↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第5章 神なき世界の祈り

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/48

Scene 35 少しだけ怖くなかった

救えなかったことと、

何もしなかったことは、きっと同じではない。


答えが出ないままでも、

誰かに寄り添い、見守ることはできる。


これは、失ったものを取り戻す物語ではなく、

もう一度、目の前の誰かに向き合おうとする物語。

 エレナが新しい配置図に最初の線を引いてから、二日が過ぎた。翌日は、工房で西街道から戻された物資の整理を手伝った。施療所には行かなかった。

 行かなかったのか、行けなかったのか、自分でも分からない。

 その次の日の昼過ぎ、マレクから人手が足りないと伝言が来た。断る理由はなかった。医療鞄を肩に掛け、俺は施療所へ向かった。


 扉を開けた時、最初に聞こえたのは咳だった。ひとつではない。奥で誰かが咳き込み、その少しあとに、別の寝台から低いうめき声がした。水を汲む音。布を絞る音。床を急ぐ足音。

 西街道から戻ってきた負傷者は減り始めていた。それでも、施療所が静かになる気配はなかった。


 入口の脇に積まれた包帯を避けて中へ入ると、マレクが寝台の間を歩いていた。片方の患者の包帯を確かめ、そのまま隣へ移った。声を掛けた。顔を見た。水差しの残りを確認した。俺に気づいても、手は止めなかった。

