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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第5章 神なき世界の祈り

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Scene31 知らない人

知っていたはずの人が、

ある出来事を境に、知らない人になることがある。


名前は残っていても、

一緒に過ごした時間は戻らない。


それでも、

知らないまま立ち尽くすのではなく、

今の距離から、もう一度向き合うことはできる。


忘れた人と、

忘れられた人が、

目の前にいるお互いを知り直す、始まりの物語。

 フィーナは、椅子の前で一度足を止めた。

 工房の窓から入る朝の光が、床に細い帯を作っていた。壁の時計はそれぞれ違う音を立てている。ガルムは作業台に向かったまま、こちらを見なかった。昨日と同じ場所だった。けれど、フィーナにとっては違う。


「ここ、使っていい?」

 椅子を見たまま、フィーナが聞いた。

「ああ」

 以前なら、そんなことを聞く必要はなかった。そう思ったが、口にはしなかった。


 フィーナは椅子に腰を下ろした。しばらく黙ってから、俺を見た。

「少し、話したい」


 俺は頷いた。立ち上がった時、背後で工具の音が一度だけ途切れた。振り返りはしなかった。

 俺は工房の外へ出た。フィーナは半歩遅れてついてきた。


 市場へ向かう通りを外れ、人の少ない路地を抜ける。やがて街を見下ろす小さな高台に出た。屋根の向こうでは、朝の市場がもう動き始めていた。声も、荷車の音もここまで届く。それでも工房の中よりは静かだった。石段には夜露が残り、踏むと少し冷たかった。

