Scene 29 あなたは誰
失ったものは、消えてしまうのか。
それとも、誰かの中に残り続けるのか。
届かなかった手の先で、
それでも誰かを救おうとする者がいる。
そして、その選択には代償が伴う。
大切な人を守るため、
何かを失うかもしれない怖さを抱えながら、
それでも思いを届けようとする物語。
ソウル。
その名前を、知っている。
それなのに。
今、その名前が誰を指しているのか分からなかった。
誰かが、その名前を叫んでいる。
「ソウル。私を見ろ」
銀灰色の髪。
青い目。
左目の下の傷。
フィーナ。
分かる。
そう思った次の瞬間には、その顔へ別の景色が重なった。
白い天井。
窓の外の暗い空。
皺の深い手。
小さな、泥のついた手。
田中さん。
レン。
誰かが息を吐く。
誰かが苦しそうに息を吸う。
どちらの呼吸なのか、もう分からなかった。
「ソウル」
肩を強く揺さぶられた。
身体が動いた。
けれど、自分が揺れたのか、目の前の景色が揺れたのか分からない。
右手には、まだ誰かの手がある。
離せない。
離したら、何かが終わる。
何が終わるのかも、分からない。
「聞こえてるか」
別の声。
低い。
ガルムか。
マレクか。
名前を思い浮かべようとしただけで、頭の奥に痛みが走った。
人の顔と名前が、うまく結びつかない。
誰かの手が、俺の手首に触れた。
脈を確かめる指。
患者は誰だ。
レン。
違う。
俺。
違う。
分からない。
「ソウル、手を離せ」
今度は、フィーナの声だと分かった。
俺は首を振った。
振ったつもりだった。
「離せない」
声が出た。
自分の声だった。
それだけで、少し安心した。
けれど、次に口から出た言葉は違った。
「……大丈夫、です」
フィーナの顔が固まった。
違う。
今のは俺じゃない。
そう言おうとした。
でも、喉の奥に別の声が重なった。
大丈夫。
心配させたくない。
笑わないと。
じいちゃんが見てる。
ソウルさんが見てる。
誰かが俺の名前を呼ぶたび、別の記憶が反応した。
フィーナの声に、病室のナースコールが重なる。
ガルムの低い声に、田中さんの掠れた声が重なる。
今ここにいる人間と、もういない人間が、同じ距離にいた。
近いのか、遠いのかさえ分からない。
ただ、握っている手の冷たさだけが、妙にはっきりしていた。
ソウルさん。
その呼び方を聞いた瞬間、自分が二つに割れた気がした。
呼ばれているのは俺だ。
呼んでいるのも、俺の中にいる。
胸が焼けるように痛んだ。
息が浅くなる。
視界の端で、フィーナが何か言った。
聞き取れなかった。
銀色の光が、ほんのわずかに揺れた。
フィーナの指先だった。
強い光ではない。
刃のようでも、炎のようでもない。
ただ、細い糸のような光が、俺とレンの間にある何かを探るように揺れていた。
フィーナが俺の視線を追った。
「レンを見ろ」
言われた通りにしようとした。
目の前に横たわっている少年を見る。
茶色い髪。
閉じたまぶた。
泥のついた頬。
知っている。
知っているはずなのに、その姿へ別の老人の顔が重なる。
一瞬、息が止まった。
フィーナが俺の顔を覗き込んだ。
「……駄目だ」
誰に向けた言葉でもなかった。
自分自身へ言い聞かせるような声だった。
「……深すぎる」
フィーナが低く言った。
誰に向けた言葉なのか分からない。
「呼んでも戻ってこない」
少し離れたところに、白髪の男が立っていた。
伝令鞄を抱えたまま、こちらを見ている。
表情は変わらない。
けれど、鞄を掴む指だけが強く曲がっていた。
「何が起きてる」
ガルムの声。
今度は分かった。
フィーナは俺から目を離さなかった。
「残った感情を、まだ受け取り続けてる」
「止められるのか」
短い沈黙があった。
「……止める」
「こいつの中で、何かが混ざってる」
「レンだけじゃない」
ガルムが俺を見た。
「前にもあったのか」
「ここまで深くなったことはない」
フィーナは短く答えた。
その声に迷いが混じったのを、俺はなぜか聞き取れた。
ガルムがわずかに目を細めた。
フィーナの指先に、淡い光がにじんだ。
「代わりに何を持っていかれる」
フィーナの指先が止まった。
「分からない」
「分からないまま使うのか」
フィーナは答えなかった。
