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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第5章 神なき世界の祈り

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Scene 30 音のない街

朝は来る。

鐘は鳴る。

人は歩き、店は開き、街は昨日と同じように動いていく。


それでも、もう聞こえない音がある。

いつもそこにあったはずの声がない。


失ったものを抱えたまま、止まらない時間の中に立つ者たちの物語。

 朝が来ていた。

 街は、静かではなかった。


 朝の鐘が鳴っていた。通りでは荷車の車輪が石畳を叩き、店先では木戸を持ち上げる音がした。向かいの工房からは金槌の音が一定の間隔で響き、少し離れたパン屋からは焼けた麦の匂いが流れてきた。ガルムの工房でも、壁に掛けられた時計がそれぞれの速さで時を刻んでいた。


 何も止まっていなかった。それなのに、俺には一つだけ音が足りなかった。階段を駆け下りる軽い足音。扉を勢いよく開ける音。少し息を切らしながら、それでも平気そうに言う声。


 聞こえない。


 俺は作業台の前に立ったまま、しばらく動けなかった。時計の針が、一つ進んだ。


 レンを土に返してから、まだ何日も経っていない。そのはずなのに、工房の朝はもう形を取り戻していた。窓を開ける。煤を払う。湯を沸かす。修理待ちの時計を作業台へ移す。小さな歯車が並んだ箱も、油を差した布も、いつもの場所にあった。


 誰かがやらなければ、朝は始まらない。ガルムは、それを黙ってやっていた。


「座れ」


 その声で、ようやく顔を上げた。


 工房の奥にある小さな食卓には、黒パンと薄い豆の煮込みが置かれていた。ガルムが器を並べていく。一つ、二つ、三つ。その手がもう一度棚へ伸び、指先が止まった。


 ほんの少しの間だった。ガルムは何も言わず、棚の扉を閉めた。四つ目の器は出てこなかった。


 フィーナは食卓の端に座っていた。俺から少し離れた場所だった。あれから、彼女は俺に必要以上に近づかなかった。俺も近づけなかった。


 フィーナは棚と食卓を一度だけ見比べた。けれど、何も尋ねなかった。この食卓を囲んだことも、レンが鍋を焦がしかけてガルムに怒鳴られたことも、フィーナが黙って野菜を切り直していたことも、俺は覚えている。フィーナは覚えていない。


 同じ場所に座っているのに、俺たちが見ているものは違っていた。そのことが、空いた一席よりはっきり分かった。


「食え」


 ガルムが言った。


 俺は椅子に座り、目の前のパンへ手を伸ばした。途中で指が止まった。ただのパンだった。誰が焼いたのかも分からない。市場で買ったものかもしれない。それでも、パンを見た瞬間、粉まみれのレンの手が浮かんだ。


 俺は手を引いた。


「食え」


 ガルムが、もう一度言った。


「……分かってる」


 返した声は、自分でも驚くほど乾いていた。パンをちぎって口へ入れた。味はした。それが嫌だった。


 腹が減っていることも、噛めば飲み込めることも、眠れば朝が来ることも。レンがいないのに、身体は生きる方へ動いていた。


 向かいで、フィーナが静かに食事を続けていた。彼女は一度だけ俺を見た。目が合う前に、俺は視線を落とした。


 説明しなければならないことは、いくらでもあった。お前はレンと一緒にここで飯を食っていた。あいつの焼いたパンを食っていた。けれど、そんな事実を並べたところで、失われた時間そのものが戻るわけではない。


 何を、どこまで話せばいいのか。今の俺には分からなかった。


 食事が終わると、ガルムは器を重ねた。かたり、と乾いた音がした。


 以前なら、そのあとにもう一つ、レンの器を片づける音が続いていた。今は、何も鳴らなかった。


 俺は工房の外へ出た。扉を閉める前に振り返ると、ガルムはもう作業台へ戻っていた。細い金具を手に、いつもと同じ姿勢で時計へ向き合っている。何も変わっていないように見えた。それが、余計に堪えた。


