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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第2章 忘れても、愛は残るのか

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12/12

Scene 12 消えない顔

丘を下りる頃、

ラグナには灯りがともり始める。


母の顔は、

もう思い出せない。


声も。

笑い方も。

手の温度も。


けれど、

なぜかソウルの顔だけは、

まだはっきりと残っている。


消えないことは、

救いなのか。


それとも、

いつか消えるかもしれないものを、

今ここに見てしまう怖さなのか。


忘れた時、

思い出せと言うのではなく、


もう一度、

名前を伝えること。


これは、

フィーナがソウルの顔を見つめ、

ソウルがもう一度名乗る覚悟を持つ物語。

 丘を下り始めた頃には、夕日はもう街の向こうへ沈んでいた。

 西の空に残っていた赤も薄れ、紫から濃い青へと変わり始めている。

 ラグナの屋根の間には、灯りが一つ、また一つとともっていた。


 フィーナは、俺の少し前を歩いていた。

 細い下り道の両側で、乾いた草が風に擦れている。

 足元は暗くなり始めていたが、フィーナの歩みに迷いはなかった。


 俺は、その背中を追った。


 母親の顔を思い出せない。

 声も。

 笑い方も。

 手が温かかったのかさえ、分からない。


 それでも、自分は母を愛していたと、記憶帳には書いてある。


 覚えていることと。

 知っていることは違う。


 丘の上で聞いたフィーナの言葉が、まだ胸の中に残っていた。


 前を歩いていたフィーナが、突然足を止めた。

 俺も止まる。

「どうした」

 フィーナは振り返らなかった。

「一つだけ、変なことがある」

「今さらか」

「お前のことだ」

「俺?」


 フィーナが、ゆっくり振り返った。

 薄暗くなり始めた空の下で、その目が俺の顔へ向けられる。

 話しかけるためというより。

 そこにあるものを、確かめるための視線だった。


「人の顔は、思っているより早く消える」

「早く?」

「最初は、細かいところからだ」

 フィーナの目が、わずかに細くなる。

「目の色。口元。髪の形」

「それから?」

「声と顔が、結びつかなくなる」

「声は覚えてるのに?」

「そういうこともある」


 フィーナの右手が上がった。

 指先が、左目の下にある三日月形の傷へ触れる。

 傷の端を、無意識になぞっていた。


「名前を見れば、誰だったのかは分かる」

「記録に残っていれば、どこで会ったのかも、何をしたのかも知ることができる」

「でも、顔は浮かばない」

「ああ」


 施療所にいた男のことを思い出した。

 目の前に立つ母親を見ても、その人が母親だと感じられなかった男。

 名前を聞けば、関係は理解できた。

 けれど。

 その目は、母親を見る目ではなかった。


「ガルムやレンの顔は?」

「今は、まだ分かる」

「今は」

 フィーナの指が止まった。

「覚えているからといって、次も残るとは限らない」

「魔法を使えば、消えるかもしれない」

「ああ」


 短い答えだった。


「昔の記憶ほど、残りやすいわけじゃないのか」

「古いか新しいかだけでは決まらない」

「じゃあ、何で決まる」

「分からない」

 フィーナは傷から指を離した。

「ただ、大切な記憶ほど、強い感情と結びついている」

「だから、魔法に引かれることもある」

「大切だから残るとは限らないのか」

「ああ」

「大切だから、消えることもある」


 愛していた記憶。

 守りたかった記憶。

 二度と失いたくないと願った記憶。


 強く抱えていたものほど、

 魔法に引き出されやすいことがある。


「母の顔は、もう思い出せない」

 フィーナが言った。

「昔の仲間も、曖昧になっている」

「でも」


 そこで言葉が途切れた。

「でも?」

 フィーナが、俺を見た。


「お前の顔は、まだはっきり分かる」


 フィーナの声に、冗談の気配はなかった。

 俺は、その言葉の続きを待った。


「森で初めて見た時の顔も覚えている」

「土まみれだった時か」

「葉もついていた」

「そこまで覚えてなくていい」

「魔力がないと分かった時の顔も」

「それも忘れてくれ」

「さっき、施療所で患者を支えていた時の顔も」

 フィーナは淡々と続けた。

「今は、まだ思い出せる」

「会ってから、大きな魔法を使ってないからだろ」

「ああ」

「なら、変なことじゃない」

「分かっている」


 フィーナは否定しなかった。

 それでも、俺の顔から視線を外さない。


「じゃあ、何が変なんだ」

 フィーナは、すぐには答えなかった。

 街へ目を向ける。


 ラグナの灯りが、少しずつ増えていた。

 家々の窓。

 市場の外灯。

 道の端に置かれた、小さな明かり。


「母の顔は、いつ消えたのか分からない」

 フィーナが言った。

「昨日まで覚えていたのか」

「一年前には、もうなかったのか」

「それすら分からない」

「気づいた時には、消えていた」

「ああ」


 フィーナが、もう一度俺を見る。


「でも、お前の顔は今ここにある」

 目が合った。

「目を閉じても、まだ思い出せる」


