閑話7 道の途中で
旅に出ると、見慣れた景色さえ少し違って見える。
笑い合うこともあれば、泥にまみれることもある。
思いがけず誰かの一面を知り、言葉にしないまま距離が縮まることもある。
カルテスへ向かう道の途中。
五人と一人が、まだ「仲間」と呼ぶには少し不器用なまま、同じ景色を見て進んでいく。
これは、目的地へ着くまでの時間が、少しずつ人と人を結んでいく、心温まる物語。
朝、工房の戸を開けると、冷たい空気がすぐに頬へ触れた。
昨日まで何度も出入りした戸だった。なのに、荷物を背負って外へ出るだけで、少し違って見えた。通りにはまだ人が少ない。パン屋の煙突から細い煙が上がり、遠くで荷車の車輪が石を踏む音がした。
振り返ると、ガルムが鍵を掛けていた。
一度。引く。もう一度、押す。
「閉まってるぞ」
声を掛けても、ガルムは振り向かなかった。
「分かってる」
「昨日も確認してただろ」
「昨日と今日は違う」
何が違うのか聞こうとしたが、ガルムは答える前にもう一度戸を引いた。
「三回目」
隣でフィーナが言った。
「数えるな」
「気になった」
「お前らは人のことばかり見てるな」
ガルムに言われて、俺とフィーナは顔を見合わせた。
「誰のせいだ」
「知らない」
フィーナはそう言って、先に歩き出した。
西の門へ向かう途中で、エレナが待っていた。荷物は少ない。腰の剣だけは、いつも通りだった。
「遅い」
エレナが強い口調で言った。
「まだ約束の時間前だ」
「私が先に来ただけ」
「じゃあ遅くないだろ」
俺は苦笑いしながら言った。
エレナは答えず、代わりに俺の肩から下がった医療鞄を見た。
「それ、全部持っていくのか」
「必要になるかもしれない」
「多くないか」
「みんな同じことを言うな」
「同じものを見てるからだろう」
反論しづらかった。
その時、門の方から足音が近づいてきた。見覚えのある灰色の外套に、腰の剣。片手には、俺の医療鞄に負けないくらい分厚い書類鞄を提げている。
「リオル?」
俺は思わず声を上げた。
エレナが眉を上げ、つぶやくように言った。
「……お前も来るのか」
「不満か」
「面倒が一人増えたと思っただけだ」
「それはこっちの台詞だ」
リオルは背筋を伸ばした。
「西街道の正式報告を出したのは私だ。照会記録も、向こうへ渡す原本も持っている。通行の手続きだけ確認して、全部人に預けて終わりにはできない」
書類鞄を軽く持ち上げる。
「提出責任がある。現場を見ていない者に引き継ぐより、私が行った方が早い」
理由は十分だった。
それでも、それだけじゃないようにも見えた。
俺は何も聞かなかった。代わりに、書類鞄を見た。
「重そうだな」
リオルの目が、俺の医療鞄へ移った。
「お前にだけは言われたくない」
ガルムが鼻で笑った。
「二人とも、持ちすぎだ」
こうして、五人が揃い、カルテスへの旅が始まった。
最初の二日は、よく晴れた。街道は乾いていて、馬車は思っていたより速く進んだ。
昼になると、御者が街道脇の木陰へ馬車を寄せた。俺は荷物から、昨日パン屋でもらった硬いパンを出した。
硬い。分かっていた。分かっていたが、想像より硬かった。
ガルムが一口かじり、止まった。そのまま、しばらく動かなかった。
「……これを食い物と言ったのは誰だ」
「パン屋」
「石工に売れ」
「パンだぞ」
「歯が負ける」
フィーナは普通に食べていた。エレナも黙って噛んでいる。リオルまで、何事もない顔で食べていた。
「お前ら、歯どうなってるんだ」
「騎士団の携行食よりは、まだましだ」
リオルとエレナが、ほとんど同時に言った。二人は一瞬だけ互いを見て、それから別々の方向へ目を逸らした。
フィーナが俺を見た。
「昨日、あれだけ持っていくって言ってた」
「保存が利くからな」
「今、後悔してる?」
「少しだけ」
「今日はずいぶん素直だな」
