Scene38 救いたかった男
人を救いたいと願うほど、
選ばなければならないものが増えていく。
正しさと救いのあいだで、
同じ願いを抱いた二人が、今対峙する。
これは、救うことの重さを知る者たちの物語。
朝の鐘は、三つ鳴って、止んだ。昨日の昼に聞いた鐘より短かった。
宿舎の窓の外で、通りの音が一斉に動き出した。荷車の車輪、水場の桶、どこかで戸を開ける音。昨日と同じ街が、昨日と同じ順番で目を覚ましていた。
宿舎の前には、もう案内の神官が立っていた。昨日の若い神官だった。俺たちが出ていくと、慌てて背筋を伸ばした。
「おはようございます。……少し、早く来すぎました」
「いつから待ってた」
エレナが聞いた。
「鐘の前からです」
神官は、少し照れたように笑った。
リオルが書類鞄を肩に掛け直した。紐が掛かっていた。結び目は、一つだった。
エレナの目が、そこで一度止まった。
「一つか」
「……学んだ」
「人は成長するものだな」
「うるさい」
リオルは前を向いたまま答えた。エレナの口の端が、ほんの少しだけ上がった。
ガルムは、昨夜からほとんど口をきいていなかった。朝食のパンも、半分ほど残していた。誰も、そのことには触れなかった。
昨日の坂を、上っていった。
広場の脇を過ぎると、配給所の鍋からもう湯気が上がっていた。施療院の入口にも、列ができ始めている。
坂を上るほど、音が一つずつ減っていった。荷車の音が遠くなり、呼び声が聞こえなくなり、鍋の触れ合う音も消えた。最後には、自分たちの足音だけが残った。
白い壁が近づいてきた。昨日は輪郭でしかなかったものが、近くで見ると、一つ一つ積まれた石だった。
門の前で、若い神官が足を止めた。
「私がご案内できるのは、ここまでです」
そう言ってから、少し声を落とした。
「……私も、この先には入ったことがないので」
フィーナが神官を見た。
「一度も?」
「一度もです」
神官は困ったように笑い、門の内側から出てきた年配の神官へ頭を下げた。俺たちにも、もう一度頭を下げた。
「お気をつけて」
何に気をつけろという意味なのか、たぶん本人にも分かっていなかった。
年配の神官は、ほとんど話さなかった。名前も名乗らず、「こちらへ」とだけ言って歩き出した。足音がしなかった。
回廊は長かった。白い石の床に、高い窓から光が落ちている。壁には絵も像もほとんどなかった。豪華ではない。けれど、どこにも汚れがなかった。
しばらく歩いて、気づいた。
匂いがしない。
昨日の街には、湯で煮た布の匂いがあった。薬草の匂いも、パンの匂いもあった。ここには、石と光しかなかった。
前を歩くガルムは、一度も周りを見回さなかった。右へ曲がる時も、年配の神官より半歩早く身体が向いた。短い階段の手前では、足を上げる高さまで知っているようだった。
回廊の角で、ガルムは一度だけ壁に目をやった。何もない壁だった。少なくとも、俺には何もないように見えた。
昨日の水場と同じだった。初めて来た場所を歩く人間には、見えなかった。
扉の前で、年配の神官が立ち止まった。
扉が開いた。
玉座のようなものは、なかった。
「こちらは、会談室です」
長い机と、同じ高さの椅子が並んでいた。壁には記録棚があり、背の揃った帳面がぎっしりと詰まっていた。正面には大きな窓がある。壁際に神官が二人、黙って立っていた。
机の端に、小さな瓶が一本だけ置かれていた。淡い光を含んだ、記憶の瓶だった。
窓の外に、街が広がっていた。坂の下に、昨日の広場が見えた。配給所の湯気が、白く細く上がっている。列があるのも分かった。施療院の入口を出入りする人の流れも見えた。
けれど、ここからでは顔が分からなかった。
窓の前に、白い祭服の男が立っていた。男は、ゆっくりとこちらを振り返った。
