Scene 1 後悔している
死にゆく人の隣で、
できることは、あまりにも少ない。
痛みを消すことも、
別れを止めることも、
生きる意味を教えることもできない。
それでも、手を握ることはできる。
これは、
答えを持たない看護師が、
誰かの最期に寄り添った夜から始まる物語。
深夜2時17分。
モニターの電子音だけが鳴っていた。
点滴の雫が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
一定の間隔で落ちるその音だけが、この部屋に残された時間を刻んでいるようだった。
緩和ケア病棟302号室。
カーテンの隙間から、廊下の白い光が細く差し込んでいた。
消毒液の匂い。
少し古い寝具の匂い。
そして、人の体温が少しずつ遠ざかっていく匂い。
俺はパイプ椅子に座っていた。
膝の上には記録用のバインダー。
けれど、ペンは止まったままだった。
右手は、田中義雄さんの手を握っていた。
七十八歳。
末期癌。
家族はまだ到着していない。
薄い手だった。
骨ばっていて、軽くて、少し冷たい。
それでも、まだ温もりは残っていた。
こういう夜を、俺は何度も過ごしてきた。
死が近づく人の隣で朝を待つ夜。
誰かの人生が終わる音を静かに聞く夜。
慣れたはずだった。
慣れなければ続けられないと思っていた。
でも、本当は違う。
慣れたのではない。
ペンを握る手が、今日も止まったままだった。
「蒼くん」
かすれた声がした。
「はい。ここにいます」
田中さんは天井を見ていた。
病室の天井。
何も答えてくれない白い天井。
「まだ起きてたのか」
「仕事ですから」
「仕事で……手まで握ってくれるのか」
「寒そうだったので」
田中さんは少しだけ笑おうとした。
けれど、唇はうまく動かなかった。
「そうか」
沈黙が落ちた。
モニターの音だけが続いていた。
「俺な」
「はい」
「後悔している」
俺は返せなかった。
慰めの言葉なら知っている。
何百回も使ってきた。
けれど今、この人に向けるにはどれも軽すぎた。
「何を、ですか」
田中さんは目を閉じた。
そして、ゆっくり話し始めた。
「仕事ばかりだった」
「朝早く出て、夜遅く帰る」
「休みの日も仕事だった」
「それが当たり前だと思ってた」
呼吸が少し乱れた。
それでも話し続けた。
「息子の運動会も行かなかった」
「一度もな」
「いつでも見られると思ってた」
小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「気づいたら、もう終わってた」
俺は黙って聞いていた。
「娘が結婚するときもな」
「式で何を話したか覚えてない」
「仕事の電話ばかり気にしてた」
点滴の雫が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
「妻がな」
田中さんの声が少しだけ震えた。
「ある日、夕飯を作らなくなったんだ」
「何も言わなくなった」
「でも俺は理由も聞かなかった」
しばらく黙ったあと、
田中さんは言った。
「先に逝った」
「ありがとうも」
「ごめんも」
「ちゃんと言えなかった」
俺は握る手に少しだけ力を込めた。
「もっと、ちゃんと生きればよかった」
田中さんは呟いた。
「仕事もした」
「家族も養った」
「家も建てた」
「でもな」
ゆっくりと天井を見る。
「何のために生きてたのか、今でも分からん」
俺は言葉を探した。
見つからなかった。
見つかる気もしなかった。
「朝起きて」
「働いて」
「飯を食って」
「寝る」
「それを何十年も繰り返して」
「気づいたら、ここだ」
俺は手を握ったままだった。
「なあ、蒼くん」
「はい」
「人は何のために生きるんだろうな」
答えられなかった。
家族のためです。
幸せのためです。
生きてきたことには意味があります。
どれも間違いではない。
でも。
今の田中さんには届かない。
そして。
俺自身にも届かない。
「分かりません」
そう言うしかなかった。
「看護師さんでも分からんか」
「……はい」
「謝ることじゃない」
田中さんは少し息を吐いた。
「蒼くん」
「はい」
「君は優しいな」
反射的に笑おうとした。
患者を安心させるための笑顔。
家族を安心させるための笑顔。
何百回も貼りつけてきた笑顔。
けれど。
口元は動かなかった。
「優しくなんかありません」
「そうか?」
「俺は何もできていません」
「手を握ってくれてる」
「それだけです」
「それが、ありがたい」
視線が落ちた。
握った手から目を離せなかった。
「一人は怖い」
「はい」
「でも今は、少しだけ怖くない」
返事が出なかった。
田中さんの指が、わずかに動いた。
俺は手を握る力を少しだけ強めた。
「ここにいます」
「うん」
「朝まで、ここにいます」
「ありがとう」
田中さんのまぶたが、ゆっくり閉じていった。
呼吸が浅くなる。
長くなる。
不規則になる。
家族はもう向かっていた。
医師にも連絡済みだった。
今、俺にできることは多くない。
ただ。
手を離さないこと。
それだけだった。
窓の外が少しずつ白み始めていた。
夜明けが近い。
三十二歳。
看護師になって十年。
緩和ケア病棟に配属されて六年。
三百人以上を看取った。
その数を途中から数えるのをやめた。
数えるたび、自分の何かが擦り減っていく気がしたからだ。
田中さんの手は少しずつ冷たくなっていた。
俺は両手で包む力を少しだけ強くした。
それしかできなかった。
窓の外。
東の空が淡い橙色に染まり始めていた。
綺麗だな、と。
そう思った。
思っただけだった。
特に何も感じなかった。
モニターの電子音だけが、
静かに鳴り続けていた。
それが、
一番苦しかった。
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ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第1話は、物語の始まりでありながら、派手な出来事はほとんど起こらない。
ただ一人の患者が言葉を残し、
蒼がその手を握っている。
けれど、この静かな夜に置かれた問いが、
やがて異世界へ続いていく。
「人は、何のために生きるのか」
答えを出せないまま、夜は明ける。
次のSceneでは、田中さんの家族が病室へたどり着き、
蒼はまた一つの最期を見届ける。
第1章 Scene2
「三百人目の夜明け」へ。