横からエレナが言った。
ガルムが硬いパンを膝へ置いた。
「俺は水につける」
「昨日、そういう問題じゃないって言ってなかったか?」
「状況は変わる」
五百年以上生きると、柔軟になるらしい。
二日目の午後、馬車の中でフィーナが記憶帳を開いていた。揺れる膝の上で、木炭筆が少しずつ動く。覗くつもりはなかったので、俺は窓の外へ目を向けた。
「ガルム」
フィーナが顔を上げずに言った。
「何だ」
「歳、いくつ?」
馬車の中が静かになった。エレナが手入れ布を止め、リオルが書類から目を上げた。
「……なぜ聞く」
「書いておこうと思った」
「書くな」
「どうして」
「数字が大きすぎて、帳面が困る」
フィーナは少し考えてから、木炭筆を動かした。
「何て書いた」
俺が聞くと、フィーナは記憶帳をこちらへ傾けた。
ガルム。歳、たくさん。硬いパンは水につける。
「……合ってるな」
「合ってる」
「硬いパンは余計だ」
ガルムがぼそりと言った。
フィーナはそのまま次の行へ何か書き足した。
旅の三日目、街道沿いの小さな休憩所で、若い男が足を引きずっていた。靴のかかとに血がにじんでいる。
俺が見ていると、フィーナが気づいた。
「行くの?」
「少しだけ」
男に声を掛け、座ってもらった。靴を脱がせると、皮が大きくめくれていたが、深くはない。水で洗って布を当て、歩くなら紐を締めすぎないよう伝えた。
「金なら――」
「いらないです。次の宿場まで無理しないで」
それだけだった。
馬車へ戻ると、フィーナがこちらを見ていた。
「知らない人だった」
「うん」
「いつも、ああするのか?」
「どうだろう。目の前にいたら、たぶん」
フィーナは少しだけ考えた。
「そう」
それで会話は終わった。
しばらくして馬車が動き出した。休憩のたび、俺は御者や馬の様子を見てから最後に乗り込んだ。三度目くらいだったと思う。先に乗っていたフィーナが言った。
「また最後」
「何が?」
「最後に戻ってくるのが」
「……そう?」
「そう」
言われるまで、気づいていなかった。
四日目の夕方、リオルが地図を広げた。
「次の宿場まで、あと半日だ」
エレナが横から覗き込んだ。
「遅い」
「馬はお前じゃない」
「昔はもっと走らせてた」
「だから騎士団の馬が潰れてたんだ」
エレナの目が細くなった。
「……よく覚えてるな」
「報告書を書いたのは俺たちだ」
「お前が?」
「違う。書かされたのが、俺たちだ」
エレナが少しだけ口元を緩めた。
「変わってないな」
「お前に言われたくない」
リオルは地図を畳みかけて、手を止めた。何か言いかけたように見えた。エレナは地図から目を上げなかった。
「……次の宿場で、馬を替える」
リオルはそれだけ言って、地図を畳んだ。
その先の話を、二人とも口にしなかった。俺は窓の外を見て、聞かなかったことにした。
その日の夕食でも、二人は同じ調子だった。
宿の食堂で煮込み料理が出た。肉は少なかった。リオルの皿にだけ、少し大きい肉が入っていた。
エレナが見た。俺も見た。フィーナも見た。ガルムだけはパンを割っていた。
エレナのフォークが伸びた。
「それは俺のだ」
リオルが皿を引き寄せたが、遅かった。
「神殿の者は分け与えるんじゃないのか?」
「そんな決まりはない」
「今作ればいい」
「勝手に作るな」
肉はそのままエレナの皿へ移った。リオルはしばらく見ていたが、最後には諦めた。
「カルテスでは人の皿から取るなよ」
「取ってない。分けてもらった」
「今のをそう言うのか」
フィーナが俺の方へ少し顔を寄せた。
「昔から?」
「たぶん」
フィーナは二人を見て、それから自分の皿へ目を戻した。
ガルムが、割ったパンの半分を黙ってリオルの皿へ置いた。
「気遣いはいらない。でも、感謝する」
リオルはそう言うと、エレナをにらみながらパンにかじりついた。