 フィーナは低い石垣のそばで立ち止まった。俺は少し離れた場所に立った。


「ガルムから聞いた」

 フィーナが言った。

「あなたの名前は、ソウル。魔力はない。治療の知識がある」

「そうだ」

「私は、あなたを助けたらしい」


 “らしい”という言葉が、胸に引っかかった。

 俺の中では、あの時の白い光も、呼ばれた名前も、途切れた意識もまだ近い。けれど、フィーナにとっては、誰かから聞いた出来事の一つにすぎない。


「大きな術を使ったとも聞いた。代わりに、いくつかの記憶を失ったことも」

 フィーナは自分の言葉を確かめるように続けた。

「何を失ったのかは、自分では分からない」


 忘れたことは、忘れた本人には空白としてしか残らない。

「……そうだ」

 フィーナは俺の顔を見た。見覚えを探している目ではなかった。知らない相手の言葉が正しいかどうか、確かめている目だった。


「どうして、私はあなたを助けたんだ?」


 すぐには答えられなかった。

 あの時、フィーナは俺を助けるために術を使った。その結果、今ここにある空白が生まれた。

 でも、あの時のフィーナが何を思って選んだのかまで、俺が代わりに決めることはできない。


「俺にも、全部は分からない」

 フィーナの眉がわずかに動いた。

「あなたは、その理由を知っているんじゃないのか」

「前のお前なら、知ってたと思う」

「前の私」

「今のお前が覚えてないなら、俺が決めつけることじゃない」


 フィーナはしばらく黙っていた。遠くで鐘が一つ鳴った。

「……聞かないんだな」

「何を?」

「私が、どこまで覚えているのか」

 俺は少しだけ息を止めた。

「聞いてほしいのか?」

 フィーナはすぐには答えなかった。

「……分からない」

 その声は、少しだけ小さかった。


 聞こうと思えば、いくらでも聞けた。

 市場を歩いたこと。工房で同じ食卓を囲んだこと。俺の灰色の外套を選んだこと。

 どこまで覚えているのか。何が残っているのか。

 確かめようと思えば、いくらでも確かめられた。

 でも、それを一つずつ拾い上げたところで、今のフィーナの中に同じ時間が戻るわけではない。


「分からないなら、分からないままでいい」

 フィーナが俺を見た。

「……それでいいのか?」

「よくはない」

 自分でも、思ったより早く言葉が出た。

「でも、覚えてないことを、覚えてることにされる方が嫌だろ」


 フィーナは答えなかった。代わりに、小さな革表紙の記憶帳を取り出した。

 留め紐には、何度も結び直した跡があった。フィーナ自身が、自分のために残してきた記録だ。


「見てもいいか?」

 一瞬、意味が分からなかった。

「それ、お前のだろ」

「だから聞いてる」

 フィーナは記憶帳を胸元へ少し引いた。

 そこに何が書かれているか、俺の方が知っている部分もある。それでも、持ち主はフィーナだ。覚えているかどうかとは関係ない。

「もちろん」


 フィーナは留め紐をほどいた。何枚かめくったところで、指が止まる。

「リシア・アルセン」

 小さく読み上げた。

「母の名前」

「覚えてるのか?」

「名前は」

 フィーナはページを見たまま答えた。

「顔は、ぼんやりしている。声も、うまく出てこない。でも、ここには書いてある」


 紙の上には、細い字で記録が残っていた。名前。髪。昔の癖。そして、短い一文。

「私は、母を愛していた」

 その文字の上で、指が止まった。

「……書いてある」

 声に、懐かしさはなかった。

「でも、そうだったという感じがしない」


 ページの端を押さえる指に、少しだけ力が入った。

「おかしい?」

「いや」

 俺は首を振った。

「書いてあることと、感じることは別なんだと思う」

「それも、前の私が言っていた?」

「いや。今、そう思った」


 フィーナは一度だけ瞬きをした。それから、紙の上の文字を指先でなぞった。

「これ、私の字なんだな」

「ああ」

 少し間があった。

「……知らない人の字みたい」


 フィーナは次のページへ進まず、記憶帳を一度閉じかけた。けれど、留め紐には手を掛けなかった。

 風が吹いた。開いていたページの端が浮く。

 俺は反射的に手を伸ばしかけた。

 その前に、フィーナの指が紙を押さえた。

 俺は手を止め、そのまま引いた。


  フィーナは何も言わず、またページをめくった。数枚先で、指が止まる。

「ソウル」

 今度は俺の名前だった。

 そこには、俺についての記録が残っていた。


 ソウル。異世界から来た。魔力はない。治療の知識がある。

 その下にも、短い文が続いていた。


 ソウルを信じてもいい。

 この人の隣なら眠れる。

 少し離れたところに、もう一つ。

 顔を忘れたくない。


 フィーナの指が止まった。

「……これも、私が書いた?」

「ああ」


 フィーナはしばらく文字を見つめていた。

 表情は変わらない。

 懐かしそうにすることもなかった。


「でも、分からない」

「何が?」

「どうして、そう思ったのか」


 記憶帳へ目を落としたまま、フィーナは続けた。

「書いてあることは分かる。これが私の字だということも。でも――今の私は、あなたをそこまで知らない」

「それでいい」

 フィーナが顔を上げた。

「いいの?」

「ああ」


 少しだけ間を置いた。

「書いてあるからって、同じように思わなきゃいけないわけじゃない」

 フィーナは、もう一度記憶帳へ目を落とした。

「私は、本当にあなたを信じていた?」


 今度の問いには、すぐ答えられなかった。

 信じていた。そう言い切ることはできる。でも、それは俺が覚えているフィーナの話だった。今ここにいるフィーナにとって、俺は名前といくつかの事実を知ったばかりの男だ。


「そうだったと思う」

「なら、今もそうした方がいいのか」

「いや」

 フィーナが顔を上げた。

「今のお前が決めればいい」


 胸の奥が少し痛んだ。

 できることなら、前と同じように見てほしい。名前を呼んでほしい。俺を知っている目で見てほしい。

 でも、それを望むことと、要求することは違う。


 フィーナは記憶帳を閉じた。

「……分かった」


 高台を離れ、二人で坂を下りた。

「この道も、知っているのか」

 フィーナが周囲を見ながら聞いた。

「何度も歩いた」

「あなたと?」

「俺とも。レンとも。ガルムとも」


 レンの名前を出した瞬間、フィーナの足がわずかに遅くなった。

「……私は、あの子のことも忘れている」

「ああ」

「死んだことは聞いた」

「でも、悲しいのかどうか、自分でも分からない」

 言葉を探している声だった。

「それも、おかしい?」

「おかしくない」

 今度は、すぐに答えた。

「覚えてないのに、悲しめって言われても無理だろ」


 フィーナは前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。

 歩幅は合っていなかった。以前なら、意識しなくても同じ速さで歩いていた。

 今は、フィーナが半歩前を歩いている。時々こちらを見る。警戒しているというより、確かめているように見えた。


 路地を抜ける手前で、フィーナが立ち止まった。

「ソウル」

 呼ばれて、俺も止まった。

 フィーナ自身が、一瞬だけ戸惑った顔をした。

「……何?」

「いや」

 フィーナは首を振った。

「呼んでみただけ」


 フィーナは、それ以上何も言わなかった。

 俺も何も聞かなかった。

 ほんの少しだけ間があって、フィーナが先に歩き出した。


 思い出したわけではない。名前を覚え直しただけかもしれない。

 半歩先を歩く背中を、俺は追った。

 でも、フィーナの横を歩こうとはしなかった。

 今は、まだ、それでよかった。

お読みいただき、ありがとうございました。


Scene31「知らない人」では、記憶を失ったフィーナとソウルが、初めてあらためて向き合う時間を描きました。


一緒に歩いたことも、同じ食卓を囲んだことも、フィーナの中にはもう残っていません。

それでもソウルは、過去を取り戻すことを求めず、今のフィーナとの距離を受け入れます。


名前を呼んだことに、どんな意味があったのか。

それは、まだ分かりません。


けれど二人は、知らないまま、ほんの少しだけ前へ進み始めました。


次回、Scene32「残された鞄」。


レンがいなくなったあとにも、街には彼が使っていたものが残されています。

失ったものではなく、残されたものと向き合う時間へ。


「失っても、残さなければならない思いがある。」

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