Scene 35 少しだけ怖くなかった
救えなかったことと、
何もしなかったことは、きっと同じではない。
答えが出ないままでも、
誰かに寄り添い、見守ることはできる。
これは、失ったものを取り戻す物語ではなく、
もう一度、目の前の誰かに向き合おうとする物語。
エレナが新しい配置図に最初の線を引いてから、二日が過ぎた。翌日は、工房で西街道から戻された物資の整理を手伝った。施療所には行かなかった。
行かなかったのか、行けなかったのか、自分でも分からない。
その次の日の昼過ぎ、マレクから人手が足りないと伝言が来た。断る理由はなかった。医療鞄を肩に掛け、俺は施療所へ向かった。
扉を開けた時、最初に聞こえたのは咳だった。ひとつではない。奥で誰かが咳き込み、その少しあとに、別の寝台から低いうめき声がした。水を汲む音。布を絞る音。床を急ぐ足音。
西街道から戻ってきた負傷者は減り始めていた。それでも、施療所が静かになる気配はなかった。
入口の脇に積まれた包帯を避けて中へ入ると、マレクが寝台の間を歩いていた。片方の患者の包帯を確かめ、そのまま隣へ移った。声を掛けた。顔を見た。水差しの残りを確認した。俺に気づいても、手は止めなかった。
「来たか」
「ああ」
「ちょうどいい」
そう言って、一枚の記録板を差し出された。俺はそれを受け取った。木の板に薄い紙が留められていた。呼吸。痛み。食事。水分。時間ごとの変化。見慣れた項目だった。
「記録を頼む」
「誰の?」
マレクが顎で奥を示した。
「窓際の女だ。トーヤ。脚の傷は落ち着いてる。熱もない。だが、日が落ちると呼吸が乱れる」
「痛みで?」
「それだけじゃないらしい」
それ以上は言わなかった。
「まず呼吸を見ろ」
「分かった」
俺は医療鞄から、小さな砂時計を取り出した。マレクはもう次の寝台へ向かっていた。それでよかった。励まされるより、仕事を渡される方が楽だった。
トーヤは四十を少し過ぎたくらいに見えた。右脚には厚く布が巻かれ、膝から下が木の添え板で固定されている。髪は後ろで雑に束ねられ、頬にはまだ擦り傷が残っていた。
俺が近づくと、片目だけを開けた。
「今日は、あなたが見てくれるの?」
「ああ。しばらく様子を見させてもらう」
「そう。じゃあ、お願いするわ」
それだけ言って、また目を閉じた。
俺は寝台の脇に椅子を置き、砂時計をひっくり返した。細い砂が落ち始めた。胸の上下を見た。
一回。
二回。
三回。
少し速い。息を吸うたび、胸の動きが途中で小さく止まる。
「息苦しい?」
「苦しいっていうほどじゃないの」
トーヤは目を閉じたまま答えた。
「なんだか、うまく吸えないだけ」
「胸は痛む?」
「そこは平気。脚の方が痛いわ」
俺は記録板へ書いた。
呼吸、やや浅い。
意識、問題なし。
脚部痛あり。
そこまでは、問題なく書けた。
「少し身体を起こしてみるか?」
「楽になるなら、お願い」
「試してみよう」
上体を起こすため、トーヤの肩と背へ手を添えようとした。
指先が止まった。
濡れた布の感触が、一瞬だけ重なった。
血。
冷えた服。
腕の中から抜けていく重さ。
レン。
息が詰まった。目の前の寝台が、ほんの一瞬だけ西街道の地面に見えた。
次の瞬間には戻っていた。
白い壁。
窓。
午後の光。
トーヤが俺を見ている。
「どうしたの?」
「……いや」
手を下ろした。自分の呼吸が浅くなっていた。
一回。
二回。
俺は砂時計を見た。砂は、何事もなかったように落ち続けていた。
背後で足音が止まった。振り返らなくても、マレクだと分かった。何か言われると思った。けれど、何も聞かれなかった。
その方が助かった。今、何か聞かれても、うまく答えられる気がしなかった。
マレクは寝台脇へ丸めた布を二つ置いた。
「呼吸だけ見てくれ」
それだけ言って、また離れていった。俺はしばらく、その布を見た。それからトーヤへ向き直った。
「もう一度やる」
「今度は大丈夫?」
「たぶん」
トーヤが少しだけ眉を上げた。
「あら、たぶんなの?」
「今は、それしか言えない」
「正直な人ね」
口元がほんの少し動いた。
俺は布を背中へ入れ、上体を少し起こした。今度は手を止めなかった。
「これくらい?」
「もう少しだけお願い」
位置を調整した。肩が上がりすぎないようにした。
「苦しくない?」
「さっきよりは、まし」
砂時計の砂が落ち切った。もう一度、呼吸を数えた。速さは大きく変わっていない。でも、一回ごとの息が少し長くなっていた。俺はそれを書いた。
水差しから少量だけ器へ移した。
「飲めそう?」
「少しなら」
身体を起こしたまま、ゆっくり飲ませた。飲み終えると、トーヤは舌で唇を湿らせた。
「もう大丈夫。ありがとう」
「ああ」
器を戻した。それだけだった。傷が治ったわけでもない。何か特別なことをしたわけでもない。けれど、さっきまで肩へ力が入っていたのが、少しだけ抜けていた。
午後の光が窓から細く差し込んでいた。時間が過ぎるにつれ、それが少しずつ床の上を移動していった。
俺は何度か砂時計を返した。呼吸を数える。水分が取れているか確かめる。痛みを聞く。症状を記録する。同じことを繰り返した。
夕方になる頃、窓の外の色が変わり始めた。明るかった壁が、少しずつ青く沈んでいく。その頃から、トーヤの呼吸がまた速くなった。
「痛い?」
「違うの」
「息苦しい?」
「……それも、違う」
トーヤは天井を見ていた。指先が、掛け布の端をつまんでいる。
