Scene 30 音のない街
朝は来る。
鐘は鳴る。
人は歩き、店は開き、街は昨日と同じように動いていく。
それでも、もう聞こえない音がある。
いつもそこにあったはずの声がない。
失ったものを抱えたまま、止まらない時間の中に立つ者たちの物語。
朝が来ていた。
街は、静かではなかった。
朝の鐘が鳴っていた。通りでは荷車の車輪が石畳を叩き、店先では木戸を持ち上げる音がした。向かいの工房からは金槌の音が一定の間隔で響き、少し離れたパン屋からは焼けた麦の匂いが流れてきた。ガルムの工房でも、壁に掛けられた時計がそれぞれの速さで時を刻んでいた。
何も止まっていなかった。それなのに、俺には一つだけ音が足りなかった。階段を駆け下りる軽い足音。扉を勢いよく開ける音。少し息を切らしながら、それでも平気そうに言う声。
聞こえない。
俺は作業台の前に立ったまま、しばらく動けなかった。時計の針が、一つ進んだ。
レンを土に返してから、まだ何日も経っていない。そのはずなのに、工房の朝はもう形を取り戻していた。窓を開ける。煤を払う。湯を沸かす。修理待ちの時計を作業台へ移す。小さな歯車が並んだ箱も、油を差した布も、いつもの場所にあった。
誰かがやらなければ、朝は始まらない。ガルムは、それを黙ってやっていた。
「座れ」
その声で、ようやく顔を上げた。
工房の奥にある小さな食卓には、黒パンと薄い豆の煮込みが置かれていた。ガルムが器を並べていく。一つ、二つ、三つ。その手がもう一度棚へ伸び、指先が止まった。
ほんの少しの間だった。ガルムは何も言わず、棚の扉を閉めた。四つ目の器は出てこなかった。
フィーナは食卓の端に座っていた。俺から少し離れた場所だった。あれから、彼女は俺に必要以上に近づかなかった。俺も近づけなかった。
フィーナは棚と食卓を一度だけ見比べた。けれど、何も尋ねなかった。この食卓を囲んだことも、レンが鍋を焦がしかけてガルムに怒鳴られたことも、フィーナが黙って野菜を切り直していたことも、俺は覚えている。フィーナは覚えていない。
同じ場所に座っているのに、俺たちが見ているものは違っていた。そのことが、空いた一席よりはっきり分かった。
「食え」
ガルムが言った。
俺は椅子に座り、目の前のパンへ手を伸ばした。途中で指が止まった。ただのパンだった。誰が焼いたのかも分からない。市場で買ったものかもしれない。それでも、パンを見た瞬間、粉まみれのレンの手が浮かんだ。
俺は手を引いた。
「食え」
ガルムが、もう一度言った。
「……分かってる」
返した声は、自分でも驚くほど乾いていた。パンをちぎって口へ入れた。味はした。それが嫌だった。
腹が減っていることも、噛めば飲み込めることも、眠れば朝が来ることも。レンがいないのに、身体は生きる方へ動いていた。
向かいで、フィーナが静かに食事を続けていた。彼女は一度だけ俺を見た。目が合う前に、俺は視線を落とした。
説明しなければならないことは、いくらでもあった。お前はレンと一緒にここで飯を食っていた。あいつの焼いたパンを食っていた。けれど、そんな事実を並べたところで、失われた時間そのものが戻るわけではない。
何を、どこまで話せばいいのか。今の俺には分からなかった。
食事が終わると、ガルムは器を重ねた。かたり、と乾いた音がした。
以前なら、そのあとにもう一つ、レンの器を片づける音が続いていた。今は、何も鳴らなかった。
俺は工房の外へ出た。扉を閉める前に振り返ると、ガルムはもう作業台へ戻っていた。細い金具を手に、いつもと同じ姿勢で時計へ向き合っている。何も変わっていないように見えた。それが、余計に堪えた。
外の空気は少し冷たかった。通りにはもう人が増えていた。野菜を積んだ荷車。水桶を抱えた女。神殿の紋を付けた男。赤い布を腕に巻いた覚醒派の若者。互いに目を合わせない者もいれば、同じ店の前で黙って道を譲り合う者もいた。
