Scene 34 必要だったのか
守ろうとして選んだ判断が、
結果として、誰かを守れなかったとき。
正しかったのか。
間違っていたのか。
そして――あの時、本当に必要だったのか。
答えの出ない問いを抱えながら、
それでも次の判断に備え続ける、一人の女性の物語。
リオルが帰ったあとも、なかなか眠れなかった。
工房の二階で横になっても、西街道のことが頭から離れなかった。魔獣。壊れた記憶瓶。カルテスへの照会内容。うつらうつら、考えているうちに外が白み始めた。
翌朝、いつもと同じように街は動き始めた。
俺は、工房を出た。日中は、事件のあとに戻された包帯や水袋、道具の整理を手伝った。壊れたものと、まだ使えるものを分ける。それだけの作業だった。
夕方になって、覚醒派の物資整理所にも西街道から戻された物資が集められていると聞いた。
西街道の配置を決めたエレナが、今どうしているのか気になった。
俺は整理所へ向かった。
覚醒派の物資整理所は、旧倉庫を改装した建物だった。積み上げられた木箱の隙間を、ランプの灯りが細く這っている。麻袋と油紙の匂いが、埃っぽい空気に混じっていた。
奥へ進むと、作業台の前にエレナがいた。机の上には、撤退経路の記された配置図と、任務記録の束が広げられている。
エレナは俺が入ってきたことに気づいていたはずだが、顔を上げなかった。指先が、記録の同じ一行を何度も往復していた。周りに人の気配はなかった。今夜は、彼女一人でここにいるようだった。
「西街道のこと、見直してるのか」
「ああ」
短い返事だった。
俺は机の向かい側まで歩いた。
紙の一枚に、森側とラグナ側、その間を通る街道が描かれている。荷車、救護地点、護衛、伝令。
書き直した配置案では、護衛の位置も退路も何度も動かされていた。荷車の位置にも、消して書き直した跡がある。
けれど、当日の記録に書かれた一つの名前だけは、同じ場所に残っていた。
後方伝令。
レン。
名前を見た瞬間、呼吸が少しだけ浅くなった。
エレナの指が、その名前のすぐ横で止まった。
「ここに置いた」
「前に出すつもりはなかった」
「分かってる」
「戦わせるつもりもなかった」
「ああ」
「比較的安全な後方に置いた」
そこでエレナの声が止まった。
左手が紙の上に置かれている。欠けた薬指の隣で、残った指がわずかに曲がった。
「それでもレンは死んだ」
俺は何も言わなかった。
エレナは別の紙を引き寄せた。
「もっと後ろに置けた」
指先が、配置図のさらに後方へ動いた。
「任務から外すこともできた」
別の印を消すように指を滑らせた。
エレナの指が、後方連絡地点の脇に記された二つの印へ移った。
「それに、魔獣が出た時、私は護衛を前へ出した」
俺は、あの声を覚えていた。
「二人とも前へ出した。ひとりを退路に残すこともできた」
「エレナ」
「違うか?」
初めて、俺を見た。
怒っているようには見えなかった。けれど、いつもの強い目とも違った。
「後方なら、前よりは安全だと思ってた」
「最初は護衛もいた。魔獣のあの回り込みは、誰にも読めなかった」
エレナはしばらく黙っていた。
「……それでも、あそこに置いたのは私だ」
俺は答えに詰まった。
「ひとりを退路に残していたら、前で魔獣を止めきれなかったかもしれない」
「でも、それは仮定だ」
「ああ」
エレナの指が、二つ並んだ護衛の印をなぞった。
「でも、レンが死んだのは事実だ」
否定する言葉は出てこなかった。
部屋の外で、木箱を運ぶ音がした。誰かが短く声を掛け合っている。
ここでは、もう次の仕事が始まっている。
エレナは紙へ目を戻した。
「あの時、私は正しいと思ってた」
「何を?」
「レンを後ろへ置くことを」
指先が、配置図の一点を押さえた。
「十四歳だ。前に出す必要はない。伝令なら後方でも仕事はできる。護衛も残した」
その通りだった。
レンも指示どおり、ラグナ側へ下がろうとしていた。魔獣が護衛を避け、街道脇へ回り込んだ。あの動きは、俺にも読めなかった。
「後方に置くって伝えた時」
エレナがぽつりと言った。
「少しだけ不満そうな顔をした」
俺は黙って続きを待った。
「『前じゃないんですか』って聞いてきた」
レンらしいと思った。
「それで?」
「『お前は十四歳だ。前に出す必要はない』って言った。」
エレナは配置図から目を離さなかった。
「『伝令ならできます』って返してきた」
口元が、ほんの少しだけ揺れた。
「だから言った。『伝令だから後ろだ』って」
しばらく沈黙が落ちた。
「レンは?」
「口を尖らせた」
その姿が、簡単に想像できた。
「でも最後は、鞄の紐を握り直して、『分かりました』って」
エレナは、そこで口を閉じた。
配置図の上で、レンの名前は動かなかった。
「間違ってたのか」
エレナが聞いた。
俺はすぐには答えなかった。
「結果だけ見れば、そう言いたくなる」
エレナの指が、配置図の上で止まった。
「結果が全てだろ」
「俺も、そう思いたくなる時がある」
エレナが顔を上げた。
「前の世界で、助からなかった患者はいる」
口にすると、白いシーツと、消毒液の匂いが少しだけ戻った。
