Scene37 神殿都市カルテス
第6章の始まり。
長い旅の末、ソウルたちは神殿都市カルテスへ辿り着く。
そこにあったのは、冷たい支配の街ではなく、人が救われ、笑い、日々を生きる場所だった。
けれど、その日常のすぐ隣を、“誰かの記憶”が運ばれていく。
正しさと間違いを、簡単には分けられない場所で。
ソウルは、もう一度、自分の目で確かめようとする。
これは、「敵」と思っていたものの輪郭が、少しずつ変わり始める物語。
車輪の音が、硬くなっていた。
丘を下りきる頃には、馬車の揺れが嘘のように小さくなっていた。土の道で十日以上揺られ続けた身体は、それをすぐには信じなかった。腰の奥に鈍い重さが残り、肩には医療鞄の紐の跡が、もう自分の一部みたいに食い込んでいた。
窓の外を、石の壁が流れていく。
城壁だった。見上げても、上の端がすぐには見つからなかった。
門の前には、荷車と人の列が長く続いていた。それなのに、騒がしくはなかった。誰も割り込まない。誰も怒鳴らない。列は少しずつ、けれど確かに前へ進んでいた。
馬車を降りると、足の裏がじんと痺れた。
門の両脇には、白い鎧の騎士が立っていた。その手前に長い机が置かれ、端に白い外套の男が座っている。手元に、細い金属の術式具が並んでいた。
肩に力が入った。鼓動が、少し速くなる。
旧市場区の検査所を思い出す。額に当てられた光。娘の名前を答えられなくなった男の目。考えるより先に、身体の方が覚えていた。
隣で、フィーナが俺を見た気がした。俺は鞄の紐を握り直した。
列が進み、俺たちの番が来た。
机には、書記らしい男が三人並んでいた。白い外套の男は、その端で術式具を布に包み直していた。書記の一人が顔を上げた。
「次の方。照会番号を確認します。記憶媒体の持ち込みはありますか」
声は事務的で、丁寧だった。
怒鳴られる準備をしていた肩の力が、行き場をなくした。
リオルが一歩前へ出た。背筋が伸び、声の調子が変わる。
「ヴェスタからの照会の件です。照会文書の写しと、カルテス側の回答。西街道の正式報告と関連記録です。照合の関係者も同行しています」
書類鞄から紙の束を出す。
紐が掛かっていた。結び目は、四つあった。
書記の指が、二つ目の結び目で止まった。
「……厳重ですね」
「失礼しました。私が解きます」
リオルが手早く結び目をほどいていく。後ろで、エレナが誰にも聞こえない程度の声で言った。
「四つも結ぶからだ」
リオルの指が一瞬だけ止まった。振り向きはしなかった。
書記は書類を一枚ずつめくり、照会文書の写しと回答書を見比べた。帳面へ何かを書き写し、印を押す。とん、と乾いた音がした。
「五名ですね。照会の件、確認しました。遠いところを、お疲れさまでした」
お疲れさまでした、と言われるとは思っていなかった。
呼ばれて来たわけじゃない。来ると決めたのは、俺たちだった。その書類を、向こうは向こうの手順で受け取っただけだった。
所持品の確認は、隣の机だった。
エレナは言われる前に剣帯を外していた。鞘ごと机に置き、柄を書記の手の届かない側へ向ける。そのまま、一歩下がった。
俺は、その手を見ていた。迷いがなかった。何度も繰り返した動きだった。欠けた薬指のある左手が、剣から離れる時だけ、ほんのわずかに遅れた。
若い書記が鞘を確かめ、顔を上げた。
「剣は、市内で許可なく抜かないでください」
「抜く理由がなければ抜かない」
書記の手が止まった。
リオルが横から、低く言った。
「普通は『分かりました』でいい」
「分かった」
「俺じゃない。向こうに言え」
エレナは書記へ顔を戻した。
「……分かりました」
「結構です」
書記の口元が、ほんの少しだけ動いた。
確認済みの印として、鞘に細い封印紐が掛けられた。フィーナのレイピアにも、同じ紐が掛けられた。フィーナは紐を一度だけ指で弾き、それ以上は気にしなかった。
フィーナが外套の内側から記憶帳を出しかけると、書記は表紙だけを見て頷いた。
「紙の記録でしたら、結構です」
フィーナの指が、表紙の上で一度だけ止まった。記憶帳は、そのまま持ち主の手に戻った。
ガルムが背中の布包みをほどくと、柄の擦り切れた古い剣が出てきた。
「ずいぶん古いものですね」
「古いからな」
