Scene 36 知らないままで
答えが出なくても、進むことはできる。
忘れてしまったものを、無理に取り戻す必要はない。
知らないままでも、今の自分で見て、考えて、選ぶことはできる。
これは、失ったものを抱えたまま、
それぞれが次の場所へ向かうことを決めた、新たな始まりの物語。
翌日の夕方、俺は工房の作業台で医療鞄の中身を整理していた。使った布を取り出し、小瓶の残りを確かめた。砂時計は机の端に置いた。
奥では、ガルムが時計を直していた。小さな歯車を摘まみ、目を細めた。フィーナは窓際の椅子に腰掛け、膝の上で記憶帳を開いていた。誰も、すぐには口を開かなかった。
「昨日の人は?」
顔を上げると、フィーナがこちらを見ていた。
「トーヤのことか?」
「名前までは聞いてない」
「朝は落ち着いてたらしい。脚の方も悪くなってない」
「そう」
フィーナはそれだけ言って、記憶帳へ目を戻した。俺も医療鞄へ視線を戻した。昨日のことを聞かれるかと思ったが、それ以上は何もなかった。
日が傾き始めた頃、工房の扉が二度鳴った。
入ってきたのはリオルだった。いつもの神殿騎士の外套の下に、薄い革筒を抱えている。
「何かあったのか?」
俺が聞くと、リオルは革筒を作業台へ置いた。
その時、もう一度扉が開いた。
エレナだった。リオルを見ると、わずかに眉を上げた。
「リオル、お前もいたのか。……まあいい」
リオルは一瞬だけエレナを見たが、何も言わなかった。
エレナもそれ以上気にした様子はなく、中へ入ってきた。
「照会への返答が来た」
「早いな」
「答えが来たわけじゃない」
革筒から一枚の文書を抜き、机の上へ広げた。神殿の印が押されていた。
「異常魔獣の記録、回収された記憶媒体、それから残響に関する過去資料。ヴェスタ側で照合できる範囲には限界がある」
「じゃあ、どこなら分かる?」
「カルテスだ」
名前だけなら、これまでにも何度か聞いていた。神殿の中央。ヴェスタでは確かめきれない記録が集まる場所。けれど俺にとっては、まだ地図の向こう側にある遠い名前でしかなかった。
そこへ自分が向かうことになる、そう考えた途端、カルテスという名前が、少しだけ現実の重さを持った。
その名が出た瞬間、ガルムの手が止まった。ほんの一拍だけだった。すぐに歯車を作業台へ置いた。
「来いってことか?」
俺が文書を見ながら聞いた。
「命令じゃない。召喚でもない。原記録の閲覧と照合を求めるなら、カルテスで受ける。そう書いてある」
「つまり、こっちが行くかどうかを決めろってことね」
エレナが腕を組んだ。
「そういうことだ」
工房の中に、時計の音だけが残った。
「俺は行く」
思ったより先に言葉が出た。
リオルが俺を見た。
「理由は?」
「分からないことが増えすぎた」
「答えを探しに行くのか」
少し考えてから、首を振った。
「答えがあるとは思ってない。何が分からないのかくらいは、確かめたい」
異常魔獣のこと。記憶媒体のこと。俺の中で、ときどき境目を曖昧にする残響のこと。どれか一つを知れば全部がつながるとは思えなかった。
それでも、今ある情報だけで結論を出すのは違う気がした。
「私も行く」
エレナだった。
リオルが眉を寄せた。
「覚醒派の指揮官が、神殿中央へ?」
「何か問題でも?」
「問題がないとは言えない」
「神殿中央が問題だと言うなら、カルテスで止めればいい」
エレナは文書へ目を落とした。
「向こうが何を守って、何を管理してるのか、自分で見る。当事者がいないところで、勝手に話を進められるのも御免だ」
一度だけ間を置いた。
「今度は、見てから決める」
リオルは何か言いかけたが、結局口を閉じた。
「俺も行く」
ガルムが言った。
「お前も?」
「昔の知り合いに会う」
それ以上、ガルムは説明しなかった。俺も聞かなかった。
誰のことなのか、聞き返す気にはならなかった。ガルムがこの街で積み重ねてきた時間の向こうに、俺の知らない何かがある。そのことだけは、これまでの言葉の端々から感じていた。
本人が口にしないことを、今ここで無理に聞き出す理由もなかった。
リオルは額を押さえるようにして息を吐いた。