終わってからなら、できなかったことはいくらでも見つかった。
もっと早く家族を呼べばよかった。
もっと話を聞けばよかった。
「助からなかったら、その前にやったことまで全部間違いだったのかって、俺も何度も考えた」
「……答えは出たのか」
「出てない」
俺は配置図を見た。
「終わったあとなら、選ばなかった方はいくらでも正しく見える」
一度、息を吐いた。
「でも、その時の俺には、その時に見えていたものしかなかった」
エレナは黙っていた。
「だから、その時の私の判断は最善だったというのか。正しかったと?」
「それも分からない」
俺は答えた。
「正しかったことにしたら、たぶん何も見なくなる」
「……じゃあ、何を見ればいい」
「次に同じことが起きた時、何を変えられるか」
エレナは動かなかった。
机の上には、何度も書き直された配置図がある。
「次?」
「ああ」
「また誰かを配置しろって?」
「そうなる」
「また誰かを危険な場所に置く」
「たぶん」
「また間違えるかもしれない」
「それでも、誰かが決めなきゃいけない」
エレナの唇がわずかに歪んだ。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから言ってる」
声が少し強くなった。
俺も、言ってから息を吐いた。
「俺には指揮はできない。でも、選ばなきゃいけない時があるのは分かる」
エレナは何も言わなかった。
しばらくして、配置図を引き寄せた。
「後方にも退避先を決める」
紙の余白に、短く書き込んだ。
「街道脇への回り込みも、最初から警戒に入れる」
もう一本、線を引いた。
「それで次は誰も死なない?」
「分からない」
俺は答えた。
エレナは小さく息を吐いた。
「……そうだな」
少しして、古い任務記録を一枚持ち上げた。
そこには、西街道へ向かった人間の名前が並んでいる。
エレナの目が、その途中で止まった。
「前は……」
声が少し低くなった。
「何かを守るためなら、犠牲が出ることもあるって思ってた」
俺は黙っていた。
「必要な犠牲だったって言えば、次へ進めた」
紙を持つ指が震えた。
「そう言わないと、止まるから」
強くもなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、初めて聞く声だった。
「でも……」
エレナは続けようとして、やめた。
任務記録の中にある名前を見ていた。
レン。
ただ、それだけの文字だった。
「十四歳だった」
エレナが言った。
「分かってた。子どもだって」
紙を持つ指に、もう一度力が入った。
「だから後ろに置いた」
一度、息を止めた。
「守るつもりだった」
胸の奥が、鈍く痛んだ。
あの後方連絡地点で、レンは水袋を運んでいた。
頼まれた仕事をしていただけだった。
「それでも死んだ」
エレナはもう一度言った。
最初に聞いた時より、ずっと小さな声だった。
それから、長い間、何も言わなかった。
「……必要だったのか」
俺には答えられなかった。
必要だったとも。
必要じゃなかったとも。
あの時、誰もレンを死なせるためにそこへ置いたわけじゃない。
でも、死んだ。
その二つを、都合よく一つにまとめる言葉を俺は持っていなかった。
「分からない」
俺は言った。
エレナが小さく息を吐いた。
「お前、そればっかりだな」
「最近は特に多くなったと思うよ」
ほんの少しだけ、エレナの口元が動いた。笑ったわけではなかった。
エレナは、配置図の余白に、次の二行を書き足した。
後方の退避先を決める。
街道脇からの回り込みを警戒する。
それから、古い任務記録を閉じた。
紙が重なる、小さな音がした。
「必要だった、とは……」
そこで言葉が止まった。
閉じた記録の上に置いた指が、動かなかった。
頬を、一筋だけ涙が伝った。
エレナは拭わなかった。
俺も、何も言わなかった。
ランプの灯りが、その一筋を短く照らした。
しばらくして、エレナは表情を変えないまま、閉じた記録を脇へ置いた。
新しい配置図を手元へ引き寄せた。
「次の配置を考える」
「ああ」
俺はそれだけ返した。
レンが戻るわけじゃない。
あの日の判断に、答えが出たわけでもない。
それでも、エレナはもう一度ペンを持った。
閉じた任務記録の隣で、新しい紙に最初の線を引いた。
Scene34「必要だったのか」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
守るために選んだ判断が、必ず誰かを守れるとは限らない。
あとから振り返れば、別の道はいくらでも見えてきます。
それでも、その時に見えていたもの、その時に選べたものの中で、人は判断し続けなければならない。
今回、エレナは「必要な犠牲」という言葉の前で立ち止まりました。
けれど、立ち止まったままでは終わりません。
悲しみも、迷いも、答えの出なさも抱えたまま、次の配置図へ向き合う。
その姿を書きたかったSceneです。
次回、Scene35「少しだけ怖くなかった」。
失ったものは戻らなくても、
人はもう一度、誰かのそばに立てるのか。
まだ答えの見えないまま、物語は次の朝へ向かいます。




