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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第5章 神なき世界の祈り

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閑話6 パンを二つ(閑話5の後)

旅立ちの前日。


明日のために用意するものと、

今日のために選ぶもの。


先のことばかり考えてしまうソウルと、

今を見ているフィーナ。


何気ない買い物と食卓の中に、

言葉にしなくても伝わるものがある。


これは、旅立ちの前に残された、

ささやかな日常の物語。

 出発前日の午後、俺とフィーナはラグナの市場を歩いていた。明日の朝にはカルテスへ向かう。荷造りはほとんど終わっていて、残っているのは道中で食べるものを揃えるくらいだった。

 ――そのはずだった。

 俺の腕には、硬いパンと干し肉、乾燥させた果物、それに炒った豆の袋が積み上がっていた。

「多くないか?」

 隣を歩いていたフィーナが、俺の腕の中を見た。

「保存が利く」

「それは分かる」

「なら問題ないだろ」

「途中で買い足すだろ」

「そのつもりだけど、買えない場所もあるかもしれない」

 フィーナは少し考えてから、積み上がった硬いパンを二つ抜いた。

「これでも多い」

「勝手に減らすな」

「持てるのか?」

「持てる」

「昨日も、似たこと言ってた」

 医療鞄の留め具が閉まらなくなったことを思い出した。

「食料と医療品は違う」

「どう違うんだ?」

 俺は少し考えた。

「……食える」

 フィーナが俺を見た。

「そういう話じゃないだろ」

 返す言葉がなかった。

 フィーナは二つのパンを売り籠へ戻した。俺は一つだけ取り返そうとしたが、その前に籠を向こうへ押された。

「足りなかったら、途中で買えばいい」

「簡単に言うな」

「買うために市場がある」

 それも正しい。二つのパンには未練があったが。


 市場はいつもと変わらなかった。野菜を売る声が重なり、桶の水が路地へ撒かれ、少し先では鍛冶場から金属を打つ音が響いていた。値段をまけろと粘る客に、店主が笑いながら首を振っていた。