 フィーナの指が、再び左目の下の傷へ触れる。

「だから怖い」

「何が」

「次に魔法を使ったあと」


 フィーナの視線が、俺の顔をなぞった。


 目。

 鼻。

 口元。


 失う前に、形を確かめているように見えた。


「この顔が消えていたら」


 風が丘を抜けた。

 乾いた草が、一斉に同じ方向へ倒れる。


「私は、何を失ったのか分かってしまう」


 返す言葉が出なかった。


 母親の顔を失った時には、消える直前の形が残っていなかった。

 いつまで覚えていたのか。

 いつから思い出せなくなったのか。

 その境目さえ、分からない。


 けれど、俺の顔は今も見えている。

 声と結びついている。

 森で出会った時から、今日までの出来事につながっている。


 だからこそ。

 消えた時には、空白の形が分かる。


「使わずに済めばいい」

 口にしてから、それも簡単な話ではないと思った。

「簡単に言うな」

「悪い」

「使わずに済む時ばかりではない」

「ああ」

「使わなければ、誰かが死ぬ時もある」

「分かってる」


 責める声ではなかった。

 自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。


「その時」

 フィーナが言った。

「私がお前を忘れていたら、どうする」

「どうするって」

「顔も。名前も。何をした人間なのかも」

 フィーナは俺を見る。

「私に、思い出せと言うのか」

「言わない」

 答えは、すぐに出た。


 フィーナの目が、わずかに動く。

「なぜ」

「思い出せないものを、思い出せとは言えないだろ」


「記憶帳を見せれば、何があったかは分かる」

「分かるのは、書いてあることだ」


 丘の上で聞いた言葉を思い返す。


 私は母を愛していた。

 けれど。

愛していた私は、思い出せない。


「前のお前が何を思っていたかは、知ることができる」

 俺は言った。

「でも、それを今のお前に押しつけるのは違う」

「それでも名乗るのか」

「ああ」

「名前だけでは、顔は戻らない」

「分かってる」

「関係も戻らない」

「ああ」

「私がお前を信じる保証もない」

「それも分かってる」

「なら、何の意味がある」

「意味があるかは分からない」


 俺はフィーナを見た。


「それでも、俺は名乗ると思う」


 フィーナは、わずかに目を伏せた。

「そうか」

「俺はソウルだって、もう一度言う」

「何度でも?」

「必要なら」


 少し考えてから、付け加えた。

「できれば、一回で覚えてほしいけどな」

「注文が多い」

「忘れられる側にも、希望くらい持たせろ」

「お前は、ソウではなかったのか」

「そこはまだ諦めてない」

「もうソウルで覚えた」

「覚えてるじゃないか」

「今は、な」


 返す言葉が止まった。


 フィーナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 丘の上で見た時より、自然に見えた。


「今度は、少し上手かったな」

「何の話だ」

「何でもない」

「変なやつだ」


 フィーナは前を向いた。

 再び、丘を下り始める。


 俺も、その後を追った。


 ラグナの灯りが近づいてくる。

 夕食の匂いが、風に混じり始めていた。


 今、フィーナは俺の顔を覚えている。

 けれど。

 今ここにあることは、

 次も残るという約束にはならない。


 失うかもしれないものとして、

 フィーナは俺を見ていた。


 その時のフィーナへ、

 過去を押しつけることはできない。

 できるのは。

 もう一度、名前を伝えることだけだ。


 朝の森では、置いていかれないようにフィーナを追っていた。

 歩くのが速くて。

 何度も距離が開いた。


 けれど今は。


 フィーナの歩幅が、ほんの少しだけ遅くなっていた。


 俺は何も言わなかった。

 その歩幅に合わせて、丘を下った。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene12では、

フィーナがソウルの顔について語りました。


母の顔は、

もう思い出せない。


声も。

笑い方も。

手の温度も。


けれど、

ソウルの顔だけは、

今はまだ、はっきりと思い出せる。


それは救いのようでいて、

同時に怖さでもあります。


消えてしまった後に、

初めて何を失ったのか分かってしまう。


忘れることよりも、

忘れた瞬間にできる空白の形を、

知ってしまうこと。


フィーナは、

その怖さを抱えています。


そしてソウルは、

思い出せとは言いません。


記憶帳を読ませて、

過去の感情を押しつけることもしません。


ただ、

もし忘れられたとしても、

もう一度名乗る。


俺はソウルだと、

必要なら何度でも伝える。


忘れたものを無理に戻すのではなく、

今ここから、また関係を始めること。


第2章の問いは、

少しずつ形を変えていきます。


忘れても、

愛は残るのか。


その答えはまだ出ません。


けれど、

同じ歩幅で丘を下る二人の距離は、

確かに少しだけ変わり始めています。


次は、第2章 Scene13


「時計を直す男」へ。

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