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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第1章「死にゆく者の隣で」

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Scene 2 三百人目の夜明け

夜は、まだ終わらない。


間に合ってほしいと願う足音が、

静かな病室へ近づいてくる。


握っていた手を、

家族へ返すときが来る。


これは、

一人の人生が夜明けの中で閉じていく、

三百人目の朝の物語。

 廊下の向こうから、足音が聞こえた。


 走ってはいない。


 けれど、急いでいることだけは分かる足音だった。


 靴底が床を擦る音が、途切れながら近づいてきた。


 俺は田中さんの手を握ったまま、扉を見た。


 時計は、午前五時を回ろうとしていた。


 病室の扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、五十代くらいの男性だった。


 上着の下に、部屋着が見えた。


 その後ろから、一人の女性が入ってきた。


 二人とも、田中さんによく似た目をしていた。


「父は」


 男性の声が掠れていた。


「まだ、呼吸はあります」


 俺は椅子から立った。


「声は聞こえている可能性があります。そばで、話しかけてあげてください」


 二人は頷いた。


 娘さんがベッドの横へ来た。


 けれど、すぐには触れなかった。


 伸ばしかけた手が、宙で止まっていた。


「お父さん」


 田中さんのまぶたは閉じたままだった。


「来たよ」


 娘さんは、ようやく父親の手に触れた。


 俺が握っていた手。


 薄くて、少しずつ冷たくなっている手。


 その上に、娘さんの両手が重なった。


 俺は指をほどいた。


 田中さんの手を、家族へ返した。


「親父」


 息子さんが反対側へ立った。


「遅くなって、ごめんな」


 田中さんの指が、わずかに動いた気がした。


 本当に動いたのかは分からなかった。


 俺が、そう見たかっただけかもしれない。


「運動会のこと」


 息子さんが言った。


「ずっと、腹を立ててた」


 田中さんの呼吸が、浅く続いていた。


 一度吸う。


 長く止まる。


 また、小さく吸う。


「でも、俺も、あの頃の親父の歳に近づいてきて」


 息子さんは、そこで口を閉じた。


 喉が一度、大きく動いた。


「少しだけ、分かるようになった」


 娘さんが、父親の手を握り直した。


「私の結婚式、覚えてる?」


 返事はなかった。


「ずっと仕事の電話を見てたよね」


 娘さんは、小さく息を吐いた。


「嫌だった」


 責めるような声ではなかった。


 だからこそ、その言葉は病室に重く残った。


「でも」


 娘さんは、田中さんの手を頬へ当てた。


「来てくれたことは、覚えてるから」


 モニターの音の間隔が広がった。


 画面の波形が低くなっていった。


 何度も見てきた形だった。


 体が先に理解していた。


 終わりが、近い。


「手を握っていてあげてください」


 俺は言った。


「名前を呼んであげてください」


「親父」


「お父さん」


 田中さんの呼吸が止まった。


 数秒後。


 胸が、小さく動いた。


「お父さん」


 田中さんの口が、わずかに開いた。


 声にはならなかった。


 長い息だけが、静かに漏れた。


 それが、最後だった。


 俺は医師を呼んだ。


 必要なことを、必要な順番で伝えた。


 声は震えなかった。


 言葉にも詰まらなかった。


 何度も繰り返してきた手順だった。


 医師が、呼吸と心音を確認した。


 腕時計へ目を落とした。


 そして、時刻を告げた。


 午前五時十二分。


 娘さんが、父親の名前を呼んだ。


 息子さんは俯いたまま、布団を握っていた。


 俺はベッドの足元に立ち、頭を下げた。


「お力になれず、申し訳ありません」


 何度も口にしてきた言葉だった。


 本当は、何に謝っているのか、自分でも分からなかった。


 息子さんが顔を上げた。


「いえ」


 目が赤くなっていた。


「間に合いました」


 その一言が、病室に落ちた。


「言いたかったことを、言えました」


 娘さんも頷いた。


「父は、一人じゃなかったんですよね」


「はい」


「ずっと、そばにいました」


「そうですか」


 娘さんは、田中さんの手を包み直した。


「ありがとうございました」


 俺は、もう一度頭を下げた。


 ありがとう。


 何度も聞いた言葉だった。


 それなのに、返す言葉が見つからなかった。


 しばらくして、俺は病室を出た。