「来たか」

「ああ」

「ちょうどいい」

 そう言って、一枚の記録板を差し出された。俺はそれを受け取った。木の板に薄い紙が留められていた。呼吸。痛み。食事。水分。時間ごとの変化。見慣れた項目だった。

「記録を頼む」

「誰の?」

 マレクが顎で奥を示した。

「窓際の女だ。トーヤ。脚の傷は落ち着いてる。熱もない。だが、日が落ちると呼吸が乱れる」

「痛みで?」

「それだけじゃないらしい」

 それ以上は言わなかった。

「まず呼吸を見ろ」

「分かった」

 俺は医療鞄から、小さな砂時計を取り出した。マレクはもう次の寝台へ向かっていた。それでよかった。励まされるより、仕事を渡される方が楽だった。


 トーヤは四十を少し過ぎたくらいに見えた。右脚には厚く布が巻かれ、膝から下が木の添え板で固定されている。髪は後ろで雑に束ねられ、頬にはまだ擦り傷が残っていた。

 俺が近づくと、片目だけを開けた。

「今日は、あなたが見てくれるの?」

「ああ。しばらく様子を見させてもらう」

「そう。じゃあ、お願いするわ」

 それだけ言って、また目を閉じた。


 俺は寝台の脇に椅子を置き、砂時計をひっくり返した。細い砂が落ち始めた。胸の上下を見た。

 一回。

 二回。

 三回。

 少し速い。息を吸うたび、胸の動きが途中で小さく止まる。

「息苦しい?」

「苦しいっていうほどじゃないの」

 トーヤは目を閉じたまま答えた。

「なんだか、うまく吸えないだけ」

「胸は痛む?」

「そこは平気。脚の方が痛いわ」

 俺は記録板へ書いた。

 呼吸、やや浅い。

 意識、問題なし。

 脚部痛あり。

 そこまでは、問題なく書けた。


「少し身体を起こしてみるか?」

「楽になるなら、お願い」

「試してみよう」

 上体を起こすため、トーヤの肩と背へ手を添えようとした。

 指先が止まった。


 濡れた布の感触が、一瞬だけ重なった。

 血。

 冷えた服。

 腕の中から抜けていく重さ。

 レン。

 息が詰まった。目の前の寝台が、ほんの一瞬だけ西街道の地面に見えた。

 次の瞬間には戻っていた。

 白い壁。

 窓。

 午後の光。


 トーヤが俺を見ている。

「どうしたの?」

「……いや」

 手を下ろした。自分の呼吸が浅くなっていた。

 一回。

 二回。

 俺は砂時計を見た。砂は、何事もなかったように落ち続けていた。


 背後で足音が止まった。振り返らなくても、マレクだと分かった。何か言われると思った。けれど、何も聞かれなかった。

 その方が助かった。今、何か聞かれても、うまく答えられる気がしなかった。

 マレクは寝台脇へ丸めた布を二つ置いた。

「呼吸だけ見てくれ」

 それだけ言って、また離れていった。俺はしばらく、その布を見た。それからトーヤへ向き直った。


「もう一度やる」

「今度は大丈夫?」

「たぶん」

 トーヤが少しだけ眉を上げた。

「あら、たぶんなの?」

「今は、それしか言えない」

「正直な人ね」

 口元がほんの少し動いた。


 俺は布を背中へ入れ、上体を少し起こした。今度は手を止めなかった。

「これくらい?」

「もう少しだけお願い」

 位置を調整した。肩が上がりすぎないようにした。

「苦しくない?」

「さっきよりは、まし」


 砂時計の砂が落ち切った。もう一度、呼吸を数えた。速さは大きく変わっていない。でも、一回ごとの息が少し長くなっていた。俺はそれを書いた。

 水差しから少量だけ器へ移した。

「飲めそう?」

「少しなら」

 身体を起こしたまま、ゆっくり飲ませた。飲み終えると、トーヤは舌で唇を湿らせた。

「もう大丈夫。ありがとう」

「ああ」

 器を戻した。それだけだった。傷が治ったわけでもない。何か特別なことをしたわけでもない。けれど、さっきまで肩へ力が入っていたのが、少しだけ抜けていた。


 午後の光が窓から細く差し込んでいた。時間が過ぎるにつれ、それが少しずつ床の上を移動していった。

 俺は何度か砂時計を返した。呼吸を数える。水分が取れているか確かめる。痛みを聞く。症状を記録する。同じことを繰り返した。


 夕方になる頃、窓の外の色が変わり始めた。明るかった壁が、少しずつ青く沈んでいく。その頃から、トーヤの呼吸がまた速くなった。

「痛い?」

「違うの」

「息苦しい?」

「……それも、違う」

 トーヤは天井を見ていた。指先が、掛け布の端をつまんでいる。


「日が落ちるとね」

 声が少し小さくなった。

「一人になるのが嫌なの」

 俺は答えなかった。

「あの日から」

 トーヤが続けた。

「暗くなると、あの鳴き声を思い出すのよ」

 そこで言葉を切った。どんな声だったのかは聞かなかった。

「変よね。昼間は平気なのに」

「変じゃない」

「そう?」

「ああ」

 トーヤは少し黙った。


「一人になると、怖い」

 その言葉が、胸の奥に引っかかった。

 一人は怖い。

 昔の病室。

 白いシーツ。

 皺の深い手。

 田中義雄。

 でも今は、少しだけ怖くない。

 声まで思い出した気がした。残響じゃない。誰かの感情が流れ込んできたわけでもない。俺自身が覚えていた声だった。思い出そうとしたわけでもないのに、頭の中で鮮明に浮かんだ。