書記はそれ以上何も聞かず、紐を掛けた。
次は、俺の番だった。
医療鞄を机へ置き、留め具を外す。蓋が、待ってましたとばかりに持ち上がった。
書記が中を覗き込んだ。
包帯。布。小瓶。また包帯。
「……中身は」
「薬と包帯です。施療の心得があります」
リオルが横から言った。公務の声だった。
書記は小瓶を一本ずつ取り出し、栓を確かめ、匂いを嗅ぎ、机に並べていった。七本並んだところで、手が止まった。
「記憶媒体ではありませんね」
「違います」
「包帯が……多いですね」
「よく言われます」
書記は何か言いかけて、やめた。小瓶を一本ずつ戻していく。最後の一本を入れたところで、蓋が閉まらなくなった。
俺は両手で蓋を押さえた。
閉まらない。
書記が手を貸そうとした。その前に、フィーナが横から包帯を一巻き抜き、俺の外套の内側へ押し込んだ。
留め具が、かちりと掛かった。
「……ありがとう」
「また閉まらなかった」
「出発の時は閉まってた」
「出発の時は、ガルムが閉めた」
書記が、口元を書類で隠した。
書記が、五人分の札を差し出した。薄い木の札だった。名前と番号が焼き付けてあり、角に小さな印が押されていた。
円の中に、開いた手。
神殿の印だった。
札を受け取る時、机の上の帳面が目に入った。俺たちの名前が並んでいた。その横に、持ち物と、武器と、行き先が書き込まれていた。
丁寧だった。
ただ、俺たちの名前も、武器も、持っている物も、全部紙に残った。
その時、門の向こうから若い神官が駆けてきた。まだ二十歳を少し出たくらいだろうか。灰色がかった白の衣の裾を、片手で持ち上げている。
「お待たせしました。ヴェスタからの皆さまですね。宿舎までご案内します」
少し息が上がっていた。
俺たちを見る目には、警戒より先に、遠くから来た客を迎える好奇心があった。
門をくぐった。
最初に来たのは、匂いだった。
水を撒いた石の匂い。湯で煮た布の匂い。どこかで薬草を刻んでいる。その奥から、焼けたパンの匂いがした。
大通りは広かった。荷車が二台すれ違っても、まだ人が歩ける。道の脇には街路樹が等間隔に植えられ、所々に水場があった。石の縁に腰掛けて休む老人がいる。子どもが水を手ですくって、飲む前にこぼしている。
汚れていない、と思った。
ゴミが落ちていないのではない。落ちても、すぐ誰かが拾うのだ。少し先で、灰色の前掛けをした男が、荷車からこぼれた藁を箒で集めていた。
通りの先は、緩やかな上り坂になっていた。その上の高台に、白いものが見えた。
建物というより、白い輪郭だった。屋根の連なりの向こうに、空へ届きそうな塔と、大きな壁が重なっている。距離がありすぎて、どこからどこまでが一つの建物なのかも分からなかった。
「あちらが大神殿です。中央聖域ですね」
案内の神官が、少し誇らしそうに言った。
「皆さまには、明日あちらへお越しいただく予定です」
俺は白い輪郭を見上げた。
旧市場区を封鎖したあの命令も、この街のどこかへつながっているのかもしれない。もっと冷たい場所を想像していた。黒い壁や、窓のない建物や、うつむいて歩く人々を。
ここには、水場で笑う子どもがいた。
隣でエレナが、何か言いかけた。唇が一度だけ動き、閉じた。
「……ずいぶん、きれいな街だな」
それ以上は続かなかった。
坂の途中に、大きな建物があった。
入口が三つ並び、そのどれにも列ができていた。病人と、その家族だった。担架に乗せられた男。母親に抱かれた赤ん坊。杖をついた老人。
「大規模施療院です。カルテスで一番大きな施療院で、夜も閉めません」
案内の神官の声を聞きながら、俺の目はもう列の方へ行っていた。
顔色。唇の色。呼吸の速さ。肩で息をしているか。立っていられるか。
看護師だった頃の癖だった。列ではなく、人を見てしまう。
列に沿って、白い前掛けの女が歩いていた。手には書き付けの板を持っている。けれど、板にはほとんど目を落とさない。一人ずつ顔を覗き込み、時々手首に指を当てる。そのたびに、指の先が淡く光った。
女の足が、列の中ほどで止まった。
年老いた男が、壁に手をついて立っていた。胸が速く上下している。唇の色が悪い。立っているだけで精一杯に見えた。付き添いの娘が、その背をさすっていた。
女は男の手首に触れ、短く頷いた。
