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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第4章 届かない手

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Scene 28 最後の声

人は、いなくなった瞬間に、すべて消えてしまうのだろうか。


声も、笑顔も、痛みも。

誰かを思った気持ちも。


手の中から失われても、

心のどこかには、まだ残り続けるものがある。


それは記憶なのか。

それとも、もっと別の何かなのか。


今回は、失われた声が残響となって、

一人の中で静かに響き始める物語。

 俺はまだ、その手を握ったままでいた。

 もう、握り返してはこなかった。

 それでも、まだ温度は残っている。

 その温度まで消えてしまうのが怖くて、指をほどけなかった。

 レンの指は俺の掌の中で、さっきまでと同じ形をしていた。

 ただ、そこに力を感じなかった。


 天幕の外で、エレナの声がした。

「運べ。止まるな」

 いつもと変わらない声だった。

 けれど、その声に交じる小さな震えに、誰も気づいていないようだった。

 水を運ぶ足音。

 布を裂く音。

 マレクが別の負傷者へ短く指示を飛ばす声。

 遠くで、金属がぶつかる音。

 さっきまでと何も変わらない。

 レンがいなくなったことを知らないみたいに、周りだけが動き続けていた。

 フィーナは少し離れたところにいた。

 膝の上で握った手を、まだ開いていない。

 ガルムはレンのそばに置いた伝令鞄を見ていた。

 その唇が、かすかに動いた。

「……また、守れなかった」

 息に近いほど、小さな声だった。

 周囲に聞こえたのかどうか、俺には分からなかった。

 誰も俺に、もう手を離せとは言わなかった。

 だから俺も、離さなかった。


 俺はレンの手を見た。

 小さい。

 泥が爪の間に入っている。

 何度も伝令鞄を抱え、街道を走った手だ。

 その指先へ、俺の親指が触れた。


 その瞬間だった。

 パンの匂いがした。

 血と泥の匂いしかなかったはずの天幕に、焼けた小麦の匂いが混じった。

 甘くはない。

 焦げる寸前の、少し強い匂い。

 どこかでパンを焼いているのかと思った。

 けれど、西街道の救護地点に窯なんてない。

 疲れているだけか。

 朝からずっと動いていた。

 そう思おうとした。

 目の前の景色が揺れた。

 市場。人の声。籠に積まれた黒パン。

 屋台の間を走る小さな身体。

 誰かにぶつかって、慌てて頭を下げる。

 笑われて、自分も笑う。


 違う。

 俺の記憶じゃない。

 残響。

 そう理解した時には、もう次の記憶が押し寄せていた。

 一つでは終わらない。

 波のように、残響が途切れず流れ込んでくる。


 焦げた鍋。立ち上がる煙。

 ガルムの低い声。

 怒られると思って肩をすくめる。

 けれど返ってきたのは、長いため息だった。

 焦げた部分を削りながら、また作ればいいと言う背中。

 その背中を見ていると、なぜか少し笑いたくなる。 


 次に流れ込んできたのは、フィーナの姿だった。

 銀灰色の髪。

 無愛想な横顔。

 何かを食べた時だけ、ほんの少し目元が緩む。

 気づかれたら怒られそうで、見ていないふりをする。 


 その次に映ったのは、俺だった。

 レンの前に座り、話を聞いている俺。

 途中で口を挟むこともない。

 急かすこともない。

 ただ、相槌を打ちながら、最後まで話を聞いている。

 それだけなのに、レンの胸の奥が少し軽くなる。

 もう少しだけ、この人と話していたいと思う。


 レンだ。

 レンの中に残ったものが、俺へ流れ込んでいる。

 そう理解した瞬間、胸の奥に痛みが走った。

 それがレンのものなのか、俺のものなのか、はっきりとは分からなかった。

 次に流れ込んできたのは、言葉ではなく感覚だった。

 痛い。

 胸の下。

 腹の奥。

 熱い。

 息を吸うたびに痛みが広がる。

 吸いたいのに、身体がついてこない。

 怖い。

 声を出したら、もっと怖くなる。

 顔に出したら、みんなが怖い顔をする。

 じいちゃんが心配する。

 フィーナが黙る。

 ソウルさんの眉間に皺が寄る。

 そこから先は、レンの感情がそのまま流れ込んできた。

 心配させたくない。

 大丈夫。

 大丈夫って言わないと。

 言えば、みんなが少しだけ安心する。

 自分も少しだけ、そう思える。

 口にするたび、怖さが少し遠くなる。

 本当に平気になるわけじゃない。

 それでも、その言葉しか知らなかった。


 ――大丈夫です。

 声じゃなかった。

 レンが俺に話しかけているんじゃない。

 言葉になる前の感覚が、形だけを持って流れ込んでくる。

 誰かに残そうとした言葉でもない。

 ただ、レンの中に残った感情だけが、消えずにそこにあった。


 それでも、俺にはレンの思いが分かった。

 あの言葉は、平気だったからじゃない。

 痛みも、苦しさも、怖さもなかったからじゃない。

 むしろ、それをこらえる時ほど、レンはそう言った。

 誰かを心配させたくない時ほど、笑おうとした。


 その感情の奥に、もう一つの光景があった。


 パン。

 粉のついた手。

 丸めた生地。

 焼き上がったパンを並べる。

 誰かが手に取る。

 食べる。

 笑う。