「どうしたの?」

 トーヤの声で、施療所へ戻った。

「何でもない」

 砂時計を見た。砂は半分ほど残っている。


「これが落ちきったら、もう一度呼吸を見る」

「それまでは、ここにいてくれる?」

「ああ」

 トーヤは目を閉じた。しばらくすると、また開いた。

「そのあとも?」

 今度はすぐに答えられなかった。あの病室でも、俺にできたことは少なかった。


「悪いんだけど……」

 トーヤが言った。

「少し、ここにいてくれる?」

 俺は椅子を少し寝台へ寄せた。

「分かった」

 それだけ答えた。何を話すでもなかった。トーヤは目を閉じている。


 俺は砂時計を見た。

 落ちる砂。

 トーヤの呼吸。

 一回。

 二回。

 三回。

 いつの間にか、自分の呼吸も同じくらいの速さになっていた。

 施療所の奥では、マレクが誰かに水を飲ませている。器が置かれる音。布を絞る音。誰かの寝返り。夜が近づいても、仕事は終わらなかった。


 入口の方で足音がした。振り返ると、フィーナが立っていた。目が合った。

「ソウル」

「どうした?」

「ガルムが、戻るのかって」

「今日は少し遅くなる」

「分かった。伝える」


 フィーナはすぐには帰らなかった。視線が俺の横を通り、寝台のトーヤへ移った。

「その人は?」

「脚を怪我してる。今は経過を見てる」

 フィーナはトーヤを見た。

「眠ってるのか?」

「いや、まだ眠ってはいないと思う」

 俺が答えると、トーヤが目を閉じたまま口を挟んだ。

「起きてるわよ。目を閉じてるだけ」

 フィーナが一瞬だけ目を瞬いた。トーヤの口元が少し緩んだ。

「もう少しここにいてって、お願いしたの」

 フィーナが俺を見た。長くはなかった。でも、すぐには目を逸らさなかった。

「……そう」

 それだけだった。


 少しして、フィーナは入口へ向き直った。

「ソウル」

「ん?」

 フィーナは何か言いかけて、トーヤを見た。

「……何でもない」

 そのまま施療所を出ていった。

 一瞬だけ、その背中を見送った。声を掛けたい気持ちはあった。けれど、椅子からは動かなかった。

 トーヤの呼吸を、まだ見ていなければならない。今は、ここにいるべきだと思った。


 砂時計の最後の砂が落ちた。俺はトーヤの呼吸を数えた。先ほどより、少しゆっくりになっていた。

「トーヤ」

 返事はない。胸は静かに上下している。眠っていた。

 脚の傷が治ったわけじゃない。明日の夜も怖くなるかもしれない。俺がそばにいたことで、何かが解決したわけでもない。それでも、椅子から立ち上がる気にはならなかった。


 少しして、トーヤが薄く目を開けた。

「まだ、いる?」

「ああ」

 トーヤは目を閉じて呟いた。

「……ありがとう」

 それきり、また眠った。


 俺はしばらく寝台の横にいた。

 そばにいることに、意味があったのかは分からない。田中さんの時も、レンの時も、答えは出なかった。

 トーヤの不安だって、消えたわけじゃない。明日の夜になれば、また怖くなるかもしれない。


 トーヤにできたことは、水を渡し、姿勢を整え、呼吸を数えること。ただ、それだけだった。

 それでも、その間だけは、トーヤは少し眠れた。

 それに大きな意味があったとは、言えない。それでも、無意味だったとは思いたくなかった。


 俺は机の端に置いていた記録板を手に取った。次の欄に時刻を書き込んだ。

 呼吸、安定。

 脚の痛み、変化なし。

 休息中。


 砂時計をもう一度ひっくり返した。細い砂が、静かに落ち始める。

 俺は椅子へ座り直した。

 そして、次の呼吸を数え始めた。

Scene35「少しだけ怖くなかった」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


救えなかったことと、そばにいた時間を、無意味だったとして終わらせていいのか。

今回のSceneでは、ソウルがその答えを出せないまま、もう一度、目の前の患者と向き合う姿を描きました。


水を渡す。

姿勢を整える。

呼吸を数える。

そして、そばにいる。


どれも直ぐに傷を癒すものではなく、奇跡を起こすようなことでもありません。

それでも、その時間、トーヤは少し眠ることができました。


意味があったのかは、分からない。

それでも、無意味だったとは思いたくない。


そんな小さなところから、ソウルはもう一度、歩き出そうとします。

その姿を静かに見ていたフィーナは、ソウルに何を感じたのでしょうか?


次回、Scene36「知らないままで」。


思い出せないものを無理に取り戻すのではなく、

知らないままでも、今の自分で相手を知っていけるのか。


第5章は、最後の選択へ向かいます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。