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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第6章 選択の重さ

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Scene38 救いたかった男

人を救いたいと願うほど、

選ばなければならないものが増えていく。


正しさと救いのあいだで、

同じ願いを抱いた二人が、今対峙する。


これは、救うことの重さを知る者たちの物語。

 朝の鐘は、三つ鳴って、止んだ。昨日の昼に聞いた鐘より短かった。

 宿舎の窓の外で、通りの音が一斉に動き出した。荷車の車輪、水場の桶、どこかで戸を開ける音。昨日と同じ街が、昨日と同じ順番で目を覚ましていた。

 宿舎の前には、もう案内の神官が立っていた。昨日の若い神官だった。俺たちが出ていくと、慌てて背筋を伸ばした。

「おはようございます。……少し、早く来すぎました」

「いつから待ってた」

 エレナが聞いた。

「鐘の前からです」

 神官は、少し照れたように笑った。

 リオルが書類鞄を肩に掛け直した。紐が掛かっていた。結び目は、一つだった。

 エレナの目が、そこで一度止まった。

「一つか」

「……学んだ」

「人は成長するものだな」

「うるさい」

 リオルは前を向いたまま答えた。エレナの口の端が、ほんの少しだけ上がった。

 ガルムは、昨夜からほとんど口をきいていなかった。朝食のパンも、半分ほど残していた。誰も、そのことには触れなかった。


 昨日の坂を、上っていった。

 広場の脇を過ぎると、配給所の鍋からもう湯気が上がっていた。施療院の入口にも、列ができ始めている。

 坂を上るほど、音が一つずつ減っていった。荷車の音が遠くなり、呼び声が聞こえなくなり、鍋の触れ合う音も消えた。最後には、自分たちの足音だけが残った。

 白い壁が近づいてきた。昨日は輪郭でしかなかったものが、近くで見ると、一つ一つ積まれた石だった。

 門の前で、若い神官が足を止めた。

「私がご案内できるのは、ここまでです」

 そう言ってから、少し声を落とした。

「……私も、この先には入ったことがないので」

 フィーナが神官を見た。

「一度も?」

「一度もです」

 神官は困ったように笑い、門の内側から出てきた年配の神官へ頭を下げた。俺たちにも、もう一度頭を下げた。

「お気をつけて」

 何に気をつけろという意味なのか、たぶん本人にも分かっていなかった。


 年配の神官は、ほとんど話さなかった。名前も名乗らず、「こちらへ」とだけ言って歩き出した。足音がしなかった。

 回廊は長かった。白い石の床に、高い窓から光が落ちている。壁には絵も像もほとんどなかった。豪華ではない。けれど、どこにも汚れがなかった。

 しばらく歩いて、気づいた。

 匂いがしない。

 昨日の街には、湯で煮た布の匂いがあった。薬草の匂いも、パンの匂いもあった。ここには、石と光しかなかった。

 前を歩くガルムは、一度も周りを見回さなかった。右へ曲がる時も、年配の神官より半歩早く身体が向いた。短い階段の手前では、足を上げる高さまで知っているようだった。

 回廊の角で、ガルムは一度だけ壁に目をやった。何もない壁だった。少なくとも、俺には何もないように見えた。

 昨日の水場と同じだった。初めて来た場所を歩く人間には、見えなかった。


 扉の前で、年配の神官が立ち止まった。

 扉が開いた。

 玉座のようなものは、なかった。

「こちらは、会談室です」

 長い机と、同じ高さの椅子が並んでいた。壁には記録棚があり、背の揃った帳面がぎっしりと詰まっていた。正面には大きな窓がある。壁際に神官が二人、黙って立っていた。

 机の端に、小さな瓶が一本だけ置かれていた。淡い光を含んだ、記憶の瓶だった。

 窓の外に、街が広がっていた。坂の下に、昨日の広場が見えた。配給所の湯気が、白く細く上がっている。列があるのも分かった。施療院の入口を出入りする人の流れも見えた。

 けれど、ここからでは顔が分からなかった。

 窓の前に、白い祭服の男が立っていた。男は、ゆっくりとこちらを振り返った。

 四十代前半から半ばくらいに見えた。白に近い銀の髪を整えた、細身の男だった。穏やかな顔をしている。目の下には、薄い影があった。寝不足というより、長年の疲れが染みついているように見えた。右手の中指の内側に、インクの染みがあった。