 明日、俺たちがここを離れても、街はいつも通り動いていく。それでよかった。


 パン屋の前まで来ると、焼けた小麦の匂いが流れてきた。店先には旅向けの硬いパンと、今日焼いたばかりの丸いパンが並んでいた。

 俺が硬い方へ手を伸ばすと、同時にフィーナが柔らかい丸パンを取った。

 一つ。続けて、もう一つ。

「そっちは日持ちしないぞ」

「知ってる」

「明日持っていくなら、こっちの方がいい」

「今日食べる」

 俺の手が止まった。

「今日?」

「夕食、まだでしょ」

 言われて初めて気づいた。明日のことばかり考えていて、今日の夕食を何も考えていなかった。

「……そうだな」

 フィーナは二つの丸パンをそのまま買い物籠へ入れた。

 店の奥で包みを作っていたパン屋の男が、俺たちを見た。

「旅か」

「ああ。明日の朝に出る」

 男は行き先を聞かなかった。理由も聞かなかった。

「そうか」

 旅用の硬いパンをまとめて紙で包み、紐を掛けた。その途中で、小さな丸パンを一つだけ横へ添えた。

「一つ多いぞ」

「餞別だ。持ってけ」

「いいのか?」

「道中で腹減らされても困るからな」

 ぶっきらぼうに言って、男は包みを俺へ押しつけた。

「……ありがとう」

 男は片手を上げただけで、もう次の客へ向き直っていた。


 店を離れて少し歩いたところで、俺はフィーナが持つ紙袋を見た。丸パンが二つ入っていた。

「二つ買ったんだな」

「うん」

「一つはガルムの分か?」

「違う」

「じゃあ――」

 フィーナが紙袋から一つ取り出し、俺へ差し出した。

「これ」

「俺に?」

「今日食べるでしょ」

 受け取ったパンは、まだ少し温かかった。

 丸パンは、二つだった。

「ガルムの分は?」

 フィーナは俺が抱えている包みを見た。

「一つ増えた」

「あれ、硬いぞ」

「あるならいい」

「よくない気がする」

 フィーナは少しだけ首を傾けた。

「じゃあ、ソウルのを分ければいい」

 俺は手の中の丸パンを見た。

「……それは少し惜しい」

「そうか」

 短い返事だったが、口元がほんの少しだけ緩んでいた。


 帰り道、食料の袋は結局ほとんど俺が持った。フィーナは横を歩きながら、何度かこちらを見た。

「重そうだ」

「大丈夫」

「落とさないか?」

「落とさない」

 言った直後、袋の端から干し肉の包みが滑った。

 地面へ落ちる前に、フィーナの手が伸びた。

「落ちた」

「落ちてない。受け止めただろ」

「落ちかけた」

「そこは同じにしてくれ」

「違うと思うぞ」

 フィーナは包みを袋へ戻した。今度は俺が何も言わなくても、上の荷物を少し自分の腕へ移した。

「持てるのか?」

「これくらいなら」

 それ以上は言わなかった。俺も取り返さなかった。

 市場を抜けた。屋台から湯気が上がり、子どもが二人、通りを駆けていった。酒場の戸口から笑い声が漏れ、どこかの家から夕食を作る匂いが流れてきた。

 何度も歩いた道だった。明日からしばらく、この景色を見ることはない。

 そう思いながら、俺は歩いた。


 工房へ戻ると、ガルムは作業台の前にいた。細い工具を置き、俺たちの荷物を一度見た。

「買いすぎだ」

「フィーナにも言われた」

「なら買うときに減らせ」

「もう減らされた」

「そうか」

 ガルムはそれ以上何も言わず、また工具へ手を伸ばした。


 夕食は簡単に済ませた。温め直した野菜のスープと少しのチーズ、それから買ってきた柔らかいパン。

 フィーナが一つを自分の前に置き、もう一つを俺の前へ置いた。

 ガルムがそれを見た。次に、自分の前を見た。

「俺のは?」

 俺とフィーナは顔を見合わせた。

 フィーナが旅用の包みから、パン屋にもらった硬いパンを一つ取り出した。

「これならある」

 ガルムは硬いパンを見た。

「俺だけこれか」

「一つ増えたから」

「増えたことは聞いてねえ。なんで俺のだけ硬いパンなんだ」

 俺は思わず笑った。

「笑うな」

「悪い」

 ガルムは硬いパンを指で叩いた。

「五百年以上生きて、出発前日に硬えパンだけ渡されるのは初めてだ」

「その年で、新しい経験ができたな」

 ガルムが、じろりと俺を見た。

 フィーナは少し考えた。

「水につければ柔らかくなる」

「そういう問題でもねえ」

 今度は、フィーナも小さく息を漏らした。

 結局、俺の丸パンを三つに分け、フィーナの分からも少しガルムへ渡した。硬いパンは明日の荷物へ戻した。

 文句を言っていたガルムが、柔らかいパンを一番先に食べ終えた。


 食事が終わる頃には、外は暗くなっていた。

 明日は早い。いつもならガルムはもう少し作業台に残り、俺も医療鞄を開いて中身を確かめていたかもしれない。けれど、その夜は誰も、いつもの続きを始めなかった。

 フィーナが食器を片付けた。俺は炉の火を弱めた。ガルムは使っていた工具を布で拭き、一つずつ棚へ戻していった。

 旅立ちの前夜なのに、工房の中だけは、いつもとほとんど変わらなかった。


 フィーナが表の戸へ向かった。

「閉めるよ」

「ああ」

 戸板が合わさると、昼間から続いていた市場のざわめきが遠くなった。

 俺は壁際の灯りを一つ消した。もう一つ消した。部屋の影が少しずつ濃くなっていった。

 ガルムは炉を確かめ、灰を寄せた。それから裏口、窓、棚を順に見て回り、最後に表の戸へ戻った。

 鍵を掛ける。

 一度、戸を引く。

 もう一度、鍵を確かめる。

「閉まってるぞ」

 俺が言うと、ガルムは鍵から手を離した。

「道の途中で気づいても戻れねえからな」

 昨日も、ガルムは俺たちの鞄の留め具を何度も確かめていた。

「ガルムも心配しすぎじゃないか?」

 隣にいたフィーナが俺を見た。

「ソウルが言うのか?」

「……俺とは別だろ」

「同じに見える」

 ガルムが鼻で笑った。

「お前ら、似てきたな」

「どこが」

 俺とフィーナの声が重なった。

 一瞬だけ、妙な間が空いた。

 ガルムが先に笑った。つられて、俺も笑った。

 フィーナは眉を寄せたまま、小さく息を漏らした。


 最後の灯りだけが残っていた。

 ガルムがそこへ手を伸ばし、火を消した。

 工房の中から、音が一つずつ消えていった。

 食器の音。炉の音。戸の向こうから入っていた人の声。

 最後に、壁時計の音だけが残った。


「寝ろ。明日は早い」

 ガルムの声がした。

「ああ」

 少し間を置いて、フィーナが言った。

「分かってる顔には見えない」

「それ、最近よく言われるな」

「そうか、誰に?」

「お前に」

 返事はなかった。

 暗くて表情は見えなかった。ただ、小さく息を漏らす音がした。


 明日の朝、この戸を開ける。

 その時には、ラグナを出ることになる。

 壁時計は、何も知らないように時を刻んでいた。

 カチ。

 カチ。

 明日は、ここから先へ行く。

 それでも今夜は、もう少しだけここにいたかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、旅立ちの前日にある、ごくささやかな時間を描きました。


明日のために準備するソウルと、今日のために丸パンを二つ選ぶフィーナ。

大きな出来事はなくても、何気ないやり取りの中には、少しずつ変わっていく関係があります。


そして、ガルムを交えた食卓も、いつもと変わらないようでいて、旅立ちを前にした最後の夜でした。


失ったものが戻らなくても、今ここで積み重ねられるものはある。

そんなことが、少しでも伝わっていれば嬉しいです。


次回から物語は、新たな章へ入ります。


第6章「選択の重さ」

Scene 37「神殿都市カルテス」


ラグナを離れたソウルたちは、神殿国家カルテスへ。

そこで彼らが目にするのは、記憶を管理する制度の中心と、その制度によって救われている人々の姿です。


新たな土地で、それぞれの「選択」が試されていきます。

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