「分かった。通行の手続きは俺が確認する。ただし、明日すぐ出るのは無理だ。馬車もいる。途中の宿場への連絡も必要になる」
「どれくらいだ?」
「三日。早くてもそれくらいは見てくれ」
三日後。
その数字を聞いても、まだ旅立つ実感はなかった。
俺はフィーナを見た。
さっきから、彼女だけが何も言っていなかった。記憶帳は閉じられ、両手の間に置かれている。
「フィーナ」
名前を呼ぶと、ゆっくり顔を上げた。
「無理に来る必要はない」
言った瞬間、フィーナの眉がわずかに動いた。
「それは、私が決める」
「……そうだな」
以前、自分が言った言葉を思い出した。
今のお前が決めればいい。
フィーナは少し黙ったあと、俺を見た。
「ソウル」
「ん?」
「私は、あなたのことをまだよく知らない」
すぐには返事ができなかった。それでも、目を逸らさなかった。
「ああ」
「前の私が、あなたをどう思っていたのかも分からない」
「分かってる」
フィーナは一度だけ視線を落とした。
「でも、昨日は見た」
「施療所で?」
小さく頷いた。
「あの人のそばにいた」
それだけ言って、フィーナは黙った。
フィーナの指が、閉じた記憶帳の縁をゆっくりとなぞった。
「ここに書いてあることだけで、決めたくない」
フィーナは記憶帳ではなく、俺を見た。
「昨日、見たことは、今の私が覚えてる」
「知らないなら、これから見ればいいと思った」
「俺を?」
「ソウルも」
フィーナは膝の上の記憶帳へ目を落とした。
「それから、私自身のことも知りたい」
少し間を置いた。
「だから、一緒に行く」
俺はしばらくフィーナを見た。
「……分かった」
それ以上は何も言わなかった。過去が戻ったわけじゃない。それでも、今ここでフィーナが自分で決めたことだけは、はっきりしていた。
話が決まると、リオルは手続きの確認に戻った。エレナも自分の準備があると言って工房を出た。ガルムも作業台へ戻り、何事もなかったように工具を手に取った。
「三日後だ」
背中を向けたまま、ガルムが言った。
「分かってる」
「分かってる顔じゃねえ」
「どんな顔だよ」
「間抜けな顔だ」
フィーナが小さく息を漏らした。笑ったのかどうかは分からなかった。
俺は医療鞄を閉じ、肩に掛けた。
「少し市場に出る」
「私も行く」
フィーナが立ち上がった。
工房を出ると、ラグナの街には夜の帳が下り始めていた。店先の灯りが一つずつ点き、屋台から湯気が上がっている。酒場の戸口から笑い声が漏れ、遠くではまだ荷車の音がしていた。
レンはいない。失ったものは戻らない。
それでも、ラグナの暮らしは続いていた。
フィーナが先に歩き出した。俺も後を追った。
数歩進んだところで、フィーナの歩みが少しだけ遅くなった。
追いつくと、すぐ隣に銀灰色の髪があった。
フィーナは何も言わなかった。俺も言わなかった。
市場の灯りの中を、そのまま歩いた。
気づいた時には、歩幅が揃っていた。
フィーナはもう、半歩先にはいなかった。
Scene36「知らないままで」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第5章「神なき世界の祈り」は、失ったものを取り戻す章ではなく、失ったままでも、もう一度動き始めるための章として描いてきました。
レンはいない。
フィーナの失った記憶も戻らない。
ソウルの中に残る迷いや、自分でも整理しきれない残響も、そのままです。
それでも、それぞれが自分の理由で次の場所へ向かうことを選びました。
今回のSceneで、フィーナは過去の記憶帳だけを頼りにするのではなく、今の自分が見たソウルを、自分の判断材料にしています。
思い出したからではなく、これから知っていくために。
そして最後に、二人の歩幅が揃いました。
それは、以前と同じ関係へ戻ったという意味ではありません。
知らない部分を残したまま、それでも隣を歩くことを選んだだけです。
第5章は、ここで一区切りとなります。
次章、第6章「選択の重さ」。
舞台は、神殿中央――カルテスへ。
それぞれが抱えてきた問いは、そこでさらに大きな選択へつながっていきます。




