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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第5章 神なき世界の祈り

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Scene 36 知らないままで

答えが出なくても、進むことはできる。


忘れてしまったものを、無理に取り戻す必要はない。

知らないままでも、今の自分で見て、考えて、選ぶことはできる。


これは、失ったものを抱えたまま、

それぞれが次の場所へ向かうことを決めた、新たな始まりの物語。

 翌日の夕方、俺は工房の作業台で医療鞄の中身を整理していた。使った布を取り出し、小瓶の残りを確かめた。砂時計は机の端に置いた。

 奥では、ガルムが時計を直していた。小さな歯車を摘まみ、目を細めた。フィーナは窓際の椅子に腰掛け、膝の上で記憶帳を開いていた。誰も、すぐには口を開かなかった。

「昨日の人は?」

 顔を上げると、フィーナがこちらを見ていた。

「トーヤのことか?」

「名前までは聞いてない」

「朝は落ち着いてたらしい。脚の方も悪くなってない」

「そう」

 フィーナはそれだけ言って、記憶帳へ目を戻した。俺も医療鞄へ視線を戻した。昨日のことを聞かれるかと思ったが、それ以上は何もなかった。


 日が傾き始めた頃、工房の扉が二度鳴った。

 入ってきたのはリオルだった。いつもの神殿騎士の外套の下に、薄い革筒を抱えている。

「何かあったのか?」

 俺が聞くと、リオルは革筒を作業台へ置いた。

 その時、もう一度扉が開いた。

 エレナだった。リオルを見ると、わずかに眉を上げた。

「リオル、お前もいたのか。……まあいい」

 リオルは一瞬だけエレナを見たが、何も言わなかった。

 エレナもそれ以上気にした様子はなく、中へ入ってきた。


「照会への返答が来た」

「早いな」

「答えが来たわけじゃない」

 革筒から一枚の文書を抜き、机の上へ広げた。神殿の印が押されていた。

「異常魔獣の記録、回収された記憶媒体、それから残響に関する過去資料。ヴェスタ側で照合できる範囲には限界がある」

「じゃあ、どこなら分かる?」

「カルテスだ」

 名前だけなら、これまでにも何度か聞いていた。神殿の中央。ヴェスタでは確かめきれない記録が集まる場所。けれど俺にとっては、まだ地図の向こう側にある遠い名前でしかなかった。

 そこへ自分が向かうことになる、そう考えた途端、カルテスという名前が、少しだけ現実の重さを持った。

 その名が出た瞬間、ガルムの手が止まった。ほんの一拍だけだった。すぐに歯車を作業台へ置いた。

「来いってことか?」

 俺が文書を見ながら聞いた。

「命令じゃない。召喚でもない。原記録の閲覧と照合を求めるなら、カルテスで受ける。そう書いてある」

「つまり、こっちが行くかどうかを決めろってことね」

 エレナが腕を組んだ。

「そういうことだ」

 工房の中に、時計の音だけが残った。


「俺は行く」

 思ったより先に言葉が出た。

 リオルが俺を見た。

「理由は?」

「分からないことが増えすぎた」

「答えを探しに行くのか」

 少し考えてから、首を振った。

「答えがあるとは思ってない。何が分からないのかくらいは、確かめたい」

 異常魔獣のこと。記憶媒体のこと。俺の中で、ときどき境目を曖昧にする残響のこと。どれか一つを知れば全部がつながるとは思えなかった。

 それでも、今ある情報だけで結論を出すのは違う気がした。


「私も行く」

 エレナだった。

 リオルが眉を寄せた。

「覚醒派の指揮官が、神殿中央へ?」

「何か問題でも?」

「問題がないとは言えない」

「神殿中央が問題だと言うなら、カルテスで止めればいい」

 エレナは文書へ目を落とした。

「向こうが何を守って、何を管理してるのか、自分で見る。当事者がいないところで、勝手に話を進められるのも御免だ」

 一度だけ間を置いた。

「今度は、見てから決める」

 リオルは何か言いかけたが、結局口を閉じた。


「俺も行く」

 ガルムが言った。

「お前も?」

「昔の知り合いに会う」

 それ以上、ガルムは説明しなかった。俺も聞かなかった。

 誰のことなのか、聞き返す気にはならなかった。ガルムがこの街で積み重ねてきた時間の向こうに、俺の知らない何かがある。そのことだけは、これまでの言葉の端々から感じていた。