「この方を先に」
列の人々が、黙って道を空けた。
誰も文句を言わなかった。前に並んでいた男が、自分から一歩下がった。担架が運ばれてきて、老人が乗せられる。娘が何度も頭を下げながら、中へ入っていった。
俺は、ほっと息をついた。
正しい順番だった。
俺があの場にいても、同じ人を先に通した。呼吸と顔色を見て、順番を入れ替える。それだけのことが、ここでは当たり前に行われていた。
ラグナの施療所とは比べものにならないほど人がいた。それでも、列は乱れず、一人ずつ順番に受け入れられていた。
「ソウル」
フィーナの声がした。
「また、人の息を見てる」
「……そうか?」
「そう」
フィーナは施療院の入口ではなく、俺の顔を見ていた。それから、もう一度だけ列の方を見た。
「さっきの人、先に入れてもらえた」
「ああ」
「よかった」
短い言葉だった。それでも、さっきまでの肩のこわばりが、少しだけ解けた。
施療院の隣は、広場になっていた。
長い机がいくつも並び、湯気が上がっていた。配給所だった。
「中央孤児院と、配給施設です。昼と夕方に開いています」
案内の神官が言った。
「お金は」
思わず聞いていた。
「いただきません。必要な方に、必要な分を」
神官は、特に驚く様子もなく答えた。
子どもと老人の列ができている。順番が来ると、職員が大きな鍋から椀へ汁をよそい、焼いたパンを一つ添えて渡す。パンは大きな塊から、その場で手で割っていた。割るたびに、白い湯気が立った。
列の先頭で、腰の曲がった老人が椀を受け取った。
「熱いので気をつけてください」
「分かってるよ」
「昨日もこぼしたでしょう」
「あれは器が悪かった」
「今日も同じ器です」
老人は椀を見下ろし、少し考えた。
「……じゃあ、昨日の俺が悪いな」
「では、そういうことで」
職員が笑い、老人も笑った。後ろに並んでいた子どもたちまで、つられて笑っていた。
列に並ぶ子どもたちは、手に小さな木の札を握っていた。番号が焼き付けてある。順番が来ると、職員がその札を受け取って箱へ入れ、代わりに椀とパンを渡す。
札の角には、印が焼き付けてあった。
円の中に、開いた手。
門で受け取った札と、同じ印だった。
列の端で、五つぐらいの男の子が椀を受け取った。両手で持とうとして、片手にパンを持っているのを思い出し、椀が傾いた。
俺は反射的に手を伸ばして、椀の底を支えた。
熱かった。
男の子が目を丸くして、俺を見上げた。
「ほら、お礼は」
後ろから、若い母親が男の子の肩に手を置いた。男の子は小さな声で何か言い、椀を抱えて駆けていった。母親が俺に頭を下げた。
「すみません。ありがとうございます」
「いや」
母親は、走っていく息子の背中を見ていた。
「ここがなかったら、あの子は冬を越せなかった」
それだけ言って、母親はもう一度頭を下げ、息子を追っていった。
俺は自分の手を見た。椀の熱が、指先に残っていた。
広場の端で、男の子がパンにかじりついていた。頬を膨らませて、隣の子に何か自慢している。
子どもでも買えるくらい、安いパン。
いつか聞いた声が、耳の奥をかすめた。
喉の奥が、少しだけ詰まった。
俺は、広場から目を逸らした。
逸らした先に、荷車があった。
配給所の裏手の建物から、ちょうど出てくるところだった。荷台には、黒い木箱がいくつも積まれていた。蓋に封がされ、側面に番号と札が下がっている。前と後ろに一人ずつ騎士が付き、その後ろを記録官が歩いていた。
荷車は、配給の列のすぐ脇を通っていった。
木箱の封に、印が押されていた。
円の中に、開いた手。
同じ印だった。
「記憶の瓶だ」
エレナが低く言った。
記録官が手元の紙と箱を見比べ、番号を読み上げていく。
「三七一」
「確認」
「三七二」
「確認」
施療院では、人の名前を呼んでいた。
ここでは、数字だけだった。
俺は、知らないうちに身構えていた。
西街道の、割れた箱。土の上に散った破片。あの時感じた、あの感覚。
けれど、今回は何も感じなかった。
木箱は、何の気配も残さずに俺の前を通り過ぎていった。あの箱の中には、誰かが生きた時間の一部が入っている。それなのに、車輪の音しかしなかった。
配給の列に並ぶ人たちは、誰も荷車を振り返らなかった。子どもも、老人も、母親も。椀を受け取り、パンを割り、湯気の向こうで笑っていた。