 男は椅子には座らず、立ったまま俺たちを迎えた。

 誰も紹介しなかった。それでも、この部屋の中心が誰なのかは分かった。男が一歩前へ出るより先に、壁際の神官が半歩下がったからだ。

「アシュ・カルテアです。遠いところを、よく来てくださいました」

 声は静かで、丁寧だった。昨日、門の書記に言われた「お疲れさまでした」と、同じ温度の声だった。

 アシュは、机の上の帳面には目を落とさず、俺たちを順に見た。

「リオルさん。ラグナ詰所の報告は、読みました。現場を知る人の記録でした」

 リオルは、わずかに顎を引いた。

「……恐れ入ります」

「エレナ・ドーンさん」

「私がエレナだ」

 エレナは短く言った。アシュは、一度だけ頷いた。

「フィーナ・アルセンさん」

 フィーナの指が、レイピアの鞘に掛けられた封印紐に触れた。一度だけだった。それから手は、外套の前へ戻った。

「ソウルさん」

 名前を呼ばれた。帳面も見ずに、迷いもなく。

 それから、アシュの目がガルムへ移った。

 口が、わずかに開いた。

 音にはならなかった。

 一呼吸の間、アシュはガルムの顔を見ていた。

 その一瞬だけ、最高司祭の顔から、役職が消えた。

 それから何も言わずに、軽く頭を下げた。

 ガルムの右手が、胸の前で止まった。昨日、鐘が鳴った時と同じ動きだった。けれど今度は、そのまま外套の上から、懐中時計のある場所に触れた。

 二人とも、何も言わなかった。

 アシュは、俺たち四人の名前を迷わず呼んだ。だが、五人目のガルムとは目を合わせ、頭を下げただけだった。

 ――昔の知り合い。

 ガルムが言っていた言葉が、頭に浮かんだ。

 二人の間に何があるのかは、まだ分からなかった。ただ、俺の知っている人の一生では測れないほど長い時間が、机一つ分の距離を挟んで、二人の間にあった。


「お掛けください」

 アシュはそう言って、自分も俺たちと同じ椅子に座った。


 最初に話したのは、リオルだった。

「ヴェスタからの照会の件、改めてご説明します」

 公務の声だった。書類鞄から紙の束を出し、一つずつ机に並べていく。異常魔獣の記録。西街道の正式報告。回収された記憶媒体の一覧。残響感応と記憶汚染についての照会。

 リオルの説明は短かった。必要なことだけを言い、余計なことは言わなかった。

「以上の照合のため、カルテス側の回答に基づき、当事者が同行しております」

「ええ」

 アシュは頷いた。

「招いたのではありません。来ていただいた。そう理解しています」

 来ると決めたのは、俺たちだった。アシュも、そのことを同じように受け取っていた。

 リオルは一礼して席に戻った。それから先は、必要な時以外、口を挟まなかった。


 アシュは、窓の方へ顔を向けた。

「昨日、あの広場を通られたでしょう」

 俺は窓の外を見た。坂の下で、湯気が上がっていた。

「施療院も、配給も、記録がなければ回りません。誰が何を必要としているか。どこに何が残っているか。誰を先に診るべきか」

 アシュの声は、昨日の配給所の職員とあまり変わらなかった。説いて聞かせる声ではなく、事実を一つずつ置いていく声だった。

「百年以上前、南の港町で熱病が出ました」

 アシュは、机の上で指を組んだ。

「最初に倒れたのは船乗りでした。咳が出始める日。熱の上がり方。効いた手当てと、効かなかった手当て。最後まで看ていた施療者が、それを記憶ごと残しました」

「記憶ごと」

 俺が繰り返すと、アシュは頷いた。

「紙にも残しました。けれど紙には、熱に浮かされた人の顔色までは書けません」

 それは、理解できた。

 施療所で、俺も記録を書いてきた。何時に熱が上がったか。何を飲ませたか。呼吸がどう変わったか。書いても、紙に残らないものがあった。顔色。声の張り。手を握った時の、指の冷たさ。