四十代前半から半ばくらいに見えた。白に近い銀の髪を整えた、細身の男だった。穏やかな顔をしている。目の下には、薄い影があった。寝不足というより、長年の疲れが染みついているように見えた。右手の中指の内側に、インクの染みがあった。
男は椅子には座らず、立ったまま俺たちを迎えた。
誰も紹介しなかった。それでも、この部屋の中心が誰なのかは分かった。男が一歩前へ出るより先に、壁際の神官が半歩下がったからだ。
「アシュ・カルテアです。遠いところを、よく来てくださいました」
声は静かで、丁寧だった。昨日、門の書記に言われた「お疲れさまでした」と、同じ温度の声だった。
アシュは、机の上の帳面には目を落とさず、俺たちを順に見た。
「リオルさん。ラグナ詰所の報告は、読みました。現場を知る人の記録でした」
リオルは、わずかに顎を引いた。
「……恐れ入ります」
「エレナ・ドーンさん」
「私がエレナだ」
エレナは短く言った。アシュは、一度だけ頷いた。
「フィーナ・アルセンさん」
フィーナの指が、レイピアの鞘に掛けられた封印紐に触れた。一度だけだった。それから手は、外套の前へ戻った。
「ソウルさん」
名前を呼ばれた。帳面も見ずに、迷いもなく。
それから、アシュの目がガルムへ移った。
口が、わずかに開いた。
音にはならなかった。
一呼吸の間、アシュはガルムの顔を見ていた。
その一瞬だけ、最高司祭の顔から、役職が消えた。
それから何も言わずに、軽く頭を下げた。
ガルムの右手が、胸の前で止まった。昨日、鐘が鳴った時と同じ動きだった。けれど今度は、そのまま外套の上から、懐中時計のある場所に触れた。
二人とも、何も言わなかった。
アシュは、俺たち四人の名前を迷わず呼んだ。だが、五人目のガルムとは目を合わせ、頭を下げただけだった。
――昔の知り合い。
ガルムが言っていた言葉が、頭に浮かんだ。
二人の間に何があるのかは、まだ分からなかった。ただ、俺の知っている人の一生では測れないほど長い時間が、机一つ分の距離を挟んで、二人の間にあった。
「お掛けください」
アシュはそう言って、自分も俺たちと同じ椅子に座った。
最初に話したのは、リオルだった。
「ヴェスタからの照会の件、改めてご説明します」
公務の声だった。書類鞄から紙の束を出し、一つずつ机に並べていく。異常魔獣の記録。西街道の正式報告。回収された記憶媒体の一覧。残響感応と記憶汚染についての照会。
リオルの説明は短かった。必要なことだけを言い、余計なことは言わなかった。
「以上の照合のため、カルテス側の回答に基づき、当事者が同行しております」
「ええ」
アシュは頷いた。
「招いたのではありません。来ていただいた。そう理解しています」
来ると決めたのは、俺たちだった。アシュも、そのことを同じように受け取っていた。
リオルは一礼して席に戻った。それから先は、必要な時以外、口を挟まなかった。
アシュは、窓の方へ顔を向けた。
「昨日、あの広場を通られたでしょう」
俺は窓の外を見た。坂の下で、湯気が上がっていた。
「施療院も、配給も、記録がなければ回りません。誰が何を必要としているか。どこに何が残っているか。誰を先に診るべきか」
アシュの声は、昨日の配給所の職員とあまり変わらなかった。説いて聞かせる声ではなく、事実を一つずつ置いていく声だった。
「百年以上前、南の港町で熱病が出ました」
アシュは、机の上で指を組んだ。
「最初に倒れたのは船乗りでした。咳が出始める日。熱の上がり方。効いた手当てと、効かなかった手当て。最後まで看ていた施療者が、それを記憶ごと残しました」
「記憶ごと」
俺が繰り返すと、アシュは頷いた。
「紙にも残しました。けれど紙には、熱に浮かされた人の顔色までは書けません」
それは、理解できた。
施療所で、俺も記録を書いてきた。何時に熱が上がったか。何を飲ませたか。呼吸がどう変わったか。書いても、紙に残らないものがあった。顔色。声の張り。手を握った時の、指の冷たさ。
