Scene 33 答えのない夜
祈れば、何かが変わるのか。
答えがなくても、人は誰かを想い、灯りを残す。
失ったものは戻らない。
失ったものがなぜ失われたのかを問いかける夜がある。
止まった時計と、残された灯り。
そして、遠くに浮かぶカルテスという名。
これは、答えのないまま、それでも問いを抱えて夜を越える者たちの物語。
工房の灯りは、まだ消えていなかった。夜になっても、壁のあちこちで時計が音を立てている。速さも、響きも、それぞれ違う。作業台の小さなランプの下で、ガルムは細い工具を手にしたまま動かなかった。手は止まっているのに、椅子から立つ気配もなかった。
レンの伝令鞄は、寝台の脇に置いたままにしていた。今夜はもう、それに触れる気になれなかった。目を閉じると、墓標の白さと、鞄の中から出てきた紙が浮かぶ。小麦粉。塩。薪。もう一回計算する。明日が来るつもりで書かれた文字だった。俺は眠るのを諦めた。
顔を上げると、作業台にガルムの姿はなかった。いつ席を立ったのか、気づかなかった。工房の奥から、二階へ続く階段を上った。木の段が一段ごとに軋んだ。外へ出る扉を押し開けると、夜風が首筋を撫でた。ガルムは先にそこにいた。低い手すりに片肘を置き、ラグナの街を見下ろしている。
「眠れないのか」
ガルムが先に言った。
「そっちこそ」
「歳を取ると、眠りが短くなる」
軽口のようで、そうでもなかった。俺は隣ではなく、少し離れた場所に立った。
無数の星が瞬いていた。何の感慨もなく、俺はぼんやりと見つめた。しばらくして、視線を街へ落とした。下には、ラグナの灯りが点々と続いている。昼間はあれほど近く感じた墓地も、今は暗がりに紛れて見えなかった。遠くで、どこかの家の戸が閉まる音がした。街は今日も、普通に一日を終えようとしていた。レンがいなくても、時間だけは律儀に進んでいく。
墓の前では、ほとんど何も言えなかった。あれからずっと、頭の隅に残っている問いがあった。
「ガルム」
「何だ」
「この世界では、死んだ人に何を祈るんだ?」
すぐには返事がなかった。
「安らかに、とか。向こうで苦しまないように、と祈る奴もいる」
「向こう?」
「そう思いたい奴もいるってことだ」
「神に祈るのか」
「そうする奴もいる」
「いなくなった神に?」
「それでも祈る奴はいる」
俺は少し考えた。
「ガルムは?」
「俺か」
「もう長いこと、祈ってない」
「昔は祈ってたのか?」
「……昔はな」
それ以上は続かなかった。
前の世界でも、病室の隅で手を合わせる家族を何度も見た。治ってほしい。苦しまないでほしい。あと一日だけでも。祈ることで、何かが変わるのか。何度考えても、俺には分からなかった。それでも、その祈りを無意味だとは思えなかった。
視線を落とすと、通りの角に人影があった。年老いた男だった。片手に小さな灯りを持ち、石壁の根元へしゃがみ込む。男は灯りをそっと置くと、その前でしばらく頭を下げた。誰かと話しているようには見えない。祈りの言葉も、ここまでは聞こえなかった。やがて男は立ち上がり、灯りだけを残して歩いていった。
「あれも、祈りなのか」
ガルムが下を見た。
「さあな」
「毎晩やってるのか」
「ああ」
「誰のために?」
「女房だ。三年前に死んだ」
小さな灯りが、風に揺れていた。
「神に祈ってるのかな」
「本人に聞け」
ガルムはそれだけ言った。
俺はもう一度、通りを見下ろした。老人の姿はもうなかった。石壁のそばで、小さな灯りだけが風に揺れていた。
「神がいた頃は、違ったのか」
自分でも、なぜそう聞いたのか分からなかった。ガルムはすぐには答えなかった。手すりに置いた指が、わずかに曲がった。
「さあな」
「知らないのか」
「見ていたことと、分かっていることは違う」
その言い方には、誰かから聞いただけではない重みがあった。俺はガルムの横顔を見た。彼は街ではなく、もっと遠い何かを見ているようだった。
「俺はな」
そこで一度、言葉が切れた。
「神は、人間に絶望したんじゃないかと……ずっと、そう思ってきた」
断定ではなかった。長く抱えてきた考えを、ようやく外へ出したような声だった。
「絶望したから、いなくなった?」