 外の空気は少し冷たかった。通りにはもう人が増えていた。野菜を積んだ荷車。水桶を抱えた女。神殿の紋を付けた男。赤い布を腕に巻いた覚醒派の若者。互いに目を合わせない者もいれば、同じ店の前で黙って道を譲り合う者もいた。


 西街道で何が起きても、誰かが死んでも、市場は開く。


 俺は人の流れに押されるように歩いた。角を曲がる時、無意識に半歩だけ端へ寄った。いつもなら、そこを誰かがすり抜けていくような気がしたからだ。


 けれど、誰も来なかった。


 自分が何をしたのか分かって、足が止まりかけた。それでも歩いた。


 途中、顔を知っている店主が俺を見た。口を開きかけたが、何も言わず、小さく頭を下げた。俺も頭を下げた。それだけだった。


 施療所の方角から来た若い男に呼び止められた。まだあどけなさの残る顔で、少し息が上がっていた。


「ソウルさん」


 足が止まった。


「マレクさんからです。今日は傷の洗浄と記録だけでも人手が欲しいって」


「……そうか」


 男は俺の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。


「急がなくてもいいとも言ってました」


 俺は頷いた。行ける。歩ける。手も動く。頭では分かっていた。


 でも、施療所へ向かう道を見ると、胸の奥で何かが固くなった。白い布。血の匂い。手。レンの手。


 指先が冷えた。


 俺は自分の右手を見た。握る。開く。


 俺の手だった。


 それを確かめても、胸の奥の固さは消えなかった。


「……あとで行く」


 自分でも聞き取りにくいほど、小さな声だった。


 若い男は一度だけ頷き、施療所の方へ戻っていった。俺は、その逆へ歩いた。


 途中のパン屋には、朝から列ができていた。店主が焼き上がった丸パンを籠へ移し、客が銅貨を数えている。


「今日は少し小さいな」


 誰かが言い、店主が笑った。


「粉が高いんだ。文句なら南の商人に言ってくれ」


 周りから小さな笑いが起きた。何でもない朝だった。何でもない朝が続いている。その中で、俺だけが昨日に取り残されているようだった。


 市場の端まで来たところで、また足が止まった。


 板張りの、小さな空き店舗。閉じた木戸。色の剥げた軒。人が二、三人並べばいっぱいになりそうな狭い店先。


 見覚えがあった。


 ここ、パン屋にするなら悪くないと思うんです。


 声が聞こえたわけではない。ただ、あの時の言葉を覚えていた。


 諦めませんよ。


 レンは、そう言っていた。


 店の前を、幼い子どもが母親に手を引かれて通り過ぎた。向かいの屋台では焼いた豆を紙へ包み、誰かが値切り、店主が笑って断っていた。


 周りの店では、客の声が続いていた。

 けれど、この店だけは閉じたままだった。


 俺は店の前へ行こうとした。

 一歩。

 そこで止まった。


 近づいたところで、何がある。

 木戸を開けても、誰もいない。中を見ても、何も始まらない。

 レンは、ここでパンを焼かない。

 その事実だけが、妙に輪郭を持っていた。


 背後を人が通り過ぎた。笑い声がした。別の店から、値段を呼ぶ声が上がった。

 街は静かではなかった。

 荷車が走る。鐘が鳴る。時計が進む。


 ただ、一つだけ。

 もう聞こえない音があった。


 俺は空き店舗へ近づけないまま、人の流れの中に立っていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第5章 Scene30「音のない街」では、レンを失ったあとのラグナと、そこに残された者たちの朝を描きました。


街は止まりません。鐘は鳴り、人は働き、店は開く。けれど、いつもそこにあったはずの音だけが、もう聞こえない。


ソウルも、ガルムも、フィーナも、まだ何かを乗り越えたわけではありません。ただ、失ったものを抱えたまま、それぞれの場所に立っています。


次回、Scene31「知らない人」。


覚えている者と、覚えていない者。

過去は、もう同じ形では戻らない。

それでも、人は知らない相手に、もう一度手を伸ばせるのか。


――「分からないなら、分からないままでいい。」


消えた記憶の先で始まる、もう一つの出会いへ。

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