった。


 足はいつの間にか、夜勤明けによく立ち寄る橋へ向かっていた。


 誰かに会うためではない。


 何かをするためでもない。


 家へ帰る前に、ただ立ち寄る場所だった。


 橋の下には、川が流れていた。


 きれいな川ではない。


 濁った水と、コンクリートの護岸。


 それでも、朝の光を受けた川面だけは穏やかに見えた。


 何も知らない顔で、光を返していた。


 橋の手前にある自動販売機で、缶コーヒーを買った。


 取り出した缶は、温かかった。


 両手で包むと、指先に熱が戻ってきた。


 田中さんの手とは、違う温度だった。


 俺は橋の中央まで歩き、欄干にもたれた。


 プルタブを開けた。


 小さく金属が鳴った。


 一口飲んだ。


 砂糖が入っているはずなのに、苦さだけが舌に残った。


 道路を、通勤途中の車が流れていた。


 誰かにとっては、これから一日が始まる。


 田中さんの一日は、もう始まらない。


 午前五時十二分。


 その数字だけが、頭に残っていた。


 七十八年が終わった時刻。


 記録の中では、それだけだった。


 俺は缶を握った。


 薄い金属が、少しだけへこんだ。


 家へ帰れば、静かな部屋がある。


 洗濯物。


 読みかけの本。


 鳴らないスマートフォン。


 誰も待っていない空間。


 病棟では、俺を呼ぶ声があった。


 柳井さん。


 水が欲しい。


 痛い。


 眠れない。


 怖い。


 けれど、病院を出た瞬間、俺を呼ぶ声はなくなる。


 白衣を脱げば、自分が何者なのか分からなくなった。


 缶コーヒーから、細い湯気が上がっていた。


 風に触れると、すぐに消えた。


 彼女の声を思い出した。


「蒼は、いつも死の話をするよね」


 半年ほど前。


 夕食の途中だった。


 向かいに座っていた彼女は、箸を置いていた。


「仕事柄、仕方ないだろ」


「そういうことじゃない」


「じゃあ、どういうことだよ」


「生きる話をしないってこと」


 俺は、何も返せなかった。


「今日、何が楽しかったとか」


「これから、何をしたいとか」


「そういう話、しなくなったよね」


「疲れてるだけだよ」


「違う」


 彼女の声は静かだった。


 怒っているようには聞こえなかった。


 だからこそ、目を合わせられなかった。


「あなたは、誰かの死に寄り添っているうちに」


 一度、言葉を切った。


「自分が生きることを、後回しにしてる」


「そんな大げさな話じゃない」


「大げさじゃないよ」


 彼女は俺を見ていた。


「私は、あなたと生きる話がしたかった」


 その言葉に、俺は最後まで何も返せなかった。


 旅行に行こう。


 一緒に住もう。


 いつか家族になろう。


 そういう話をされるたび、少しだけ息が苦しくなった。


 明日のことすら、考えられなかった。


 誰かの明日がなくなる場所で働いているうちに、自分の未来を想像できなくなっていた。


 別れた理由は、忙しさでも、価値観の違いでもない。


 彼女が差し出した未来を、俺は受け取れなかった。


 返す言葉を、持っていなかった。


 缶コーヒーは、いつの間にかぬるくなっていた。


 俺は川を見た。


 水は流れている。


 同じ場所には、とどまらない。


 それなのに、遠くから見れば何も変わっていないように見えた。


 俺も、同じなのかもしれない。


 田中さんの言葉が戻ってきた。


「何のために生きてたのか、今でも分からん」


 あの問いに、俺は答えられなかった。


 死を前にした人へ、軽々しく答えられなかったからではない。


 俺自身が、同じ問いを抱えている。


 俺は、何のために生きている。


 誰かを救うためか。


 でも、救えない人の方が多い。


 治せない。


 戻せない。


 止められない。


 最後にできるのは、手を握ることだけだ。


 声をかける。


 隣に座る。


 一人ではないと伝える。


 それだけ。


 それに、意味はあるのか。


 どれだけ手を握っても、呼吸は止まる。


 どれだけ声をかけても、心臓は止まる。


 だったら、俺は何をしている。


 何をしたつもりで、毎日あの場所に立っている。


 田中さんは言った。


