Scene31 知らない人
知っていたはずの人が、
ある出来事を境に、知らない人になることがある。
名前は残っていても、
一緒に過ごした時間は戻らない。
それでも、
知らないまま立ち尽くすのではなく、
今の距離から、もう一度向き合うことはできる。
忘れた人と、
忘れられた人が、
目の前にいるお互いを知り直す、始まりの物語。
フィーナは、椅子の前で一度足を止めた。
工房の窓から入る朝の光が、床に細い帯を作っていた。壁の時計はそれぞれ違う音を立てている。ガルムは作業台に向かったまま、こちらを見なかった。昨日と同じ場所だった。けれど、フィーナにとっては違う。
「ここ、使っていい?」
椅子を見たまま、フィーナが聞いた。
「ああ」
以前なら、そんなことを聞く必要はなかった。そう思ったが、口にはしなかった。
フィーナは椅子に腰を下ろした。しばらく黙ってから、俺を見た。
「少し、話したい」
俺は頷いた。立ち上がった時、背後で工具の音が一度だけ途切れた。振り返りはしなかった。
俺は工房の外へ出た。フィーナは半歩遅れてついてきた。
市場へ向かう通りを外れ、人の少ない路地を抜ける。やがて街を見下ろす小さな高台に出た。屋根の向こうでは、朝の市場がもう動き始めていた。声も、荷車の音もここまで届く。それでも工房の中よりは静かだった。石段には夜露が残り、踏むと少し冷たかった。
フィーナは低い石垣のそばで立ち止まった。俺は少し離れた場所に立った。
「ガルムから聞いた」
フィーナが言った。
「あなたの名前は、ソウル。魔力はない。治療の知識がある」
「そうだ」
「私は、あなたを助けたらしい」
“らしい”という言葉が、胸に引っかかった。
俺の中では、あの時の白い光も、呼ばれた名前も、途切れた意識もまだ近い。けれど、フィーナにとっては、誰かから聞いた出来事の一つにすぎない。
「大きな術を使ったとも聞いた。代わりに、いくつかの記憶を失ったことも」
フィーナは自分の言葉を確かめるように続けた。
「何を失ったのかは、自分では分からない」
忘れたことは、忘れた本人には空白としてしか残らない。
「……そうだ」
フィーナは俺の顔を見た。見覚えを探している目ではなかった。知らない相手の言葉が正しいかどうか、確かめている目だった。
「どうして、私はあなたを助けたんだ?」
すぐには答えられなかった。
あの時、フィーナは俺を助けるために術を使った。その結果、今ここにある空白が生まれた。
でも、あの時のフィーナが何を思って選んだのかまで、俺が代わりに決めることはできない。
「俺にも、全部は分からない」
フィーナの眉がわずかに動いた。
「あなたは、その理由を知っているんじゃないのか」
「前のお前なら、知ってたと思う」
「前の私」
「今のお前が覚えてないなら、俺が決めつけることじゃない」
フィーナはしばらく黙っていた。遠くで鐘が一つ鳴った。
「……聞かないんだな」
「何を?」
「私が、どこまで覚えているのか」
俺は少しだけ息を止めた。
「聞いてほしいのか?」
フィーナはすぐには答えなかった。
「……分からない」
その声は、少しだけ小さかった。
聞こうと思えば、いくらでも聞けた。
市場を歩いたこと。工房で同じ食卓を囲んだこと。俺の灰色の外套を選んだこと。
どこまで覚えているのか。何が残っているのか。
確かめようと思えば、いくらでも確かめられた。
でも、それを一つずつ拾い上げたところで、今のフィーナの中に同じ時間が戻るわけではない。
「分からないなら、分からないままでいい」
フィーナが俺を見た。
「……それでいいのか?」
「よくはない」
自分でも、思ったより早く言葉が出た。
「でも、覚えてないことを、覚えてることにされる方が嫌だろ」
フィーナは答えなかった。代わりに、小さな革表紙の記憶帳を取り出した。
留め紐には、何度も結び直した跡があった。フィーナ自身が、自分のために残してきた記録だ。
「見てもいいか?」
一瞬、意味が分からなかった。
「それ、お前のだろ」
「だから聞いてる」
フィーナは記憶帳を胸元へ少し引いた。
そこに何が書かれているか、俺の方が知っている部分もある。それでも、持ち主はフィーナだ。覚えているかどうかとは関係ない。
「もちろん」
フィーナは留め紐をほどいた。何枚かめくったところで、指が止まる。
「リシア・アルセン」
小さく読み上げた。
「母の名前」
「覚えてるのか?」
「名前は」
フィーナはページを見たまま答えた。
「顔は、ぼんやりしている。声も、うまく出てこない。でも、ここには書いてある」
紙の上には、細い字で記録が残っていた。名前。髪。昔の癖。そして、短い一文。
「私は、母を愛していた」
その文字の上で、指が止まった。
「……書いてある」
声に、懐かしさはなかった。
「でも、そうだったという感じがしない」