代わりに、俺の頬へ手を伸ばした。
指先が触れる。
その温度さえ、今の俺には誰のものか分からなかった。
遠くで、女の声がした。
「周りを空けろ。負傷者を下げる」
聞き覚えがある。
誰だ。
名前までは出てこなかった。
足音が離れていく。
天幕の中だけが、取り残されたように静かになった。
フィーナが息を吸った。
「ソウル」
名前を呼ばれる。
「戻ってこい」
「エレナ」
フィーナが呼んだ。
エレナ。
その名前を聞いて、ようやく声と顔がつながった。
すぐ近くで足音が止まる。
「何だ」
「ここへ誰も近づけるな」
「ソウルは」
「今、戻す」
それだけで、エレナは聞き返さなかった。
「分かった。周りは私が見る」
足音が離れ、再び外の喧騒が薄くなった。
その声だけを追おうとした。
けれど、また病室が見えた。
田中さんの手。
レンの手。
点滴。
血。
パンの匂い。
消毒液。
全部が重なって、どこにも戻れない。
「フィーナ」
呼べたのかどうか、自分でも分からなかった。
彼女の目がわずかに揺れた。
「そうだ。私だ」
その言葉が、細い杭のように意識へ刺さった。
フィーナ。
俺はその名前を掴もうとした。
けれど、指の間から抜け落ちる。
フィーナは一度だけ、自分の手を見た。
何かを確かめるように、指を握って、開く。
その仕草を見た瞬間、嫌な予感がした。
魔法を使うたび、大切な記憶が削られていくことを、俺は知っている。
何を差し出すかを、自分で選べるわけじゃない。
大切だから残るとも限らない。
俺は、そのことを知っている。
知っているからこそ、止めたかった。
「これ以上は駄目だ」
ガルムの声がした。
フィーナは首を横に振った。
「このままの方が駄目だ」
「お前まで――」
「分かってる」
初めて、フィーナの声が強くなった。
「分かってる。それでもやる」
マレクがもう一度、俺の脈を取った。
「速い。呼吸も浅い」
声は近いのに、意味だけが遠かった。
「このまま続いたらどうなる」
エレナの声。
フィーナはすぐには答えなかった。
俺の目を見たまま、短く息を吐いた。
「戻れなくなる」
その一言だけは、はっきり聞こえた。
何から戻れなくなるのか。
その時の俺には、それさえ分からなかった。
「何を失う」
今度は俺が言った。
声になったのかは分からない。
それでもフィーナの目が俺を見た。
「分からない」
同じ答えだった。
「だから、やめろ」
「嫌だ」
即答だった。
「お前が戻れなくなる方が嫌だ」
そこに飾った言葉はなかった。
その言葉だけは、はっきり聞こえた。
フィーナは、もう誰の答えも待っていなかった。
彼女の両手が俺に触れた。
片方は頬。
もう片方は、レンの手を握ったままの俺の手首。
白い光が灯った。
銀の粒が、その中で細かく揺れている。
派手な音はしなかった。
風も起こらない。
ただ、光だけが静かに広がっていった。
白い光の向こうで、記憶が一つずつ浮かんだ。
工房で向かい合う俺とフィーナ。
市場を歩く二つの影。
レンが先を走り、振り返って何かを言う。
フィーナの唇が、わずかに動いた。
「……レン」
食卓の端でガルムが黙って器を置く。
どれも特別な場面には見えなかった。
けれど、特別ではない時間ほど、失われた時に戻らない。
そのことだけが、ひどく分かった。
その光が触れた瞬間、今度は別の記憶が流れ込んできた。
俺のものじゃない。
レンのものでもない。
石畳の市場。
工房の扉。
湯気の立つ食卓。
黒パンをちぎる手。
俺の横顔。
レンの笑った顔。
ガルムの背中。
フィーナの記憶だ。
そう気づいた。
気づいた瞬間、その一つが白くほどけた。
市場のざわめきが消えた。
次に、工房の灯りが薄くなった。
誰かと笑った声が遠ざかる。
消えている。
何かが、彼女の中から消えている。
フィーナの口元がわずかに歪んだ。
痛みに耐えている顔だった。
それでも術を止めない。
光が強くなるたび、彼女の表情から何かが遠ざかっていくように見えた。
さっきまで確かにあった記憶が、輪郭を失っていく。
俺には、それをつなぎ止めることができなかった。
「やめろ」
声を出したつもりだった。
唇が動いたかどうかも分からない。
フィーナは、俺から目を逸らさなかった。
俺を見たまま、光を強めた。