ここでは、当たり前の光景なのだろう。
「気になるか」
声を掛けてきたのは、水場の縁に座っていた年老いた男だった。膝の上に、空の椀を置いている。
「少し」
「俺も昔、一つ出した」
「記憶を?」
「ああ。施療院にも配給にも世話になった。自分にも出せるものがあるならってな」
男は、角を曲がっていく荷車を目で追っていた。
「出してよかったと思ってる。何を置いてきたか、もう分からないけどな」
軽く言った。笑ってもいた。
「困らないのか?」
「忘れたもののことで、どう困ればいい?」
男はそう言ってから、少しだけ考えた。
「まあ、困ってたことまで忘れてるだけかもしれんが」
椀を持って立ち上がり、少し足を引きずりながら、配給の列の最後尾へ戻っていった。
俺は、何も返せなかった。
ここがなければ冬を越せなかった子どもがいる。何を失ったのかさえ分からない老人がいる。二人とも、同じ列に並んでいた。
ラグナで見た神殿には、二つの顔があった。
ここでは、二つが同じ印の下にあった。
鐘が鳴った。
低く、長い音だった。ラグナの鐘より、ずっと遠くまで届く音だった。
広場が一斉に動いた。配給の列が詰められ、空いた鍋が下げられ、次の鍋が運ばれてくる。施療院の前でも、白い前掛けの人々が入れ替わっていく。街全体の動きが、鐘の音を合図に切り替わったようだった。
その中で、ガルムだけが動かなかった。
手が、胸の前で止まっていた。
懐中時計のある場所だった。けれど、時計は取り出さなかった。
ガルムは大神殿を見なかった。最初に見たのは、足元だった。坂の途中から続く古い石段。真ん中だけが、ほかよりわずかにすり減っている。
それから、すぐ脇の水場を見た。通りの曲がり方を確かめ、最後に、高台の白い輪郭を見上げた。
初めて来た街を見る目には、見えなかった。
俺は、聞こうとしてやめた。
フィーナも、ガルムを見ていた。けれど、記憶帳には手を伸ばさなかった。
鐘が鳴り終わっても、ガルムはしばらくそのままだった。やがて、手が下りた。
「……行くぞ」
それだけ言って、ガルムは先に歩き出した。
「宿舎はこの先です」
案内の神官が、広場の向こうを指した。
「今日はゆっくりお休みください。明朝、中央聖域へご案内します」
「承知しました。よろしくお願いします」
リオルが答えた。公務の声だった。
神官は嬉しそうに頷き、先に立って歩き出した。
俺は一度だけ振り返った。
広場では、まだ湯気が上がっていた。水場では、さっきの男の子が、空になった椀を母親に見せていた。施療院の扉の向こうで、また誰かの名前が呼ばれた。
その向こうで、大神殿の白い輪郭が、昼の光の中に立っていた。
ここで、人が救われている。その事実を、もう見なかったことにはできない。
あの奥で、何が守られ、何が失われているのか。俺はまだ、何も知らない。
だから、明日、あそこへ行く。
レンの死につながった何かが、この街の奥にあるのかもしれない。
それでも、敵の城には見えなかった。
そのことが、かえって胸の奥に、名のない不安を残した。
俺はしばらく、その白い輪郭を見上げていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第6章の最初のSceneは、神殿都市カルテスへの到着から始まった。
そこにあったのは、ソウルが想像していたような冷たい「敵の街」ではなかった。
病人が診てもらい、子どもが温かい食事を受け取り、人々が笑っている。
そのすぐ隣を、“誰かの記憶”を載せた荷車が、ごく当たり前のものとして通り過ぎていく。
救われている人がいる。
そして、何かを失った人もいる。
その二つが、同じ印の下に並んでいた。
さらに、初めて来たはずの街を、どこか確かめるように見つめるガルム。
カルテスに着いたことで、答えが増えるどころか、問いの方が増えてしまった。
次回、Scene38「救いたかった男」。
ソウルたちは、いよいよ中央聖域へ向かう。
そこで待つ人物と向き合った時、これまで遠くから見ていた神殿の輪郭は、さらに違った形を見せ始める。
白い大神殿は、まだ何も語らない。
ただ、その奥へ続く扉だけが、静かに待っている。




