Scene 11 忘れてしまった顔
夕暮れのラグナを、
ソウルとフィーナは見下ろしていた。
市場の声は遠くなり、
街は赤い光の中で静かに沈んでいく。
記録には残っている。
名前も。
出来事も。
愛していたという言葉さえも。
けれど、
顔は戻らない。
声も戻らない。
手の温度も思い出せない。
忘れたくなかった人を、
忘れてしまうこと。
そして、
忘れた後の自分が、
何も感じなくなるかもしれないこと。
これは、
フィーナが初めて、
自分の中から消えていくものの怖さを、
ソウルに打ち明ける物語。
夕方のラグナは、朝とは別の街に見えた。
市場の声は遠くなり、店じまいを始めた屋台が、木箱を一つずつ片づけている。
焼きたてのパンの匂いは薄れ、代わりに、湿った土と草の匂いが風に混じっていた。
俺とフィーナは、ラグナ街区の外れまで歩いていた。
古い城壁を抜けると、低い丘がある。
丘の上からは、ラグナの屋根が見渡せた。
灰色の瓦。
細い煙突。
中央市場を行き交う小さな人影。
さらに遠くには、ヴェスタ中央部の白い尖塔が見える。
夕日が、街全体を赤く染めていた。
フィーナは何も言わず、草の上へ腰を下ろした。
俺も、少し離れた場所に座る。
近すぎず。
遠すぎず。
そういう距離だった。
施療所で見た光景が、まだ頭に残っていた。
母親を見ても、母親だと感じられない男。
何度も同じ日付を尋ねる老人。
嬉しかった記憶から、嬉しさだけを失った女。
あの場所にあった静けさは、今も耳の奥に残っている。
風が丘を渡った。
草が低く揺れる。
しばらく、どちらも話さなかった。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
「疲れたか」
俺が聞いた。
「少し」
「珍しいな」
「人間だ」
「知ってる」
フィーナは遠くの街を見たまま答えた。
横顔はいつもと変わらない。
ただ、右手の指が左手の甲を何度も撫でていた。
落ち着かない時の癖なのかもしれない。
「施療所にいた人たち」
「何だ」
「魔法を使った人と、記憶を売った人だけじゃないんだな」
「売った者もいる」
「使った者もいる」
「奪われた者もいる」
その一言だけ、他より重く響いた。
「奪われた?」
「本人の意思とは関係なく、切り離された記憶もある」
「そんなことができるのか」
「できる」
「だから、神殿が管理している」
管理している。
守るためなのか。
独占するためなのか。
今の俺には、まだ判断できなかった。
赤い光の中で、フィーナの銀灰色の髪が揺れた。
左目の下の三日月形の傷が、夕日に淡く浮かんでいる。
「フィーナも」
「何だ」
「あの人たちと同じなのか」
フィーナの指が止まった。
すぐには答えない。
風だけが、草の上を通り過ぎていく。
「同じだ」
「どこまで」
「それを聞いて、どうする」
「分からない」
少し間を置いて、俺は続けた。
「ただ、知っておきたい」
フィーナがこちらを見た。
責めるような目ではなかった。
答えるかどうかを、測っているように見えた。
長い沈黙のあと、フィーナは街へ視線を戻した。
「母の顔を思い出せない」
言葉は唐突だった。
俺は返事をしなかった。
何かを言えば、その言葉が軽くなる気がした。
「母がいたことは覚えている」
フィーナは、膝の上に置いた手を見た。
「名前も、帳面に書いてある」
「名前は」
「リシア」
フィーナは少し間を置いた。
「リシア・アルセン」
「そう書いてある」
そう書いてある。
その言い方が、胸に引っかかった。
懐かしい名前を呼んだ声ではなかった。
知らない名前を、確認するような声だった。
「顔だけが分からないのか」
「顔」
「声」
「笑い方」
「歩く時の癖」
「手が温かかったかどうか」
フィーナは、自分の手を見た。
「そういうものが、少しずつ消えた」
フィーナは鞄から、小さな革表紙の帳面を取り出した。
角が擦れている。
何度も開かれた跡があった。
表紙の内側には、細い字でいくつもの言葉が書かれている。
母の名は、リシア・アルセン。
薄い金色の髪。
よく歌を口ずさんでいた。
怒る時は、右の眉だけが上がった。
冬になると、林檎を煮てくれた。
私は母を愛していた。
フィーナは最後の一文を指でなぞった。
「ここには、愛していたと書いてある」
「自分で書いたのか」
「ああ」
「忘れる前の私が」
「読んでも、思い出せない?」
「事実は分かる」
「この人が母だった」
「私はこの人を愛していた」
「そこまでは分かる」
「でも」
フィーナは帳面を閉じた。
「母と過ごしていた感じがしない」
俺は、閉じられた帳面を見た。
革の表紙。
擦れた角。
何度も開かれた跡。