西街道で何が起きても、誰かが死んでも、市場は開く。
俺は人の流れに押されるように歩いた。角を曲がる時、無意識に半歩だけ端へ寄った。いつもなら、そこを誰かがすり抜けていくような気がしたからだ。
けれど、誰も来なかった。
自分が何をしたのか分かって、足が止まりかけた。それでも歩いた。
途中、顔を知っている店主が俺を見た。口を開きかけたが、何も言わず、小さく頭を下げた。俺も頭を下げた。それだけだった。
施療所の方角から来た若い男に呼び止められた。まだあどけなさの残る顔で、少し息が上がっていた。
「ソウルさん」
足が止まった。
「マレクさんからです。今日は傷の洗浄と記録だけでも人手が欲しいって」
「……そうか」
男は俺の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。
「急がなくてもいいとも言ってました」
俺は頷いた。行ける。歩ける。手も動く。頭では分かっていた。
でも、施療所へ向かう道を見ると、胸の奥で何かが固くなった。白い布。血の匂い。手。レンの手。
指先が冷えた。
俺は自分の右手を見た。握る。開く。
俺の手だった。
それを確かめても、胸の奥の固さは消えなかった。
「……あとで行く」
自分でも聞き取りにくいほど、小さな声だった。
若い男は一度だけ頷き、施療所の方へ戻っていった。俺は、その逆へ歩いた。
途中のパン屋には、朝から列ができていた。店主が焼き上がった丸パンを籠へ移し、客が銅貨を数えている。
「今日は少し小さいな」
誰かが言い、店主が笑った。
「粉が高いんだ。文句なら南の商人に言ってくれ」
周りから小さな笑いが起きた。何でもない朝だった。何でもない朝が続いている。その中で、俺だけが昨日に取り残されているようだった。
市場の端まで来たところで、また足が止まった。
板張りの、小さな空き店舗。閉じた木戸。色の剥げた軒。人が二、三人並べばいっぱいになりそうな狭い店先。
見覚えがあった。
ここ、パン屋にするなら悪くないと思うんです。
声が聞こえたわけではない。ただ、あの時の言葉を覚えていた。
諦めませんよ。
レンは、そう言っていた。
店の前を、幼い子どもが母親に手を引かれて通り過ぎた。向かいの屋台では焼いた豆を紙へ包み、誰かが値切り、店主が笑って断っていた。
周りの店では、客の声が続いていた。
けれど、この店だけは閉じたままだった。
俺は店の前へ行こうとした。
一歩。
そこで止まった。
近づいたところで、何がある。
木戸を開けても、誰もいない。中を見ても、何も始まらない。
レンは、ここでパンを焼かない。
その事実だけが、妙に輪郭を持っていた。
背後を人が通り過ぎた。笑い声がした。別の店から、値段を呼ぶ声が上がった。
街は静かではなかった。
荷車が走る。鐘が鳴る。時計が進む。
ただ、一つだけ。
もう聞こえない音があった。
俺は空き店舗へ近づけないまま、人の流れの中に立っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第5章 Scene30「音のない街」では、レンを失ったあとのラグナと、そこに残された者たちの朝を描きました。
街は止まりません。鐘は鳴り、人は働き、店は開く。けれど、いつもそこにあったはずの音だけが、もう聞こえない。
ソウルも、ガルムも、フィーナも、まだ何かを乗り越えたわけではありません。ただ、失ったものを抱えたまま、それぞれの場所に立っています。
次回、Scene31「知らない人」。
覚えている者と、覚えていない者。
過去は、もう同じ形では戻らない。
それでも、人は知らない相手に、もう一度手を伸ばせるのか。
――「分からないなら、分からないままでいい。」
消えた記憶の先で始まる、もう一つの出会いへ。