五日目の昼前、街道の先に木の柵が見えた。
街道沿いの関所だった。槍を持った衛兵が三人、荷車の列を一台ずつ止めている。
「通行札を」
年配の衛兵が手を出した。リオルが書類鞄から束を抜き、順に渡していく。衛兵は一枚ずつ目を通し、名前を読み上げた。
「ソウル。フィーナ・アルセン。ガルム・ヴァイツ」
そこで、指が止まった。
「……エレナ・ドーン」
衛兵が顔を上げた。
隣の若い衛兵が、柵の脇に貼られた紙へ目をやった。俺の位置からは読めなかった。ただ、文字の並びの中に、覚醒派という字だけが見えた。
若い衛兵の手が、槍の柄を握り直した。
エレナは動かなかった。剣にも手を伸ばさず、ただ、まっすぐ衛兵を見ていた。
俺は息を止めた。止めていたことに気づいたのは、肺が苦しくなってからだった。
フィーナの右手が、腰の近くで止まっていた。ガルムは馬車の縁に肘を掛けたまま、目だけを動かした。
「エレナ・ドーン本人で間違いありません」
リオルが一歩前へ出た。さっきまでの声とは違った。
「ヴェスタ側照会の同行者です。カルテスでの原記録照合に、当事者として立ち会います。ラグナ詰所、神殿騎士リオル。通行中の責任は、私が負います」
書類の一枚を差し出す。印が押されていた。
衛兵はそれを長いあいだ見ていた。風が柵を鳴らした。馬が鼻を鳴らした。後ろの荷車の御者が、咳払いをした。
「……通れ」
衛兵が札を返した。
「カルテスまで、騒ぎは起こすなよ」
「起こさない」
エレナが答えた。若い衛兵の手が、槍の柄から少しだけ緩んだ。
関所が見えなくなるまで、誰も口をきかなかった。
最初に息を吐いたのは、御者だった。
「寿命が縮んだ」
「縮むうちが花だ」
ガルムが窓の外を見たまま言った。意味が分からなかったのか、御者はそれ以上何も言わなかった。
エレナが、向かいのリオルを見た。
「もめ事にならずに済んだ。助かったぞ」
「礼はいい」
「いつもは『俺』なのに、さっきは『私』って言ってたな」
「ああいう場じゃ、そうなる」
「今は?」
「お前相手にまで畏まる気はない」
エレナが鼻で笑った。
フィーナが、俺の袖を軽く引いた。
「リオル、さっきと違った」
「何が?」
「話し方」
「ああいう場だと変わるみたいだな」
フィーナは少し考え、記憶帳を開いた。
リオルが首を伸ばした。
「何を書いた」
「秘密」
「俺のことだろう」
フィーナは記憶帳を閉じた。
「秘密」
エレナが窓の外を向いた。肩がわずかに揺れていた。
六日目、雨が降った。
朝は細かった雨が昼前には強くなり、街道は泥になった。御者が首を振った。
「今日は無理だ。この先の下りで車輪を取られる」
誰も反対しなかった。近くの宿場で、予定より早く馬車を止めた。
五人で過ごす時間が、思いがけず増えた。リオルは食堂の隅で書類を広げ、エレナは剣の手入れを始めた。フィーナは窓際で雨を見ている。俺は濡れた外套を椅子へ掛けた。
ガルムは何もしていなかった。最初は。
壁の時計が鳴った。
カチ。
……カチ。
カチ。
間隔が微妙にずれていた。ガルムの眉が動いた。俺は見ないふりをした。
カチ。
……カチ。
ガルムが立った。
「どこ行くんだ?」
「うるさい」
「聞いただけだろ」
「時計だ」
宿の主人が止める間もなく、ガルムは椅子を引き寄せ、壁時計を外して裏を開けた。
「あの、それ、うちの――」
「知ってる」
「壊れたら――」
「今、壊れてる」
主人は黙った。
十分ほどで、音は揃った。
カチ。
カチ。
ガルムは満足そうに椅子から降りた。
「代金なら……」
「いらん。ずれた音を聞きながらじゃ、飯がまずくなる」
レンなら、きっと横から覗き込んでいた。工具の名前を一つずつ聞いて、最後には触ろうとして叱られていたかもしれない。
そこまで考えて、俺は手元のパンをちぎった。
カチ。
カチ。
時計は、正しい間隔で時を刻んでいた。