「数十年後、同じ熱が北の町で出ました。その記憶を使った施療者が、三日で町の出入りを止めました。亡くなった人は、以前より大きく減りました」


 数字だけ見れば、それだけだった。

 けれど、その減った分だけ、生き残った人がいた。

「秩序がなければ、救えるものも救えなくなります」

 アシュは、何度も確かめてきた答えを口にするように言った。

「神が消えた後の混乱の中で、私は育ちました」

 それ以上は、何も言わなかった。


 しばらく、誰も口を開かなかった。

 エレナは窓ではなく、アシュを見ていた。

「旧市場区で、人から記憶を奪い、記憶帳まで取り上げていたのも、あんたの神殿だ」

 低い声だった。

 アシュは、エレナから目を逸らさなかった。

「ええ」

 短い返事だった。アシュは、そのまま言葉を継いだ。

「最高司祭として、責任から逃げるつもりはありません」

「……認めるんだな」

「認めなければ、なかったことになるでしょうか」

「ならない」

「私も、そう思います」

 エレナの手が、膝の上で握られた。しばらくそのままだった。やがて、ゆっくりとほどかれた。

 エレナは、それ以上何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。


「記録を残すためなら、本人が記憶を失ってもいいんですか」

 考えるより先に、俺は口を開いていた。自分でも、思ったより強い声が出ていた。

「いいえ」

 即答だった。

「本人の同意なしに失わせてよいとは、考えていません」

「でも、実際には――」

 アシュは、俺の言葉の続きを待たなかった。

「西街道の報告に、救護の順番を決めた者がいた、とありました」

 静かな声だった。

「あなたですね」

 手のひらが、熱くなった。

 あの日の血の感触が戻ってくる。土の上に寝かされた負傷者。呼吸の浅い騎士。脚の折れた若い騎士。

 この人は、まだ待てる。

 先に、呼吸がおかしい人を運ぶ。

 そう言ったのは、俺だった。

「……はい」

「待てる人を待たせ、待てない人を先に運んだ。正しい判断です」

 アシュは、少しだけ間を置いた。

「私は、それを五百年続けてきました」

 息が、止まった。

 順番を決めた。決めなければ、もっと死んでいた。

 あの日は、一日だけだった。

 それを一年。十年。百年。五百年。

 救えなかった人も、年月とともに増えていく。それでも、次の朝にはまた順番を決める。誰を待たせるか。誰を先に運ぶか。その判断を、何度も繰り返す。


 その先で、俺は今の俺のままでいられるのか。

 言い切れなかった。

 喉の奥が、乾いていく。膝の上で、指が勝手に握られていた。

 病棟で見送った人たちの顔が浮かんだ。西街道の土の色が浮かんだ。間に合わなかった、あの日の重さが浮かんだ。

 もし俺が、五百年生きたならば。

 この人と違う場所に立っていると、俺は言えるのか。

「ソウル」

 横を見る。

 フィーナは俺ではなく、握りしめた俺の手を見ていた。

「手」

「……あ」

 力を抜いた。掌に、爪の跡が残っていた。

 フィーナはそれ以上何も言わなかった。けれど、その短い言葉で、俺は今いる部屋へ戻ってきた。

 アシュは、俺から目を逸らさなかった。

「私は、人を救いたかった」

 一度だけだった。

 救いたかった。

 過去の言葉だった。そのことに気づいた。気づいただけで、その意味までは分からなかった。

 俺は、何も返せなかった。


 窓の外で、湯気が揺れていた。

 坂の下の広場に、列が続いている。昨日、あの列のそばで、俺は並んでいる人たちの呼吸を見ていた。誰が苦しそうか。誰が先に診てもらうべきか。

 ここからは、それが見えなかった。

 ふと、別の部屋を思い出した。白いカーテン。点滴の落ちる音。ベッドの横に置いた丸椅子。

 病室で、何度か口にした問いがあった。答えを求めて聞いたことは、一度もなかった。

「あなたは、今、幸せですか」

 気づけば、俺はそう訊いていた。