「戻れ」
短い言葉。
それだけだった。
また一つ、景色がほどけた。
四人で囲んだ食卓。
レンが何かを言って笑う。
ガルムが呆れた顔をする。
フィーナがわずかに口元を緩める。
俺はそれを見ている。
その光景の輪郭が白くなり、音が消え、最後には何もなくなった。
レンの手を握っていた指が、ようやく自分のものに戻ってくる。
冷たい。
細い。
もう力はない。
それを知った瞬間、さっきまで混ざっていた痛みとは違う痛みが胸に残った。
これは俺の悲しみだ。
そう思えたことが、なぜか救いでもあった。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
これは俺を戻すために使われている。
俺を戻すために、彼女の中の何かが失われている。
止めなければ。
そう思った。
けれど、身体は動かなかった。
フィーナの呼吸が浅くなる。
額に汗が浮かんでいた。
それでも手を離さない。
白い光が俺の視界を満たしていく。
田中さんの病室が遠のいた。
電子音が薄くなる。
レンの痛みが、少しだけ俺から離れた。
痛い。
それはまだある。
悲しい。
それも消えない。
けれど、それが誰のものなのか、少しずつ分かるようになった。
この胸の痛みは、俺のものだ。
レンの傷は、レンのものだ。
田中さんの手は、過去に握った手だ。
意識が沈む直前、フィーナの顔が近くにあった。
青い目。
左目の下の傷。
いつも見てきた顔。
忘れたくないと思った。
彼女が何を失うのか、考えることさえできないまま、意識が闇へ沈んだ。
今、俺が握っているのは――
レンの手。
そう分かった瞬間、涙が落ちた。
ようやく、目の前の死がレンのものとして戻ってきた。
「ソウル」
フィーナの声。
今度は迷わなかった。
「フィーナ」
そう呼んだ。
彼女の目が、一瞬だけ細くなった。
安心したようにも見えた。
次の瞬間、光が大きく揺れた。
フィーナの身体が傾く。
ガルムが支えようと手を伸ばした。
それでも彼女は俺から手を離さなかった。
白い光の中で、また何かが消えた。
レン。
俺。
名前だけが、遠くへ流されていくように見えた。
「もういい」
誰かが言った。
ガルムかもしれない。
今度は、確認する前に意識が沈んだ。
最後に感じたのは、頬に触れていたフィーナの手だった。
暗闇の中には、声がなかった。
パンの匂いも。
消毒液の匂いも。
ただ、何もなかった。
そこには、静けさだけが残っていた。
どれくらい経ったのか分からない。
最初に戻ってきたのは、冷たい空気だった。
次に、土の匂い。
遠くで誰かが歩く音。
俺はゆっくり目を開けた。
天幕の布が見えた。
西街道。
そう思い出す。
身体は重かった。
頭の奥に鈍い痛みが残っている。
けれど、自分が誰なのかは分かった。
柳井蒼。
この世界では、ソウル。
自分の手を見た。
誰の手も、握っていなかった。
横を向いた。
銀灰色の髪が見えた。
フィーナが座っていた。
少し俯いている。
顔色が悪い。
それでも、そこにいることだけで胸の奥が緩んだ。
「フィーナ」
名前は自然に出た。
彼女が顔を上げる。
青い目が俺を見る。
俺は、彼女の声を待った。
けれど、その目は俺を知っている人のものではなかった。
警戒。
戸惑い。
知らない相手を見る時の、ためらい。
ただ、完全な敵意ではない。
だからこそ、余計に分からなかった。
「……フィーナ?」
もう一度呼んだ。
彼女の眉がわずかに寄った。
俺の顔を確かめるように見つめる。
長い沈黙のあと、フィーナは小さく息を吸った。
「……あなたは、誰?」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene29「あなたは誰」では、ソウルを救うため、フィーナが大きな代償を覚悟して魔法を使う決断をしました。
誰かを救えたとしても、すべてが元通りになるとは限らない。
届いた手の先に、別の喪失が待っていることもある。
第4章「届かない手」は、ここで一区切りです。
次は、第5章「神なき世界の祈り」
Scene 30「沈黙の街」へ。
失われたものの先に、何が残るのか。
そして、そこから何を選び取っていくのか。
どうぞ、ご期待ください。




