閑話5 持っていくもの (Scene36の後)
出発まで、あと二日。
旅に必要なものを前にすると、
何を持っていくべきか、何を置いていくべきか、簡単には決められない。
多すぎても困る。
少なすぎても、不安になる。
必要かもしれない。
でも、本当に必要なのかもしれない。
迷いながら、ひとつずつ手に取り、また戻す。
それは荷物だけではなく、
記憶も、想いも、これから選ぶ道も同じなのかもしれない。
誰かに決めてもらうのではなく、
自分で迷い、自分で選び、自分で持っていく。
これは、必要なものを迷いながら選択する者たちの新たな旅立ちの物語
出発まで、あと二日だった。
俺は工房の作業台に医療鞄を広げていた。
清潔な布。包帯。小瓶。記録用の紙。木炭筆。砂時計。水筒。
一度すべて並べてから、使う順番を考えて鞄へ戻していった。これなら入ると思っていた。
思っていただけだった。
最後の包帯を入れたところで、留め具が届かなくなった。
「多くないか?」
少し離れた床で旅支度をしていたフィーナが、医療鞄を見ていた。
「多いな」
「減らさないのか?」
「足りなくて困るよりはいい」
「増やしすぎて困ることは?」
俺は医療鞄を見た。
蓋は浮き、留め具は指一本分ほど届いていなかった。
「……今、困ってる」
フィーナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
俺は包帯を一巻き取り出した。手の中で迷って、戻した。代わりに小瓶を一本抜いたが、それも結局戻した。
「減ってない」
「分かってる」
「分かってる人の動きには見えない」
「そこまで言うか」
フィーナは答えず、自分の荷物へ視線を戻した。
こっちは驚くほど少なかった。
替えの服。水筒。剣の手入れ布。小さな砥石。革手袋。記憶帳。
「それだけなのか?」
「これだけ」
「カルテスまで十二日以上かかるぞ」
「服は洗える」
「雨が続いたら?」
「乾かす」
「乾かなかったら?」
フィーナが顔を上げた。
「ソウルは心配しすぎ」
反論しようとして、開いたままの医療鞄が目に入った。
「……そうかもしれない」
フィーナは畳んだ服を鞄に入れた。その横に、丸めた靴下が一足だけ置かれていた。
「靴下は?」
「ある」
「替えは?」
フィーナの手が止まった。
「ない」
「一足は入れた方がいい」
「どうして?」
「濡れた靴下で長く歩くと、足を傷める。乾くまで裸足で歩くわけにもいかない」
フィーナはしばらく俺を見ていた。
「看護師の話?」
「半分はな」
「残り半分は?」
「経験」
「ソウルの?」
「患者の」
少し考えたあと、フィーナは棚からもう一足持ってきた。
「これでいいか?」
「もう一足あっても――」
「ソウル」
フィーナが、少し低い声で俺の名前を呼んだ。
「……はい」
工房の奥で、工具の音が止まった。
「靴下は多めに持て」
ガルムだった。
俺とフィーナは同時に奥を見た。
ガルムは時計から目を上げてもいない。
「……なんでそこだけ聞いてるんだよ」
「聞こえたからだ」
「どこから聞いてた?」
「お前の鞄が閉まらねえところからだ」
フィーナが顔を伏せた。
肩が小さく揺れた。
今度は、笑ったのだと分かった。
「笑うなよ」
「笑ってない」
「じゃあ、その肩は何だ」
「知らない」
工房の奥から、ガルムの低い笑い声まで聞こえた。
俺は何も言わず、医療鞄へ向き直った。
そのままでは閉まらないので、今度こそ小瓶を一本抜いた。
「減った」
フィーナが言った。
「一本だけな」
「進歩」
「……そこは褒めるところか?」
フィーナは返事をせず、自分の荷物を整え始めた。
しばらくして、フィーナが記憶帳を手に取った。
表紙に指を置いたまま、少しだけ止まった。
開きはしなかった。
俺は何も言わなかった。
フィーナは記憶帳を鞄の一番上へ置いた。
「持っていくんだな」
「持っていく」
それだけだった。
次にフィーナが手に取ったのは、小さな灰色の布袋だった。
角が擦れ、口を結ぶ紐が少し毛羽立っていた。中には針と糸、留め具、小さな布切れが入っていた。
工房で見かけたことはあった。けれど、誰がいつから使っていたものなのか、俺は知らない。