 本人が口にしないことを、今ここで無理に聞き出す理由もなかった。

 リオルは額を押さえるようにして息を吐いた。

「分かった。通行の手続きは俺が確認する。ただし、明日すぐ出るのは無理だ。馬車もいる。途中の宿場への連絡も必要になる」

「どれくらいだ?」

「三日。早くてもそれくらいは見てくれ」

 三日後。

 その数字を聞いても、まだ旅立つ実感はなかった。


 俺はフィーナを見た。

 さっきから、彼女だけが何も言っていなかった。記憶帳は閉じられ、両手の間に置かれている。

「フィーナ」

 名前を呼ぶと、ゆっくり顔を上げた。

「無理に来る必要はない」

 言った瞬間、フィーナの眉がわずかに動いた。

「それは、私が決める」

「……そうだな」

 以前、自分が言った言葉を思い出した。

 今のお前が決めればいい。

 フィーナは少し黙ったあと、俺を見た。

「ソウル」

「ん?」

「私は、あなたのことをまだよく知らない」

 すぐには返事ができなかった。それでも、目を逸らさなかった。

「ああ」

「前の私が、あなたをどう思っていたのかも分からない」

「分かってる」

 フィーナは一度だけ視線を落とした。

「でも、昨日は見た」

「施療所で?」

 小さく頷いた。

「あの人のそばにいた」

 それだけ言って、フィーナは黙った。

 フィーナの指が、閉じた記憶帳の縁をゆっくりとなぞった。

「ここに書いてあることだけで、決めたくない」

 フィーナは記憶帳ではなく、俺を見た。

「昨日、見たことは、今の私が覚えてる」

「知らないなら、これから見ればいいと思った」

「俺を?」

「ソウルも」

 フィーナは膝の上の記憶帳へ目を落とした。

「それから、私自身のことも知りたい」

 少し間を置いた。

「だから、一緒に行く」

 俺はしばらくフィーナを見た。

「……分かった」

 それ以上は何も言わなかった。過去が戻ったわけじゃない。それでも、今ここでフィーナが自分で決めたことだけは、はっきりしていた。


 話が決まると、リオルは手続きの確認に戻った。エレナも自分の準備があると言って工房を出た。ガルムも作業台へ戻り、何事もなかったように工具を手に取った。

「三日後だ」

 背中を向けたまま、ガルムが言った。

「分かってる」

「分かってる顔じゃねえ」

「どんな顔だよ」

「間抜けな顔だ」

 フィーナが小さく息を漏らした。笑ったのかどうかは分からなかった。

 俺は医療鞄を閉じ、肩に掛けた。

「少し市場に出る」

「私も行く」

 フィーナが立ち上がった。


 工房を出ると、ラグナの街には夜の帳が下り始めていた。店先の灯りが一つずつ点き、屋台から湯気が上がっている。酒場の戸口から笑い声が漏れ、遠くではまだ荷車の音がしていた。


 レンはいない。失ったものは戻らない。

 それでも、ラグナの暮らしは続いていた。


 フィーナが先に歩き出した。俺も後を追った。

 数歩進んだところで、フィーナの歩みが少しだけ遅くなった。

 追いつくと、すぐ隣に銀灰色の髪があった。

 フィーナは何も言わなかった。俺も言わなかった。

 市場の灯りの中を、そのまま歩いた。

 気づいた時には、歩幅が揃っていた。

 フィーナはもう、半歩先にはいなかった。

Scene36「知らないままで」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


第5章「神なき世界の祈り」は、失ったものを取り戻す章ではなく、失ったままでも、もう一度動き始めるための章として描いてきました。


レンはいない。

フィーナの失った記憶も戻らない。

ソウルの中に残る迷いや、自分でも整理しきれない残響も、そのままです。


それでも、それぞれが自分の理由で次の場所へ向かうことを選びました。


今回のSceneで、フィーナは過去の記憶帳だけを頼りにするのではなく、今の自分が見たソウルを、自分の判断材料にしています。


思い出したからではなく、これから知っていくために。


そして最後に、二人の歩幅が揃いました。


それは、以前と同じ関係へ戻ったという意味ではありません。

知らない部分を残したまま、それでも隣を歩くことを選んだだけです。


第5章は、ここで一区切りとなります。


次章、第6章「選択の重さ」。


舞台は、神殿中央――カルテスへ。


それぞれが抱えてきた問いは、そこでさらに大きな選択へつながっていきます。

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