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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第2章 忘れても、愛は残るのか

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10/12

Scene 10 大丈夫です

朝のラグナに、

焼きたてのパンの匂いが流れる。


昨日見たものは、

まだ消えていない。


記憶を売る母親。

名前を呼ばれない家族。

何度も同じ日付を尋ねる老人。


それでも街は、

何もなかったように朝を迎える。


石畳を走る小さな足音。

大きすぎるパン籠。

痛くても笑って言う、


「大丈夫です」


これは、

ソウルがこの世界で初めて、

守りたいと思える明るさに出会う物語。

 昨夜、何度も同じ夢を見た。


 同じ声で、同じ日付を答え続ける神官の夢。


 目が覚めても、その声だけは耳の奥に残っていた。


 通りには朝の光が差している。


 夜の間に冷えた石畳を、少しずつ温めていた。


 窓を開ける音。


 店先へ木箱を並べる音。


 遠くで、朝を告げる鐘が鳴る。


 ラグナは、昨日の出来事など知らないように動き始めていた。


「遅い」


 少し先を歩いていたフィーナが振り返った。


「普通に歩いてる」


「私より後ろにいる」


「お前が速いんだよ」


「ついてこい」


「ついてってる」


 そう言いながら、少しだけ歩幅を早める。


 昨日より、遅れたくなかった。


 俺とフィーナは、ガルムという時計職人の工房へ向かっていた。


 懐中時計を直せる男がいる、とフィーナが言った。


 なぜ時計を直す必要があるのかは、まだ聞いていない。


 聞いたところで、フィーナはどうせ「会えば分かる」と言っただろう。


 市場へ続く通りには、すでに人が増え始めていた。


 籠を抱えた女。


 荷車を押す男。


 眠そうな顔で水桶を運ぶ子ども。


 焼き窯の前では、白い湯気をまとったパンが籠へ移されている。


 その匂いに、腹が鳴った。


「聞こえたぞ」


「何が」


「腹の音」


「聞かなかったことにしろ」


 フィーナは何も言わず、ただ先を歩いた。


 その時だった。


 前方から、元気な足音が近づいてきた。


 誰かが人混みを縫うように走ってくる。


 小柄な少年だった。


 栗色の髪。


 そばかす。


 大きな瞳。


 肩に伝令用の鞄。


 両腕に、パンを詰めた大きな籠。


 籠が大きすぎて、前がほとんど見えていない。


「避けろ」


 フィーナが言った。


「俺が?」


「お前も、あいつもだ」


 少年は道端の木箱に気づかなかった。


 爪先が引っかかる。


 身体が大きく傾く。


 パン籠が宙へ浮いた。


 少年も転んだ。


 パンが石畳を転がっていく。


 見事な転倒だった。


「大丈夫か!」


「大丈夫です!」


 少年は即座に立ち上がろうとした。


 右膝から、血が滲んでいる。


 立ち上がった瞬間、顔がわずかに引きつった。


「絶対痛かっただろ」


「平気です!」


「膝、擦りむいてるぞ」


「本当です!」


「それは大丈夫じゃない」


 俺は少年を道端へ座らせた。


 施療所でもらった布と、水筒の水を使う。


 傷口の砂を、静かに洗い流す。


 少年が肩を揺らした。


「痛いなら痛いって言え」


「大丈夫です」


「それは答えになってない」


「これくらい慣れてます!」


「危ない慣れ方だな」


 フィーナが、小さく息を漏らした。


 笑ったようにも聞こえた。


 顔を上げると、フィーナはもう澄ました顔をしていた。


「今、笑っただろ」


「笑ってない」


「笑った」


「気のせいだ」


 少年が目を輝かせた。


「フィーナさん、笑うんですか?」


「笑う」


「見たことないです」


「黙れ」


 少年が明るく笑った。


 フィーナの口元も、ほんの少し動いた。


 綺麗な笑顔ではない。


 ぎこちない。


 すぐに消える。


 それでも、この世界へ来て初めて、少しだけ安心した気がした。


「あっ」


 少年が声を上げた。


「まだ名乗ってませんでした!」


「レンです!」


「よろしくお願いします!」


 勢いよく頭を下げる。


 その拍子に、残っていたパンが籠から落ちた。


「また落ちたぞ」


「あっ!」


「落ち着け」


「大丈夫です!」


「パンが大丈夫じゃない」


 三人でパンを拾った。


 汚れていないものだけを、籠へ戻す。


 レンは、その間ずっと俺を見ていた。


 何かを確かめるような目だった。


「昨日、少し聞きました」


「あなたが、森で拾われた人ですか?」


「拾われたわけじゃない」


「拾った」


 フィーナが即答する。


「拾われてた」


 レンが、目を輝かせた。


「名前は?」


「柳井蒼」


「ソウルだ」


「まだその件は納得してない」


「ソウルさんですね!」


「もう広まった」


 フィーナが、当然のように言う。


「広まってない」


「僕は覚えました!」


「それは広まったとは言わない」


 レンは、不思議そうに首を傾げただけだった。


 通りの先から、大柄な男が歩いてきた。


 白髪。


 古びた外套。


 重い足取り。


 外見は五十代ほどに見える。


 しかし、目だけが年齢と合っていなかった。


 もっと長く、何かを見てきた目だった。


「おじいちゃん!」


 レンが立ち上がる。


「違う」


「え?」


「おじいちゃんではない」


「でも、おじいちゃんですよね?」


「違う」


「難しいです」


 俺は思わず吹き出した。


 フィーナは慣れているのか、ため息だけをついた。


 大柄な男は、レンの膝へ目を向けた。