フィーナは袋の口を開け、中を一度確かめた。
そのまま鞄へ入れるかと思ったが、一度、床へ戻した。
替えの服を詰めた。水筒を横へ寄せた。剣の手入れ道具の位置を直した。
それから、もう一度、布袋を手に取った。
「それも持っていく?」
俺が聞くと、フィーナは袋を見たまま答えた。
「迷ってる」
「そうか」
俺はそれ以上聞かなかった。
必要かどうか。何に使うつもりなのか。前のフィーナなら持っていったのか。
聞こうと思えば、いくらでも聞けた。
けれど、今決めるのは俺じゃない。
少しして、フィーナは布袋を鞄の隅へ入れた。
「決めたのか?」
「持っていく」
「分かった」
持っていくと決めた理由は言わなかった。
俺も聞かなかった。
自分の医療鞄へ戻った。
最後まで残っていた包帯を押し込み、両手で蓋を引き寄せた。
まだ届かない。
少し考えて、鞄の上から体重をかけた。
「ソウル」
「今度は何だ」
「それ、閉じたことになるのか?」
「留め具が掛かれば閉じたことになる」
「壊れたら?」
「その時考える」
「やめろ」
今度はガルムだった。
俺は手を止めた。
「……はい」
結局、包帯をもう一巻き抜いた。
今度は、留め具が何の抵抗もなく掛かった。
「入った」
「減らしたから」
「結果が大事だ」
「最初から減らせばよかった」
「それは言わない約束だ」
「してない」
返しが早くて、俺は笑った。
フィーナも自分の鞄の留め具を締めた。
こちらは一度で閉まった。
ガルムが立ち上がった。
作業台を回り込み、俺たちの鞄の前で足を止めた。
何も言わず、医療鞄の肩紐を摘まんで引いた。縫い目を指でなぞり、留め具を二度確かめた。
同じことを、フィーナの鞄にもした。
「それ、もう閉まってるぞ」
俺が言うと、ガルムは顔も上げずに答えた。
「行く途中で壊れるよりはいい」
フィーナの鞄の金具を押さえたまま、ガルムの手が一瞬だけ止まった。
それだけだった。
何も言わず、鞄を床へ戻した。
「これで準備は終わったのか?」
フィーナが聞いた。
「たぶん」
「たぶん?」
「旅は久しぶりだからな。何か忘れてる気がする」
言ってから、フィーナを見た。
「前の旅は、覚えてない」
少しだけ間が空いた。
「……そうだった」
フィーナは自分の鞄を持ち上げた。
「でも、行くんでしょ」
「ああ」
「なら、足りなかったら途中で考えればいい」
「随分あっさりしてるな」
「ソウルが考えすぎ」
また同じことを言われた。
俺は医療鞄を作業台の脇へ置いた。
フィーナも、その隣へ自分の鞄を置いた。
片方は少し膨らみすぎていて、もう片方は必要な分だけきれいに収まっていた。
中に入っているものも、選んだ理由も、たぶんほとんど違っていた。
作業台の横に、二つの鞄が並んでいた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
今回の閑話では、カルテスへ向かう前の「旅支度」を描きました。
何を持っていくのか。
何を置いていくのか。
一見すると、ただ荷物をまとめているだけの時間です。
けれど、迷い方や選び方には、その人が今どこを見ているのかが表れるように思います。
多めに持とうとするソウル。
必要なものだけを選ぶフィーナ。
そして、何も言わず二人の鞄を確かめるガルム。
特にフィーナが、記憶帳や布袋を「持っていく」と自分で決めたことは、小さなことですが、今の彼女にとって大切な選択の一つでした。
過去の自分が何を選んだかではなく、今の自分が何を持っていくのか。
失ったものをすべて取り戻してからでなくても、人は次の一歩を選べるのかもしれません。
そして、旅立つ前にもう一つだけ。
次回は閑話6「パンを二つ」。
カルテスへ向かう前日のラグナで、ソウルとフィーナは旅の食料を買いに市場へ向かいます。
明日のための硬いパンを選びながら、二人が手に取るのは、今日食べるための柔らかなパンでもあります。
旅立ちの朝は、もうすぐそこまで来ています。
それでも今はまだ、市場には人の声があり、工房には時計の音があり、同じ食卓を囲む夜が残っている。
新しい旅が始まる、そのほんの少し前。
彼らはもう一度だけ、いつものラグナで、今日を生きます。