「数十年後、同じ熱が北の町で出ました。その記憶を使った施療者が、三日で町の出入りを止めました。亡くなった人は、以前より大きく減りました」
数字だけ見れば、それだけだった。
けれど、その減った分だけ、生き残った人がいた。
「秩序がなければ、救えるものも救えなくなります」
アシュは、何度も確かめてきた答えを口にするように言った。
「神が消えた後の混乱の中で、私は育ちました」
それ以上は、何も言わなかった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
エレナは窓ではなく、アシュを見ていた。
「旧市場区で、人から記憶を奪い、記憶帳まで取り上げていたのも、あんたの神殿だ」
低い声だった。
アシュは、エレナから目を逸らさなかった。
「ええ」
短い返事だった。アシュは、そのまま言葉を継いだ。
「最高司祭として、責任から逃げるつもりはありません」
「……認めるんだな」
「認めなければ、なかったことになるでしょうか」
「ならない」
「私も、そう思います」
エレナの手が、膝の上で握られた。しばらくそのままだった。やがて、ゆっくりとほどかれた。
エレナは、それ以上何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「記録を残すためなら、本人が記憶を失ってもいいんですか」
考えるより先に、俺は口を開いていた。自分でも、思ったより強い声が出ていた。
「いいえ」
即答だった。
「本人の同意なしに失わせてよいとは、考えていません」
「でも、実際には――」
アシュは、俺の言葉の続きを待たなかった。
「西街道の報告に、救護の順番を決めた者がいた、とありました」
静かな声だった。
「あなたですね」
手のひらが、熱くなった。
あの日の血の感触が戻ってくる。土の上に寝かされた負傷者。呼吸の浅い騎士。脚の折れた若い騎士。
この人は、まだ待てる。
先に、呼吸がおかしい人を運ぶ。
そう言ったのは、俺だった。
「……はい」
「待てる人を待たせ、待てない人を先に運んだ。正しい判断です」
アシュは、少しだけ間を置いた。
「私は、それを五百年続けてきました」
息が、止まった。
順番を決めた。決めなければ、もっと死んでいた。
あの日は、一日だけだった。
それを一年。十年。百年。五百年。
救えなかった人も、年月とともに増えていく。それでも、次の朝にはまた順番を決める。誰を待たせるか。誰を先に運ぶか。その判断を、何度も繰り返す。
その先で、俺は今の俺のままでいられるのか。
言い切れなかった。
喉の奥が、乾いていく。膝の上で、指が勝手に握られていた。
病棟で見送った人たちの顔が浮かんだ。西街道の土の色が浮かんだ。間に合わなかった、あの日の重さが浮かんだ。
もし俺が、五百年生きたならば。
この人と違う場所に立っていると、俺は言えるのか。
「ソウル」
横を見る。
フィーナは俺ではなく、握りしめた俺の手を見ていた。
「手」
「……あ」
力を抜いた。掌に、爪の跡が残っていた。
フィーナはそれ以上何も言わなかった。けれど、その短い言葉で、俺は今いる部屋へ戻ってきた。
アシュは、俺から目を逸らさなかった。
「私は、人を救いたかった」
一度だけだった。
救いたかった。
過去の言葉だった。そのことに気づいた。気づいただけで、その意味までは分からなかった。
俺は、何も返せなかった。
窓の外で、湯気が揺れていた。
坂の下の広場に、列が続いている。昨日、あの列のそばで、俺は並んでいる人たちの呼吸を見ていた。誰が苦しそうか。誰が先に診てもらうべきか。
ここからは、それが見えなかった。
ふと、別の部屋を思い出した。白いカーテン。点滴の落ちる音。ベッドの横に置いた丸椅子。
病室で、何度か口にした問いがあった。答えを求めて聞いたことは、一度もなかった。
「あなたは、今、幸せですか」
気づけば、俺はそう訊いていた。