「分からん」
ガルムはそれだけ言った。
分かったふりをする方が、失礼な気がした。俺も、それ以上は聞かなかった。
しばらくして、ガルムが胸元へ手を入れた。取り出したのは、小さな懐中時計だった。古い銀色の蓋。表面は曇り、縁には細かな傷がいくつも走っている。蓋が開いた。針は、動いていなかった。
「まだ、そのままなんだな」
「ああ」
「直さないのか」
ガルムはしばらく時計を見ていた。
「直すつもりはない」
「いつから止まってる?」
「神が消えた頃からだ」
それ以上は言わなかった。ガルムは時計を閉じず、動かない針をしばらく見ていた。
五百年という時間を、俺はまだうまく想像できなかった。自分の三十二年ですら、時々持て余す。五百年なら、どれほどの名前を覚え、どれほどの顔を見送り、どれほどのことを忘れるのだろう。ただ、目の前の男が、何か理由があって、その止まった時計を今も持っている。そのことだけは分かった。
「レンが、一度だけ、この時計を覗き込んだことがある」
ガルムがぽつりと言った。
「その時計を?」
「ああ。俺が見てたら、横から覗き込んできた」
「何かあると思ったのか」
「さあな。気にはなったんだろう」
思わず、レンの顔が浮かんだ。気になるものを見つけると、すぐ顔に出るやつだった。
「時計について何か話したのか」
「何も」
ガルムは蓋を閉じた。かちり、と小さな音がした。指先が、閉じた蓋の上を一度だけ撫でた。
「その時計が止まった頃のことを知ってる人は、他にもいるのか」
ガルムは少し間を置いた。
「……アシュなら、何か知ってるかもしれん。記録も持ってるはずだ」
名前を口にした時だけ、声の底に苦い響きが混じった。それが何なのか、俺にはまだ分からなかった。
「知り合いなのか」
「昔、少しな」
ガルムは懐中時計を胸元へ戻した。そこで話は終わった。
翌朝、街は何事もなかったように動き出した。荷車が石畳を走り、市場から呼び声が聞こえる。俺は施療所へ顔を出し、記録の整理と包帯の補充を手伝った。ガルムは工房へ戻り、いつものように時計を作業台へ置き、工具を手にした。昨日と変わらない一日だった。答えの出ないまま、時間だけが過ぎていった。
その日の夜。工房の戸を叩く音がした。三度。間を空けずに。
俺が扉を開けると、リオルが立っていた。神殿の外套を羽織ったまま、脇に何枚かの書類を抱えている。顔には隠しきれない疲れがあった。
「遅くにすまない」
「何かあったのか」
「確認したいことがある」
前置きはなかった。
ガルムを呼び、三人で作業台を囲んだ。リオルが報告書を広げる。細かな文字が几帳面に並んでいた。同じ行を何度も書き直した跡がある。指先には、薄くインクが染みていた。
「西街道の正式報告をまとめている」
リオルは二枚の記録を並べた。
「確認したいことが二つある」
指先が、一枚目の紙を押さえる。
「まず、記憶瓶だ。現場で破損したと記録された数と、輸送側が申告している破損数が合わない」
「数え間違いじゃないのか」
「その可能性はある。襲撃の最中だった。現場の記録が乱れていても不思議じゃない」
リオルは否定しなかった。それなら、ただの記録ミスで終わる話かもしれない。だが、リオルはもう一枚の紙をこちらへ向けた。
「問題は、こっちだ」
「何が?」
「現場報告には、異常魔獣の傷口に淡い光が見えたという記述が複数残っている」
「ああ。俺も見た」
あの街道が浮かんだ。割れた箱。土の上に散った記憶瓶の破片。そして、魔獣の傷口の周囲に滲んでいた淡い光。よく似た光だった。
リオルが頷いた。
「俺も確認している。だが、中央へ提出する正式報告には、その発光を記す欄がない」
「じゃあ、そのことは中央には伝わらないのか」
「このまま出せば、そうなる可能性がある」
俺は二枚の紙を見比べた。
「記憶瓶が壊れた。その近くで、普通じゃない魔獣が出た」
「ああ」
「二つに関係があるかもしれない?」
「分からない」
リオルはすぐに答えた。
「偶然かもしれない。破損した記憶瓶が何か影響したのかもしれない。誰かが何かをした可能性だってある。だが、今の記録だけでは、どれとも決められない」
「でも、このままだと――」