 一人は怖い。


 でも今は、少しだけ怖くない。


 その言葉は、まだ耳に残っている。


 それでも、自分が何かを渡せたとは思えなかった。


 手を握っただけだ。


 隣にいただけだ。


 そんなものを、救いと呼んでいいのか。


 俺の手には、もう田中さんの温度はなかった。


 思い出そうとした。


 薄い皮膚。


 骨ばった指。


 最後に、わずかに動いた感触。


 けれど、朝の冷気の中で、その温度は少しずつ遠ざかっていた。


 忘れたくない。


 そう思う。


 同時に、思い出さないようにしてきた。


 矛盾している。


 覚えていたら、続けられない。


 忘れてしまえば、その人が本当に消えてしまう気がする。


 どちらを選んでも、何かが削れていく。


 川面に朝日が揺れていた。


 光は水の流れに崩されながら、それでも消えずに残っていた。


 俺は目を細めた。


 眩しかった。


 それだけだった。


 缶の中に残っていたコーヒーを飲み切った。


 もう、冷たくなっていた。


 俺は欄干から体を離した。


 帰ろうと思った。


 けれど、足は動かなかった。


 橋の上を、風が通り抜けた。


 シャツの裾が揺れた。


 川の音。


 車の音。


 遠くで鳴る踏切。


 世界は動いている。


 俺だけが、取り残されていた。


 口を開いた。


 誰かに聞かせるつもりはなかった。


 川へ向けた言葉でもない。


 自分自身へ、確かめるように言った。


「俺は」


 声が、風に消えた。


 もう一度、息を吸った。


「俺は、誰かの役に立てているのか」


 返事はなかった。


 川は流れていた。


 車は走っていた。


 朝日は昇っていた。


 何も変わらない。


 そう思った。


 その瞬間だった。


 川の音が、消えた。


 俺は顔を上げた。


 風が止まっていた。


 車の音も。


 遠くの踏切も。


 自分の呼吸さえ、聞こえなかった。


 世界から、音だけが抜き取られていた。


 手の中の缶コーヒーが、白く滲んだ。


 欄干も。


 川も。


 空も。


 遠くの建物も。


 すべての輪郭が、光の中へ溶けていく。


 俺は欄干を掴もうとした。


 指は、何にも触れなかった。


 足元の感覚が消えた。


 体が浮いたのか。


 落ちたのか。


 それすら分からなかった。


 白い。


 ただ、白かった。


 病室の天井よりも。


 朝の光よりも。


 何も書かれていない紙よりも。


 白い世界。


 怖いと思うより先に、田中さんの声が蘇った。


「人は何のために生きるんだろうな」


 答えは、まだない。


 俺自身の問いにも。


 田中さんの問いにも。


 何ひとつ、答えられていない。


 それでも。


 誰かが、俺の手を握った気がした。


 薄くて。


 少し冷たくて。


 最後まで離せなかった手。


 その感触だけが、白い世界に残っていた。


 俺は、その手を握り返そうとした。


 けれど、指はもう動かなかった。


 その問いに、答えが出る前に——


 世界が、白く溶けた。



【作品案内】

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【公式設定資料(初回版)】

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#看護師

#連載小説

#異世界ファンタジー

#生と死

#テルナヴァイド

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene3では、誰かの死ではなく、

蒼自身の生き方へ問いを向けた。


人の最期に寄り添いながら、

自分の未来を後回しにしてきた蒼。


「私は、あなたと生きる話がしたかった」


その言葉に答えられないまま、

蒼は朝焼けの橋に立つ。


そして、答えが見つかるより先に、

世界は白く溶けていく。


次のSceneから、

物語は神のいない異世界へ移る。


第1章 Scene4

「魔力がない、生きてる」へ。

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