「日が落ちるとね」
声が少し小さくなった。
「一人になるのが嫌なの」
俺は答えなかった。
「あの日から」
トーヤが続けた。
「暗くなると、あの鳴き声を思い出すのよ」
そこで言葉を切った。どんな声だったのかは聞かなかった。
「変よね。昼間は平気なのに」
「変じゃない」
「そう?」
「ああ」
トーヤは少し黙った。
「一人になると、怖い」
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
一人は怖い。
昔の病室。
白いシーツ。
皺の深い手。
田中義雄。
でも今は、少しだけ怖くない。
声まで思い出した気がした。残響じゃない。誰かの感情が流れ込んできたわけでもない。俺自身が覚えていた声だった。思い出そうとしたわけでもないのに、頭の中で鮮明に浮かんだ。
「どうしたの?」
トーヤの声で、施療所へ戻った。
「何でもない」
砂時計を見た。砂は半分ほど残っている。
「これが落ちきったら、もう一度呼吸を見る」
「それまでは、ここにいてくれる?」
「ああ」
トーヤは目を閉じた。しばらくすると、また開いた。
「そのあとも?」
今度はすぐに答えられなかった。あの病室でも、俺にできたことは少なかった。
「悪いんだけど……」
トーヤが言った。
「少し、ここにいてくれる?」
俺は椅子を少し寝台へ寄せた。
「分かった」
それだけ答えた。何を話すでもなかった。トーヤは目を閉じている。
俺は砂時計を見た。
落ちる砂。
トーヤの呼吸。
一回。
二回。
三回。
いつの間にか、自分の呼吸も同じくらいの速さになっていた。
施療所の奥では、マレクが誰かに水を飲ませている。器が置かれる音。布を絞る音。誰かの寝返り。夜が近づいても、仕事は終わらなかった。
入口の方で足音がした。振り返ると、フィーナが立っていた。目が合った。
「ソウル」
「どうした?」
「ガルムが、戻るのかって」
「今日は少し遅くなる」
「分かった。伝える」
フィーナはすぐには帰らなかった。視線が俺の横を通り、寝台のトーヤへ移った。
「その人は?」
「脚を怪我してる。今は経過を見てる」
フィーナはトーヤを見た。
「眠ってるのか?」
「いや、まだ眠ってはいないと思う」
俺が答えると、トーヤが目を閉じたまま口を挟んだ。
「起きてるわよ。目を閉じてるだけ」
フィーナが一瞬だけ目を瞬いた。トーヤの口元が少し緩んだ。
「もう少しここにいてって、お願いしたの」
フィーナが俺を見た。長くはなかった。でも、すぐには目を逸らさなかった。
「……そう」
それだけだった。
少しして、フィーナは入口へ向き直った。
「ソウル」
「ん?」
フィーナは何か言いかけて、トーヤを見た。
「……何でもない」
そのまま施療所を出ていった。
一瞬だけ、その背中を見送った。声を掛けたい気持ちはあった。けれど、椅子からは動かなかった。
トーヤの呼吸を、まだ見ていなければならない。今は、ここにいるべきだと思った。
砂時計の最後の砂が落ちた。俺はトーヤの呼吸を数えた。先ほどより、少しゆっくりになっていた。
「トーヤ」
返事はない。胸は静かに上下している。眠っていた。
脚の傷が治ったわけじゃない。明日の夜も怖くなるかもしれない。俺がそばにいたことで、何かが解決したわけでもない。それでも、椅子から立ち上がる気にはならなかった。
少しして、トーヤが薄く目を開けた。
「まだ、いる?」
「ああ」
トーヤは目を閉じて呟いた。
「……ありがとう」
それきり、また眠った。
俺はしばらく寝台の横にいた。
そばにいることに、意味があったのかは分からない。田中さんの時も、レンの時も、答えは出なかった。
トーヤの不安だって、消えたわけじゃない。明日の夜になれば、また怖くなるかもしれない。
トーヤにできたことは、水を渡し、姿勢を整え、呼吸を数えること。ただ、それだけだった。
それでも、その間だけは、トーヤは少し眠れた。
それに大きな意味があったとは、言えない。それでも、無意味だったとは思いたくなかった。
俺は机の端に置いていた記録板を手に取った。次の欄に時刻を書き込んだ。
呼吸、安定。
脚の痛み、変化なし。
休息中。
砂時計をもう一度ひっくり返した。細い砂が、静かに落ち始める。
俺は椅子へ座り直した。
そして、次の呼吸を数え始めた。
Scene35「少しだけ怖くなかった」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
救えなかったことと、そばにいた時間を、無意味だったとして終わらせていいのか。
今回のSceneでは、ソウルがその答えを出せないまま、もう一度、目の前の患者と向き合う姿を描きました。
水を渡す。
姿勢を整える。
呼吸を数える。
そして、そばにいる。
どれも直ぐに傷を癒すものではなく、奇跡を起こすようなことでもありません。
それでも、その時間、トーヤは少し眠ることができました。
意味があったのかは、分からない。
それでも、無意味だったとは思いたくない。
そんな小さなところから、ソウルはもう一度、歩き出そうとします。
その姿を静かに見ていたフィーナは、ソウルに何を感じたのでしょうか?
次回、Scene36「知らないままで」。
思い出せないものを無理に取り戻すのではなく、
知らないままでも、今の自分で相手を知っていけるのか。
第5章は、最後の選択へ向かいます。