 部屋の空気が、止まった。

 壁際の神官の一人が、わずかに目を上げた。リオルの肩が動いた。エレナが、こちらを見た。

 アシュは、答えなかった。

 机の端に置かれた記憶の瓶へ、指が伸びた。触れた。一度だけだった。

「……長く生きていると」

 アシュの指は、まだ瓶に触れたままだった。

「何を幸せと呼んでいたのか、時々、分からなくなります」

 指が、瓶から離れた。

「記録と技術を見てから、判断してください」

 アシュは、穏やかな声のまま言った。

「明日、上層の保管施設へご案内します。あなたの記憶にも、確かめたいことがあります」

 それが答えだったのか、答えではなかったのか、俺には分からなかった。


 会談は、それで終わった。

 椅子を立つ音が、白い部屋に小さく響いた。

 ガルムは、最後に立った。座っていた椅子を両手で持ち、元の位置へ戻した。脚の向きまで揃えていた。工房で、使い終えた工具を棚へ戻す時と同じ手つきだった。

 アシュは、その手を見ていた。

 ガルムは振り返らなかった。アシュも、その背中を呼び止めなかった。

 やがて、二人を隔てるように扉が閉じた。


 俺たちは、誰も口を開かないまま回廊を戻った。

 足音だけが響いていた。年配の神官は先を歩き、こちらを振り返らなかった。

 俺は、ガルムの横に並んだ。

「昔の知り合いって」

 ガルムは前を見たまま答えた。

「古い顔だ」

 それだけだった。それ以上は、聞けなかった。

 少し後ろで、紙をめくる音がした。

 フィーナが歩きながら記憶帳を開き、何か書いていた。覗き込むと、短い一行が見えた。

 アシュ。歳、たくさん。

 ガルムが横目でそれを見た。

「……それも書くのか」

「見たまま」

 フィーナはそう言って、記憶帳を閉じなかった。

 ガルムは小さく息を吐き、それ以上は何も言わなかった。

 前を歩くエレナの肩が、ほんの少しだけ揺れた。

 リオルが、小さく咳払いをした。

 俺も、ゆっくり息を吐いた。

 フィーナの記憶帳に「ガルム。歳、たくさん」と「アシュ。歳、たくさん」が同じ書き方で並んでいるのが、妙に頭に残った。


「あの人は、俺と同じことを言っていた」

 気づいた時には、口に出していた。

 俺は、フィーナを見て続けた。

「救いたかっただけなんだ」

 フィーナは、すぐには答えなかった。記憶帳をもう一度見て、それから閉じた。

「同じじゃない」

「……何が」

「私が見たあなたは、人の隣にいた」

 前を見たまま、フィーナは言った。

「あの人は、人を上から動かした」

 昨日の広場で人のそばにいた俺と、今日、高い窓から人々を見ていたアシュ。フィーナは、その両方を見ていた。

 先ほど、俺はあの人の言葉に頷きかけていた。

 フィーナに言われなければ、そのまま受け入れていたかもしれない。

 回廊の高い窓から、もう一度、坂の下の広場が見えた。

 湯気は見えた。列も見えた。

 けれども、ここからは、だれの呼吸も見えなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

Scene38「救いたかった男」では、ソウルとアシュが初めて真正面から向き合いました。


人を救いたい。

その願いは同じでも、長い時間の中で選び続けた先に、二人は違う場所に立っています。


アシュの言葉を、ソウルは簡単には否定できません。

だからこそ、フィーナの「同じじゃない」という一言が、今回のSceneを締める、大切な一言となりました。


次回、Scene39「記憶保管庫」


神殿が積み重ねてきた記録と技術。

そこでソウルたちは、記憶を残すことの価値と、その裏側にある危うさをさらに目にします。


誰かの記憶を残し、受け継ぐことは、人を救うことなのか。

それとも、その人自身を変えてしまうことなのか。


答えは、記憶保管庫の奥に眠っている。


次回をお楽しみに!

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