「発光の記録が正式報告に残らない。破損数の食い違いも、襲撃時の混乱として処理されるかもしれない」
リオルの指が、報告書の端を強く押さえた。
「そうなれば、後から調べようとしても、二つを結びつけて調べる理由そのものが残らない」
胸の奥がざらついた。
「誰かが隠してるのか」
「そこまでは言えない」
リオルは首を振った。
「報告の様式に項目がないだけかもしれない。記録ミスかもしれない。途中で情報が落ちただけかもしれない」
一度、言葉を切る。
「意図的に外された可能性も、今の段階では否定できない」
どれかに決めつけようとはしなかった。だからこそ、余計に気になった。
「だから、確認する?」
「ああ」
リオルは二枚の紙を重ねた。
「ラグナには、輸送記録の原本が揃っていない。過去に同じような発光が報告されているかどうかも、ここでは照合できない」
「どこなら分かる」
「ヴェスタ中央神殿を経由して、カルテスへ正式照会を上げる」
「カルテス……」
聞いたことのある名だった。けれど、俺の中ではまだ、地図の向こうにある場所でしかない。
「何を調べるんだ」
「西街道を通った記憶瓶の輸送記録。過去の破損事故。それから、異常魔獣について残っている報告だ」
「そこで、二つがつながるか確かめる?」
「まずはな」
リオルは頷いた。
「記憶瓶が魔獣に何かしたのか。もともと魔獣に異常があったのか。それとも、まったく別の原因なのか。それすら今は分からない」
リオルはそこで言葉を切った。
「だから、記録を確かめる」
何が起きていたのか。まだ、何も分かっていない。レンが死んだ。だからこそ、分からないままにしておきたくなかった。このまま確かめずに終われば、いつか後悔する気がした。
「カルテスに照会すれば、答えが出るのか」
リオルはすぐには頷かなかった。
「答えがあるかは分からない」
紙を揃える指が止まる。
「だが、確認すべき記録はある。確認すべき人間もいる」
その言葉に、ガルムが一度だけ目を上げた。
さっき聞いた名が浮かんだ。アシュ。
ガルムは何も言わなかった。
「明朝、正式に照会を上げる」
「返答はいつ頃になる?」
「すぐには来ない。ヴェスタ中央を通す。カルテスで照合が必要なら、もっと時間がかかる」
「そうか」
リオルは書類を束ねた。
帰りかけて、ガルムが口を開いた。
「リオル」
「何だ」
「気をつけろよ」
リオルが振り返った。
「ああ」
それだけ答え、扉を開けた。夜気が一瞬だけ工房へ入り込む。
扉が閉じると、また時計の音だけが残った。いくつもの針が、それぞれの速さで進んでいる。
俺は窓の外を見た。昨夜、老人が小さな灯りを置いていた場所に、今夜も光があった。三年前に死んだ妻のための灯り。祈っているのかどうかは、分からない。誰に向けているのかも、俺には分からない。それでも、老人は今夜もそこへ灯りを置いた。俺は窓から目を離した。
工房の壁では、いくつもの時計が時を刻んでいた。ガルムの胸元にある時計だけが、五百年前から止まっている。なぜ、ガルムが今も持っているのか。神は、本当に人間に絶望したのか。西街道の魔獣と、壊れた記憶瓶に関係があるのか。何一つ、答えは出ていない。カルテスへ行けば、すべて分かる。そういう話でもなかった。ここにいるだけでは確かめられないことがある。そこだけは、はっきりしていた。
窓の向こうで、小さな灯りが風に揺れた。
カルテスに答えがあるかは分からない。
その名だけが、しばらく頭から離れなかった。
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
Scene33「答えのない夜」では、祈り、失われたもの、そして分からないまま残る事実を描きました。
ガルムの止まった時計。
毎夜残される小さな灯り。
西街道で起きた異常と、カルテスへつながる記録。
答えが出たわけではありません。
ただ、分からないことをそのままにしておけない夜もあるのだと思います。
次回、Scene34「必要だったのか」。
失われたものを前にしたとき、残された者は何を問い、何を引き受けるのか。
答えのない問いを抱えたまま、ソウルは少しずつ歩き始めます。