翌朝、雨は上がっていた。空は晴れたが、道は昨日のまま残っていた。
例の下り坂で、馬車の後輪が沈んだ。
嫌な音がした。車体が傾き、片側の車輪が宙に浮きかける。坂の脇は腰の高さほどの段差になっていて、その下を増水した沢が流れていた。
「降りろ! 全員、山側へ!」
御者が叫んだ。俺たちは転がるように降りた。泥が足首まで来た。
馬が前脚で泥を掻く。そのたびに、車体がずるりと沢の方へずれた。
「押すぞ」
エレナが後ろへ回り、リオルが反対側についた。
二人は一度だけ目を合わせた。
合図はなかった。
次の瞬間、ほとんど同時に肩を入れる。
昔からそうしていたみたいに、動きだけはぴたりと合っていた。
フィーナは馬の轡を取り、低い声で何か話しかけていた。俺は反対側の手綱を持ち、馬の首に手を当てた。汗が熱い。耳が後ろへ倒れている。
「落ち着け。今は、引くな」
自分でも何を言っているのか分からなかった。馬も分からなかったと思う。
車輪は動かなかった。また少し、沢の方へずれた。
その時、ガルムが無言で車体の下へ回った。泥の中に膝をつき、車軸のあたりへ両手を掛ける。
「ガルム、そこは――」
俺は思わず声を上げた。
「引け」
御者が鞭を鳴らした。エレナとリオルが押した。フィーナが馬を前へ促した。
ガルムの背中が、ゆっくりと持ち上がった。
車体が、浮いた。ほんの指一本分。
それで足りた。後輪が泥から抜け、馬車は坂の上側へ戻った。
全員、その場で座り込みそうになった。ガルムだけは何事もなかったかのように、立ち上がった。
「……腰にくるな」
「五百年生きてもか」
「五百年生きたからだ」
ガルムはそう言って、膝についた泥を払った。
御者が、泥だらけになった俺たちを見回した。
「あんたら、いったい何者なんだ?」
誰も、すぐには答えなかった。
神殿の騎士。元神殿騎士。記憶を失った魔法士。五百年以上生きている時計職人。そして、異世界から来た俺。
一言で説明できる気がしなかった。
「……ただの旅人だ」
ガルムが言った。
御者はしばらくガルムを見ていたが、やがて首を振った。
「そういうことにしとくよ」
八日目、雨で洗われた森の匂いが、街道まで流れていた。
昼を少し過ぎた頃、馬が急に耳を立てた。次の瞬間、前脚が止まった。
「今度は何だ……」
俺は思わずつぶやいた。
御者が手綱を引く。窓の外を見たガルムの声が、低くなった。
「止めろ」
俺たちは馬車を降りた。
森側の枝が大きく揺れた。
一羽。
続いて、もう二羽。
鳥に似ていた。だが、翼は飛ぶためというより、身体を大きく見せるためにあるようだった。
長い脚の先には鉤爪があり、首の周りだけ黒い羽毛が膨らんでいる。
三羽は街道へ降りると、馬ではなく、荷台に積まれた食料へ顔を向けた。
フィーナとエレナが同時に前へ出た。リオルも剣へ手を掛ける。
「リオル、馬車を見ろ」
エレナが言った。
「俺も戦える」
「分かってる。でも、馬車を頼む」
「俺はお前の部下じゃないぞ」
「知ってる。命令じゃない。頼んでるんだ」
言いながら、リオルは剣を抜かずに御者の横へ回った。馬が暴れかけていた。昨日の坂を思い出しているのかもしれない。
俺もそちらへ向かった。魔獣より、今は馬の方が危ない。
「手綱、少し緩めて。締めすぎると余計に暴れる」
御者が頷いた。
フィーナが腰のレイピアを抜いた。細い刃が、木漏れ日を一筋だけ跳ね返した。エレナは剣を低く構えた。
魔獣は喉の奥で低く鳴いた。だが、すぐには飛びかかってこない。
「腹が減ってるだけ」
フィーナが言った。
「分かるのか」
「痩せてる」
確かに、膨らんだ羽毛の下の胸は、ひどく薄かった。エレナが少しだけ剣先を下げた。
「追い払う」
「うん」
二人が左右へ分かれた。フィーナが剣先で街道脇の石を弾く。乾いた音。エレナが一歩踏み込み、逃げ道だけを残して圧を掛ける。