「また転んだのか」


「大丈夫です!」


「聞いていない」


「ソウルさんが手当てしてくれました」


「そうか」


 フィーナが短く言った。


「ガルムだ」


 男は俺を見た。


「ガルム・ヴァイツだ」


 頭から足元まで、短く観察する視線だった。


 特に、胸元で止まった。


 まるで、そこに何があるか確かめるような目だった。


「お前が転生者か」


「そうらしいです」


「魔力は」


「ゼロです」


「ほう」


 ガルムの表情は、ほとんど変わらなかった。


 それでも、目だけがわずかに鋭くなった気がした。


「珍しいんですか」


「珍しいで済めばいいがな」


 ガルムはそれ以上説明しなかった。


 フィーナも何も言わない。


 短い沈黙だけが残った。


 その沈黙を破るように、レンが籠を持ち直した。


 中には、形の揃っていないパンがいくつか混じっている。


 俺は、その不格好なパンを指した。


「それも売り物か」


「こっちは僕が焼きました!」


「ずいぶん個性的だな」


「丸くしようとはしたんです」


「石に見える」


 ガルムが言った。


「パンです!」


「硬そうだな」


「まだ練習中です」


 レンは、籠の中のパンを見つめた。


「いつか、自分のお店を持ちたいんです」


「パン屋か」


「はい!」


「毎朝、焼きたてのパンを売ります」


「子どもでも買える値段にして」


「お腹が空いている人には、少しおまけします」


「それで店はやっていけるのか」


「そこは、これから考えます!」


「大事なところを後回しにしたな」


「大丈夫です!」


「その大丈夫も信用できない」


 レンは、少しだけ頬を膨らませた。


「じゃあ、大丈夫じゃないです」


「素直か」


「まだ一度も、上手く焼けてないですけど!」


「店を出すのは百年後だな」


 ガルムが言う。


「そんなに待てません!」


「なら練習しろ」


「します!」


 レンが笑う。


 ガルムは呆れた顔をしていた。


 それでも、転がったパンを一つ拾い、汚れを払って籠へ戻した。


 その手つきは静かで、慣れていた。


 レンもフィーナも、それを特別なこととは思っていないようだった。


 俺だけが、二人の間にある、家族のような空気を感じていた。


 親子ではない。


 祖父と孫でもないらしい。


 それでも、家族という言葉に近い何かが、そこにはあった。


「ソウルさん」


「何だ」


「さっきの手当て、ありがとうございました!」


「大したことはしてない」


「でも、優しいですね!」


「そうか?」


「はい!」


「すごく!」


 返事が、一瞬止まった。


 病室の白い天井。


 田中さんの手。


 かすれた声。


 ――君は優しいな。


 同じことを言われた。


 あの時も、信じられなかった。


 今も、信じられない。


「傷を洗っただけだ」


 ようやく、それだけ返した。


「それが優しいんです」


「普通だろ」


「普通でも、してくれたら嬉しいです!」


 十四歳の少年にしては、まっすぐな言葉だった。


 まっすぐすぎて、少し困った。


 ふと、思う。


 俺はあの時、田中さんの顔をちゃんと見ていただろうか。


「あっ!」


 レンが声を上げた。


「急がないと!」


「走るな」


「大丈夫です!」


「だから、その言葉を信用できないんだよ」


「では、少しだけ急ぎます!」


「言い換えただけだ」


 レンが走り出しかける。


 ガルムが、その襟首を掴んだ。


「歩け」


「でも」


「パンを全部落としたいのか」


「歩きます」


 レンは素直に速度を落とした。


 ガルムが籠の片側を持つ。


 レンは何も言わなかった。


 それがいつものことなのだろう。


 数歩進んだところで、レンが振り返る。


「ソウルさん!」


「また会いましょう!」


「ああ」


「次は、もっと上手なパンを持ってきます!」


「期待するな」


 ガルムが前を向いたまま言った。


「ひどいです!」


 レンの声が、朝のラグナへ遠ざかっていく。


 焼きたてのパンの匂い。


 石畳を叩く小さな足音。


 ガルムの低い声。


 昨日まで、この世界は知らないものばかりだった。


 記憶を売る街。


 名前の残らない人々。


 何度も同じ問いに答える神官。


 そして、痛くても大丈夫だと笑う少年。


 分からないことは、まだ多い。


 多すぎる。


 それでも俺は、次に会う時くらいは、あの歪んだパンを一つ食べてもいいと思った。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene10では、

レンが初めて登場しました。


記憶を売る街。

名前の残らない人々。

何度も同じ問いに答え続ける施療所。


重たい現実を見た後で、

朝のラグナには、

焼きたてのパンの匂いが流れていました。


大きすぎる籠を抱えて、

石畳で転んで、

膝を擦りむいても、


「大丈夫です」


そう笑う少年。


レンの明るさは、

何も知らないから生まれるものではなく、

痛くても前を向こうとする強さなのかもしれません。


そして、

ガルムとのやり取りの中にある、

家族のような空気。


血のつながりではない。

けれど、

誰かを気にかけ、

転びそうなら止めて、

落ちたパンを拾う。


そんな小さな日常が、

この世界にも確かにありました。


ソウルはまだ、

分からないことばかりです。


けれど、

次に会う時くらいは、

レンの焼いた歪なパンを食べてもいい。


そう思えるくらいには、

この世界に少しだけ、

温かいものを見つけ始めています。


次は、第2章 Scene11


「忘れてしまった顔」へ。

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