 扉が閉まる直前、息子さんの声が聞こえた。


「親父。お疲れさま」


 扉が閉じた。


 声も、そこで途切れた。


 廊下には、朝の光が差し込んでいた。


 清掃用のワゴンが遠くを通った。


 別の病室から、ナースコールが鳴った。


 誰かが水を欲しがっている。


 誰かが痛みを訴えている。


 誰かの夜は、まだ終わっていない。


 俺はナースステーションへ戻った。


 椅子に座り、記録画面を開いた。


 患者氏名。


 田中義雄。


 家族到着。


 呼吸停止。


 医師へ連絡。


 午前五時十二分、死亡確認。


 家族二名立ち会い。


 必要な項目を、順番に入力していった。


 一人の人生が、数行になった。


 七十八年。


 仕事をした。


 家族を養った。


 家を建てた。


 息子の運動会へ行けなかった。


 娘の結婚式で、仕事の電話を見ていた。


 妻へ、ありがとうを言えなかった。


 最後に、人は何のために生きるのかと聞いた。


 けれど、記録には書かない。


 書く欄がない。


 死亡時刻。


 状態変化。


 家族への対応。


 それだけだった。


 カーソルが、画面の上で点滅していた。


 俺はキーボードへ指を置いた。


 手は止まらなかった。


 いつもの言葉を、いつもの順番で入力していく。


 止まる理由がなかった。


 それが、おかしいと思った。


「柳井さん」


 隣から声をかけられた。


 夜勤を一緒にしていた看護師が、俺を見ていた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫」


 考える前に答えていた。


「少し休みます?」


「これを書いたら」


「無理しないでくださいね」


「うん」


 同僚は、鳴り始めたナースコールへ向かった。


 俺は一人になった。


 画面には、田中さんの名前が残っていた。


 涙は出なかった。


 田中さんの声は、まだ耳に残っている。


 手の温度も消えていない。


 それなのに、目は乾いたままだった。


 慣れた。


 そう言えば、簡単だった。


 でも、慣れたんじゃない。


 何も感じていない顔を、作れるようになっただけだ。


 そう思っていた。


 そう思わなければ、続けられなかった。


 でも。


 慣れていないなら、なぜ泣けない。


 家族は泣いていた。


 俺だけが泣いていない。


「慣れたら、人間じゃない」


 昔、誰かが言っていた。


 誰だったのかは、もう思い出せなかった。


 慣れなければ、続けられない。


 慣れてしまえば、人間ではない。


 なら。


 十年続けた俺は、何になった。


 カーソルが点滅していた。


 俺は、最後の項目を入力した。


 保存。


 田中義雄という名前が、画面から消えた。


 次の患者の記録が表示された。


 それで終わりだった。


 また、看取った。


 三百と何人目だろう。


 数えるのをやめたのは、二年前だった。


 忘れたわけではない。


 思い出さないようにしてきただけだった。


 それでも。


 手の温度だけが残っている。


 薄くて。


 少し冷たくて。


 最後に、ほんのわずかに動いた指。


 俺は、自分の手を見た。


 何も握っていなかった。


 俺は記録用のバインダーを閉じた。


 乾いた音がした。


 涙の代わりに、ただ——


 朝の光だけが、そこにあった。


 遠くで、ナースコールが鳴った。


 俺は立ち上がった。



【作品案内】

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【公式設定資料(初回版)】

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#連載小説

#ファンタジー小説

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#生と死

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#テルナヴァイド

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene2では、田中さんの最期と、その手が蒼から家族へ返される瞬間を描いた。


死を何度見送っても、慣れることなどできない。

けれど、泣けない自分を、蒼は責めてしまう。


三百人目かもしれない夜明け。

その数は、蒼が背負ってきた時間でもある。


次のSceneでは、病院を出た蒼が、朝焼けの橋へ向かう。

そこで彼は、誰かの死ではなく、自分自身の生き方を問い始める。


第1章 Scene3

「橋の上の問い」へ。

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