三羽は迷った。一羽が横へ回り込もうとした。
その前に、ガルムが足元の小石を蹴った。石が嘴の先をかすめ、魔獣は翼を広げて向きを変えた。
数秒後には、三羽とも森の奥へ消えていた。
静かになった。
フィーナがレイピアを鞘へ戻した。最後まで、魔法は使わなかった。
リオルが手綱から手を離し、魔獣の消えた木立を見た。
「異常な反応はなかったな」
「ああ。ただの腹ぺこだ」
エレナが答えた。
「……馬車を見ていて正解だったな」
「そうだろ」
「認めるのが腹立つな」
「素直じゃないな」
「俺は素直だ」
「それを素直じゃないと言うんだ」
フィーナが小さく息を漏らした。俺も笑った。
御者だけが、手綱を握ったまま深いため息をついた。
「次の宿場で、酒を一杯おごってくれ」
御者がぼやいた。
「俺が出す。経費で――」
「経費で落とすな。自腹を切れ」
リオルが言い終わる前に、エレナが切った。
九日目、川の渡し場で昼の休憩を取った。
渡し舟を待つ間、リオルは岸の平らな石に書類を並べていた。雨の日に湿った紙を、日に当てて乾かしているらしい。一枚ずつ、角を小石で押さえている。几帳面な手つきだった。
「それ、全部原本か」
「半分はな」
「残りは?」
「写しだ。原本をなくした時のための」
「なくす予定があるのか」
「ない」
その瞬間、川上から強い風が来た。
小石が転がった。紙が、浮いた。
一枚。三枚。十枚近くが、白い鳥のように一斉に舞い上がった。
「待て!」
リオルが叫んだ。これまで聞いたことのない声だった。
全員が走った。エレナが飛び上がって二枚掴んだ。ガルムは動かず、足元へ落ちてきた一枚を靴で踏んで止めた。俺は一枚を追って草むらへ突っ込み、もう一枚を顔で受け止めた。
最後の一枚が、川の方へ流れていく。
水面へ落ちる――その直前、フィーナが浅瀬へ踏み込んだ。膝まで水に浸かり、指先で紙の端を摘まんだ。
岸へ戻ってきたフィーナは、濡れていない方を上にして、リオルへ差し出した。
「これ、大事?」
リオルは紙を受け取り、目を落としたまま、しばらく動かなかった。
「……一番大事なやつだ」
声が、少しだけ掠れていた。
「そう」
フィーナは濡れた裾を絞った。靴の中で、水が音を立てた。
俺は乾いた布を渡し、フィーナの濡れた靴を指した。
「替えの靴下、あるか」
「ある」
「入れててよかったな」
フィーナが俺を見た。
「ソウルが言った」
「覚えてたのか」
「うん。覚えてた。記憶帳にも書いた」
そう言って、記憶帳の方を顎で示した。
川の音だけがしていた。
リオルは紙の束をまとめ、鞄から紐を出して、ひどく念入りに縛った。三回結んだ。
ガルムが、踏んでいた一枚を拾ってリオルへ渡した。
「川に流れなくてよかったな」
「……本当にな」
エレナが、掴んだ二枚を渡しながら言った。
「やはり、原本をなくす予定があったんだな」
「ない」
「さっきも『ない』って言ってたな」
リオルは答えずに、四回目の結び目を作った。
旅の後半に差し掛かり、ガルムの口数が減った。最初は、食事が薄いとか、俺の荷物が重いとか、リオルの書類は薪にした方が役に立つとか、何かしら言っていた。それが、一日ごとに少なくなった。
十日目の夕方、古い石橋を渡った先の分かれ道で、ガルムが道標へ目を向けた。けれど、宿場の名を確かめるより先に、迷うことなく次の道へ視線を向けた。
遠くで鐘が鳴った。ガルムが顔を上げる。
「来たことがあるのか」
俺が聞くと、ガルムは街道の先を見たまま答えた。
「昔な」
それだけだった。俺も、それ以上は聞かなかった。
その夜、フィーナは記憶帳を閉じる前に、一行だけ書き足した。
その視線の先には、黙ったまま窓の外を見るガルムがいた。
カルテス到着前の夜、宿の食堂で、五人で同じ卓を囲んだ。
初日なら、もう少し妙な空気だったかもしれない。今は、リオルとエレナが同じ地図を覗き込んでいる。