部屋の空気が、止まった。
壁際の神官の一人が、わずかに目を上げた。リオルの肩が動いた。エレナが、こちらを見た。
アシュは、答えなかった。
机の端に置かれた記憶の瓶へ、指が伸びた。触れた。一度だけだった。
「……長く生きていると」
アシュの指は、まだ瓶に触れたままだった。
「何を幸せと呼んでいたのか、時々、分からなくなります」
指が、瓶から離れた。
「記録と技術を見てから、判断してください」
アシュは、穏やかな声のまま言った。
「明日、上層の保管施設へご案内します。あなたの記憶にも、確かめたいことがあります」
それが答えだったのか、答えではなかったのか、俺には分からなかった。
会談は、それで終わった。
椅子を立つ音が、白い部屋に小さく響いた。
ガルムは、最後に立った。座っていた椅子を両手で持ち、元の位置へ戻した。脚の向きまで揃えていた。工房で、使い終えた工具を棚へ戻す時と同じ手つきだった。
アシュは、その手を見ていた。
ガルムは振り返らなかった。アシュも、その背中を呼び止めなかった。
やがて、二人を隔てるように扉が閉じた。
俺たちは、誰も口を開かないまま回廊を戻った。
足音だけが響いていた。年配の神官は先を歩き、こちらを振り返らなかった。
俺は、ガルムの横に並んだ。
「昔の知り合いって」
ガルムは前を見たまま答えた。
「古い顔だ」
それだけだった。それ以上は、聞けなかった。
少し後ろで、紙をめくる音がした。
フィーナが歩きながら記憶帳を開き、何か書いていた。覗き込むと、短い一行が見えた。
アシュ。歳、たくさん。
ガルムが横目でそれを見た。
「……それも書くのか」
「見たまま」
フィーナはそう言って、記憶帳を閉じなかった。
ガルムは小さく息を吐き、それ以上は何も言わなかった。
前を歩くエレナの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
リオルが、小さく咳払いをした。
俺も、ゆっくり息を吐いた。
フィーナの記憶帳に「ガルム。歳、たくさん」と「アシュ。歳、たくさん」が同じ書き方で並んでいるのが、妙に頭に残った。
「あの人は、俺と同じことを言っていた」
気づいた時には、口に出していた。
俺は、フィーナを見て続けた。
「救いたかっただけなんだ」
フィーナは、すぐには答えなかった。記憶帳をもう一度見て、それから閉じた。
「同じじゃない」
「……何が」
「私が見たあなたは、人の隣にいた」
前を見たまま、フィーナは言った。
「あの人は、人を上から動かした」
昨日の広場で人のそばにいた俺と、今日、高い窓から人々を見ていたアシュ。フィーナは、その両方を見ていた。
先ほど、俺はあの人の言葉に頷きかけていた。
フィーナに言われなければ、そのまま受け入れていたかもしれない。
回廊の高い窓から、もう一度、坂の下の広場が見えた。
湯気は見えた。列も見えた。
けれども、ここからは、だれの呼吸も見えなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Scene38「救いたかった男」では、ソウルとアシュが初めて真正面から向き合いました。
人を救いたい。
その願いは同じでも、長い時間の中で選び続けた先に、二人は違う場所に立っています。
アシュの言葉を、ソウルは簡単には否定できません。
だからこそ、フィーナの「同じじゃない」という一言が、今回のSceneを締める、大切な一言となりました。
次回、Scene39「記憶保管庫」
神殿が積み重ねてきた記録と技術。
そこでソウルたちは、記憶を残すことの価値と、その裏側にある危うさをさらに目にします。
誰かの記憶を残し、受け継ぐことは、人を救うことなのか。
それとも、その人自身を変えてしまうことなのか。
答えは、記憶保管庫の奥に眠っている。
次回をお楽しみに!