 その光景だけが、妙に明るかった。

 パン屋になりたい。

 いつか。

 ちゃんと。

 自分で焼いたパンで、誰かを笑わせたい。

 じいちゃんにも食べてもらいたい。

 フィーナにも。

 ソウルさんにも。


 そこで景色が途切れた。

 胸が詰まった。

 俺は知っていた。

 レンがパン屋になりたいと言っていたことを。

 知っていたはずなのに。

 今、初めてその夢の奥に触れてしまった気がした。

 見てはいけないものを見た気がした。


「ソウル」

 誰かが呼んだ。

 遠い。

 俺はレンの手を握ったまま、顔を上げられなかった。


「ソウル」

 分かる。

 フィーナの声だ。

 返事をしようとした。

 でも、声が出る前に、また匂いが変わった。


 消毒液。

 白い天井。

 一定の電子音。

 透明な管。

 落ちていく点滴の雫。

 古い寝具。


 病室。

 三〇二号室。

 俺の手の中にあるのは、レンの手じゃない。

 皺の深い、痩せた老人の手。

 田中義雄。

 後悔している。

 何のために生きたのか分からない。

 一人は怖い。

 でも今は、少しだけ怖くない。

 病室の中で、声がした。

 「ここにいます」

 あの時の俺の声だ。

 そう分かる。

 なのに、今の俺が言ったようにも聞こえた。

 どちらの声なのか、境目が曖昧になる。


 握っている手が入れ替わる。

 田中さん。

 レン。

 田中さん。

 レン。

 どちらも冷たい。

 どちらも、もう握り返してこない。


 胸の奥が痛んだ。

 レンが傷を負った場所だ。

 それなのに、痛みは俺の中にあった。

 息が浅くなる。

 傷なんてない。

 分かっている。

 それでも胸の奥から血が流れているような感覚が消えない。

 反射的に自分の胸へ手をやろうとした。

 動かない。

 右手はまだ、誰かの手を握っている。


 誰の手だ。

 分からない。


 俺は今、どこにいる。

 天幕。


 病室。

 西街道。

 三〇二号室。

 泥の匂い。


 消毒液。

 血。

 焼けたパン。

 全部が同時にある。


 時間まで混ざっていく。

 今、レンが死んだ。

 いや、田中さんを看取ったのは――いつだ。

 俺はまだ病棟にいる。


 違う。

 ここはヴェスタだ。

 ラグナだ。

 西街道だ。

 分かっているのに、どれも同じ強さで本物だった。


 「ソウル、私を見ろ」

 フィーナの声が近くなった。

 マレクが近づき、俺の空いている手首へ指を当てた。

 脈を診る時の、いつもの手つきだった。

 患者はレンのはずだった。

「様子がおかしい」

 マレクがフィーナへ言った。

 フィーナが俺の前へ回り込み、両肩を掴んだ。

 顔を覗き込まれる。

 肩を掴む手の感触さえ、自分のものか分からなかった。


「ソウル」

 別の声も重なった。

 ガルムか。

 マレクか。

 俺にはもう、聞き分けられなかった。


 顔を上げる。

 銀灰色の髪。

 青い目。

 左目の下の傷。

 フィーナ。

 そう思う。

 次の瞬間、その顔に別の景色が重なった。

 病室の窓。

 朝の光。

 田中さんの閉じた目。

 レンの血のついた頬。


 違う。


 違う。

 戻れ。

 俺はここにいる。


 俺は――

 名前が出てこなかった。


 柳井蒼。

 知っている。

 それが自分の名前だった。


 ソウル。

 それも知っている。

 この世界で呼ばれてきた名前だ。

 なのに、どちらを自分として掴めばいいのか分からない。


 レンの痛みがある。

 田中さんの手の感触がある。

 自分の呼吸がある。

 どこまでが俺なのか、境目が消えていく。


「手を離せ」

 誰かの声がした。

 ガルムか、マレクか。今の俺には判別できなかった。

 それでも、できない。

 この手を離したら、レンが完全にいなくなる。

 そう思った。

 次の瞬間には、田中さんの手を離すなと思っていた。

 誰を握っている。

 誰を看取っている。

 誰が死んだ。

 分からない。


 喉の奥がひどく乾いていた。

 何かを言わなければと思った。

 目の前の人を安心させなければと思った。


 心配させたくない。

 怖い顔をさせたくない。

 その感情が、俺のものなのかも分からなかった。


 口が勝手に動いた。


「……大丈夫、です」

 自分の声だった。

 でも、俺の言葉じゃなかった。


 フィーナの表情が変わった。

「ソウル?」

 フィーナが、もう一度俺を呼んだ。

 返事をしようとした。

 できなかった。


 ソウル。

 その名前を、知っている。

 何度も呼ばれてきた。

 フィーナが呼んだ。

 レンが呼んだ。

 ガルムも、マレクも。


 それなのに。

 今、その名前が誰を指しているのか分からなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene28「最後の声」では、

レンが残した思いに触れることで、

ソウルの中に少しずつ異変が広がっていく場面を描きました。


失われたものは、本当に消えてしまうのか。

それとも、誰かの中に残り続けるのか。


揺らぎ始めたソウルの意識。

その傍らで、フィーナたちは彼の名を呼び続けます。


次回、Scene29「あなたは誰」。


引き続き、お付き合いいただければ嬉しいです。

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