ページの端を押さえる指に、少しだけ力が入った。
「おかしい?」
「いや」
俺は首を振った。
「書いてあることと、感じることは別なんだと思う」
「それも、前の私が言っていた?」
「いや。今、そう思った」
フィーナは一度だけ瞬きをした。それから、紙の上の文字を指先でなぞった。
「これ、私の字なんだな」
「ああ」
少し間があった。
「……知らない人の字みたい」
フィーナは次のページへ進まず、記憶帳を一度閉じかけた。けれど、留め紐には手を掛けなかった。
風が吹いた。開いていたページの端が浮く。
俺は反射的に手を伸ばしかけた。
その前に、フィーナの指が紙を押さえた。
俺は手を止め、そのまま引いた。
フィーナは何も言わず、またページをめくった。数枚先で、指が止まる。
「ソウル」
今度は俺の名前だった。
そこには、俺についての記録が残っていた。
ソウル。異世界から来た。魔力はない。治療の知識がある。
その下にも、短い文が続いていた。
ソウルを信じてもいい。
この人の隣なら眠れる。
少し離れたところに、もう一つ。
顔を忘れたくない。
フィーナの指が止まった。
「……これも、私が書いた?」
「ああ」
フィーナはしばらく文字を見つめていた。
表情は変わらない。
懐かしそうにすることもなかった。
「でも、分からない」
「何が?」
「どうして、そう思ったのか」
記憶帳へ目を落としたまま、フィーナは続けた。
「書いてあることは分かる。これが私の字だということも。でも――今の私は、あなたをそこまで知らない」
「それでいい」
フィーナが顔を上げた。
「いいの?」
「ああ」
少しだけ間を置いた。
「書いてあるからって、同じように思わなきゃいけないわけじゃない」
フィーナは、もう一度記憶帳へ目を落とした。
「私は、本当にあなたを信じていた?」
今度の問いには、すぐ答えられなかった。
信じていた。そう言い切ることはできる。でも、それは俺が覚えているフィーナの話だった。今ここにいるフィーナにとって、俺は名前といくつかの事実を知ったばかりの男だ。
「そうだったと思う」
「なら、今もそうした方がいいのか」
「いや」
フィーナが顔を上げた。
「今のお前が決めればいい」
胸の奥が少し痛んだ。
できることなら、前と同じように見てほしい。名前を呼んでほしい。俺を知っている目で見てほしい。
でも、それを望むことと、要求することは違う。
フィーナは記憶帳を閉じた。
「……分かった」
高台を離れ、二人で坂を下りた。
「この道も、知っているのか」
フィーナが周囲を見ながら聞いた。
「何度も歩いた」
「あなたと?」
「俺とも。レンとも。ガルムとも」
レンの名前を出した瞬間、フィーナの足がわずかに遅くなった。
「……私は、あの子のことも忘れている」
「ああ」
「死んだことは聞いた」
「でも、悲しいのかどうか、自分でも分からない」
言葉を探している声だった。
「それも、おかしい?」
「おかしくない」
今度は、すぐに答えた。
「覚えてないのに、悲しめって言われても無理だろ」
フィーナは前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。
歩幅は合っていなかった。以前なら、意識しなくても同じ速さで歩いていた。
今は、フィーナが半歩前を歩いている。時々こちらを見る。警戒しているというより、確かめているように見えた。
路地を抜ける手前で、フィーナが立ち止まった。
「ソウル」
呼ばれて、俺も止まった。
フィーナ自身が、一瞬だけ戸惑った顔をした。
「……何?」
「いや」
フィーナは首を振った。
「呼んでみただけ」
フィーナは、それ以上何も言わなかった。
俺も何も聞かなかった。
ほんの少しだけ間があって、フィーナが先に歩き出した。
思い出したわけではない。名前を覚え直しただけかもしれない。
半歩先を歩く背中を、俺は追った。
でも、フィーナの横を歩こうとはしなかった。
今は、まだ、それでよかった。
お読みいただき、ありがとうございました。
Scene31「知らない人」では、記憶を失ったフィーナとソウルが、初めてあらためて向き合う時間を描きました。
一緒に歩いたことも、同じ食卓を囲んだことも、フィーナの中にはもう残っていません。
それでもソウルは、過去を取り戻すことを求めず、今のフィーナとの距離を受け入れます。
名前を呼んだことに、どんな意味があったのか。
それは、まだ分かりません。
けれど二人は、知らないまま、ほんの少しだけ前へ進み始めました。
次回、Scene32「残された鞄」。
レンがいなくなったあとにも、街には彼が使っていたものが残されています。
失ったものではなく、残されたものと向き合う時間へ。
「失っても、残さなければならない思いがある。」