そこには確かに、誰かを忘れまいとした跡がある。
けれど、それは記憶そのものではなかった。
「知らない女のことを、昔の私が大切だったと書き残しているだけだ」
その声は、乾いていた。
泣いていない。
震えてもいない。
だからこそ、余計に痛かった。
田中義雄。
七十八歳。
末期癌。
午前五時十二分、死亡確認。
家族二名、立ち会い。
一人の人生が、数行の記録になった。
そこには、手の温度は残らない。
声も。
最後に見た天井も。
家族が間に合った時の表情も。
記録は、事実を残す。
でも。
生きた時間そのものを、残せるわけではない。
「この世界の記録なら、なくしたものも少しは戻ると思ってた」
俺は言った。
「戻らない」
フィーナは短く答えた。
「知るだけだ」
「覚えていることと、知っていることは違う」
同じような言葉を、施療所でも聞いた。
あの時は、患者のそばにいた神官の言葉だった。
今は違う。
フィーナ自身の言葉だった。
夕日が少しずつ沈んでいく。
街の影が長く伸びる。
「怖いんだ」
フィーナが言った。
「何が」
「忘れることじゃない」
フィーナは、帳面の端を握った。
「忘れた後の私が」
俺は黙った。
「今は、母の顔が分からない」
「いつか、母を愛していたことも、どうでもよくなるかもしれない」
「大切だった人を見ても、何も感じない私になるかもしれない」
「それが怖い」
フィーナは表情を変えなかった。
泣くこともなく、声も震えていない。
ただ、帳面の端を握る指だけが白くなっていた。
「忘れてしまう私が、怖い」
俺は言葉を探した。
大丈夫だ。
記憶は戻る。
愛は消えない。
どれも言えなかった。
保証できない言葉は、慰めではなくなる。
患者の家族にも、言えなかった言葉がいくつもある。
助かります。
間に合います。
痛くありません。
言いたくても、言えない言葉だった。
「俺には、分からない」
「何が」
「忘れた後も、同じ人間なのか」
「何が残るのか」
答えは出なかった。
「でも」
俺は、フィーナの白くなった指を見た。
「今、お前が怖がっていることは覚えておく」
フィーナが俺を見た。
「それに、何の意味がある」
「分からない」
それでも、言葉を途中で止めることはできなかった。
「俺が覚えていても、お前の記憶が戻るわけじゃない」
「それでも」
「忘れたことまで、なかったことにはしたくない」
フィーナは答えなかった。
俺も、これ以上は言わなかった。
誰かが覚えていれば大丈夫だ。
そんな簡単な話ではない。
フィーナが失ったものは、俺の記憶では埋められない。
母の顔も。
声も。
手の温度も。
それでも、今ここにいるフィーナが怖がっていることまで、消えていいとは思えなかった。
長い沈黙が落ちた。
夕日は、街の向こうへ半分沈んでいた。
屋根の色が赤から暗い紫へ変わっていく。
ふいに、フィーナの口元が小さく動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
けれど、表情は途中で止まった。
「今、笑おうとしたか」
「笑った」
「そうは見えなかった」
「では、お前の見る目が悪い」
「笑うの下手だな」
「初めて言われた」
「誰も言わなかっただけだろ」
「黙れ」
今度は、ほんの少しだけ口元が動いた。
笑顔と呼べるほどではない。
それでも、最初よりは自然だった。
フィーナは記憶帳を鞄へ戻した。
母親の顔は戻らない。
失われた声も戻らない。
それでも。
フィーナがその人を忘れたくないと思っていることだけは、今、ここに残っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene11では、
フィーナが初めて、
自分の失った記憶について語りました。
母の名前は残っている。
帳面にも書かれている。
愛していたという言葉も、
確かにそこにある。
けれど、
顔が思い出せない。
声も。
笑い方も。
歩く時の癖も。
手が温かかったかどうかも。
記録は、
事実を残してくれます。
でも、
その人と過ごした時間そのものを、
取り戻してはくれません。
フィーナが怖れているのは、
忘れることそのものではなく、
忘れた後の自分が、
大切だった人を見ても、
何も感じなくなるかもしれないこと。
ソウルは、
大丈夫だとは言えません。
愛は消えないとも、
記憶は戻るとも言えません。
ただ、
今フィーナが怖がっていることを、
覚えておくと告げます。
それが何になるのかは、
まだ分からない。
けれど、
忘れたことまで、
なかったことにはしたくない。
第2章の問いは、
少しずつ深くなっていきます。
次は、第2章 Scene12
「消えない顔」へ。