「ここからなら、明日の昼前には門へ着く」
リオルが地図を見ながら言った。
「遅れなければな」
エレナが返す。
「お前が余計なことをしなければな」
「今日は何もしてない」
リオルが顔を上げた。
「四日目の肉の件は、まだ終わっていない」
「まだ言うのか」
「記録には残してある」
リオルは真顔だった。エレナがパンをちぎる手を止めた。
「それは公務か」
「個人的な記録だ」
「そんなものまで残すな」
「好きにつけさせてくれ」
リオルがエレナをにらむように見つめた。
その間に、フィーナが俺の皿から残っていた豆を一つ取った。
「それ、俺のだ」
「一つだけ」
「リオル、記録しておいてくれ」
「俺の仕事じゃない」
エレナが笑った。ガルムは笑わなかった。でも、口元がほんの少し動いた。
十二日前なら、妙な組み合わせだと思っただろう。今も妙ではある。ただ、一緒に食べることには慣れた。泥の中で同じ馬車を押して、川で同じ紙を追いかけた。
それくらいだった。
それで十分だった。
翌朝、街道は少しずつ広くなった。
行き交う荷車が増え、土の道にところどころ石が敷かれ始めた。巡回する騎士とすれ違った。
リオルが書類鞄を開け、紙束の紐を確かめた。結び目は、四つのままだった。エレナはその結び目を見て、口元をわずかに緩めた。
馬車が丘を越えると、フィーナが前をじっと見ていた。俺もその視線を追った。
丘から続く街道の先に、白い街が広がっていた。想像していたより遥かに大きかった。
「カルテスだ」
リオルが言った。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
白い街は、朝の光の中で静かに佇んでいた。
ガルムは、その街を誰よりも長く見つめていた。
懐かしいのか。苦い思い出があるのか。俺には分からなかった。
ガルムは言葉を発しなかった。
もともと口数の多い男ではないが、その沈黙はいつもより深く見えた。
馬車がゆっくりと坂を下り始める。
土の道は、やがて石の道へ変わっていった。
カルテスが俺たちに何を見せるのか。
その答えは、もう目の前まで来ていた。
第6章は、カルテスへ到着した場面から始まります。
第6章の作成を始めたとき、カルテス到着前に旅の場面を書ておきたいと思い、閑話をもう1話加えました。
五人で旅をする中で、それぞれの思いやすれ違いを抱えながらも、少しずつ分かり合えるかもしれない――そんな小さな絆の始まりを描きたいと思いました。
硬すぎるパンに文句を言ったり、リオルとエレナが昔からの調子で言い合ったり、泥にはまった馬車をみんなで押したり、川辺では大事な書類を全員で追いかけたり。大きな事件ではありませんが、こういう何気ない時間の中で、五人と一人の距離が少しずつ縮まっていく様子を書けたかなと思っています。
個人的に好きなのは、雨宿り先でガルムが時計を直す場面です。そこから、もういないレンの姿をソウルがふと思い浮かべる。悲しみを強く語るのではなく、何気ない日常の中に、いなくなった人の記憶がふっと戻ってくる。そんな場面にしたいと思いました。
そして旅の後半、カルテスが近づくにつれて、少しずつ口数を減らしていくガルム。最後に白い街を見つめる彼の沈黙には、まだ語られていないものがあります。
次回から、いよいよ第6章「選択の重さ」へ入ります。
舞台は神殿都市カルテス。
これまで旅の中で見てきた「一人の痛み」とは少し違う、もっと大きな制度や選択の問題に、ソウルたちは向き合っていくことになります。
ここまで長い旅になりましたが、こうして彼らの何でもない会話を書いている時間は、作っている自分にとってもかなり楽しい時間でした。シリアスな本編が続くほど、こういう寄り道も大切なのかもしれません。
引き続きテルナ・ヴァイドをよろしくお願いします。




