Scene 27 届かない手
まだ、手は届くと信じている。
呼べば返る声がある。
触れれば分かる脈がある。
握れば、かすかに返してくる手がある。
だから、諦めることなんてできない。
けれど、どれだけ手を伸ばしても、
届かない瞬間がある。
最後まで、その手を離さなかった者たちの物語。
マレクの薄い光が、もう一度レンの身体へ沈んだ。
胸の下。
上腹部。
さっきまで弱まっていた濁りが、深いところでまた揺れている。
細い光が一度、押し戻されるように乱れた。
「……また出血してる」
マレクの声が低くなる。
「どこだ」
俺が聞いた。
「深いところだ。止まりきってない」
俺はレンの首元から指を離さなかった。
脈はある。
ただ、間隔が揃わない。
触れる強さも、一拍ごとに違う。
「治療は」
俺はマレクに聞いた。
「もう一度かける。フィーナ」
「分かった」
フィーナがすぐに膝をついた。
さっき下ろしたばかりの手を、もう一度かざす。
淡い金色と、細い青白い光が重なった。
レンの身体が小さく震える。
「レン」
俺が呼ぶと、レンの瞼が動いた。
「……はい」
「息、苦しいか」
返事がない。
聞こえていないわけじゃない。
答えるまでに時間がかかっている。
「……少し」
声が、さっきより遠い。
俺は毛布の中の手を握った。
冷たさが増している。
「マレク、脈が落ちてる」
「分かってる」
返事は短かった。
マレクの額から汗が落ちる。
光は強くなった。
けれど、深いところの濁りは消えない。
ガルムは、レンの頭の横にいた。
さっきから一歩も動いていない。
大きな手だけが、レンの髪に触れている。
「レン」
ガルムが低く呼んだ。
返事はない。
「おい」
もう一度。
レンの瞼がゆっくり上がった。
「……いるよ」
かすれた声だった。
ガルムの手が止まる。
「そうか」
それだけ言って、また髪を撫でた。
いつもなら乱暴なくらいの手が、今は触れているだけだった。
マレクが俺の手元を見た。
「圧迫、変えるぞ」
俺は頷いた。
血を吸った布の上へ、新しい布を重ねる。
手を離す時間をつくらない。
押さえる位置をわずかにずらす。
レンが息を詰めた。
「痛いよな」
俺はレンに声をかけた。
答えはない。
「痛いのは分かってる。それでも押さえるぞ」
俺は手に力を込めた。
布の下から伝わる温かさが、また増えていた。
止まりきっていない。
外から押さえられる場所だけじゃない。
分かっている。
分かっていても、今できることをやめる理由にはならなかった。
「まだ間に合う」
口から出た。
さっきとは違った。
脈を見て判断した言葉じゃない。
呼吸を数えて出した結論でもない。
間に合ってほしい。
ただ、それだけだった。
自分で分かっていた。
それでも、手は離さなかった。
治療の光が何度も揺れた。
マレクが術式を立て直す。
フィーナが合わせる。
俺は呼吸を見て、脈を取り、傷を押さえる。
誰も余計なことは言わなかった。
ただ、それぞれが自分の手を動かした。
けれど。
レンの唇から、少しずつ色が消えていく。
呼吸の間が伸びる。
一度、吸う。
次の息が、なかなか来ない。
俺は声を強めた。
「レン、目を開けろ」
瞼が動く。
「俺を見る」
ゆっくり目が開いた。
焦点が合うまで、少し時間がかかった。
「聞こえるか」
「……はい」
まだ返ってくる。
その返事だけを、俺は拾った。
「マレク」
俺が呼ぶより早く、マレクが首を横に振った。
「押し切れない」
初めて、その声に迷いが混じった。
俺はマレクに食い下がった。
「もう一段、強くできないのか」
「やってる」
俺はフィーナへ目を向けた。
「フィーナは」
「これ以上は合わせられない」
フィーナ自身が答えた。
青白い光はまだ出ている。
けれど細い。
指先が震えていた。
「もう少しだけ」
俺は誰に言ったのか分からなかった。
「もう少しだけ、持たせてくれ」
マレクは答えなかった。
光だけが強くなった。
レンの指が、俺の手の中でわずかに動いた。
「ソウル、さん」
「いる」
すぐに返した。
「じいちゃんもいる」
レンの目が少し動く。
ガルムを見るには、首を動かさなければならない。
ガルムが低く言った。
「動かなくていい」
「ここにいる」
レンの口元がほんの少し緩んだ。
それだけで、また目が閉じそうになる。
「レン」
俺は手を握り直した。
「まだ寝るな」
「……ねて、ないです」
いつもの言い返し方に近かった。
でも、声はほとんど息だった。
脈を取る。
一拍。
弱い。
次が来るまで、少し間が空く。
それでも、まだ触れる。
「レン、息をしてろ」
胸がわずかに上がった。
「そうだ」
もう一度。
小さく上がる。
「そのままでいい」
自分の声が震えないようにした。
マレクの光が不意に乱れた。
金色が一瞬、薄くなる。
「……レン」
マレクが名前を呼んだ。
治療者の声ではなかった。
レンが薄く目を開けた。
俺を見る。
焦点は合っていない。
それでも、俺のいる方を見た。
「ソウル、さん」
「いる」
レンの唇がわずかに動いた。
「……大丈夫、です」
俺はすぐに返した。
「大丈夫じゃなくていい」
俺はその手を握った。
「ここにいる」
レンの指が、ほんのわずかに握り返した。
それが最後だった。
次の呼吸が来ない。
俺は首元へ指を当てた。
拍動を探す。
待つ。
もう一度、位置を変える。
何も返ってこない。
「レン」
返事はない。
傷を押さえる手だけが、まだ動いていた。
分かっていても、手を止めることができなかった。
マレクがレンの首元に手を当てた。
胸の動きを見る。
薄い探査の光を、一度だけ通す。
長い数秒のあと、マレクは目を伏せた。
それ以上、術式を重ねなかった。
誰も、すぐには何も言わなかった。
天幕の外では、まだ人の声がしている。
負傷者を運ぶ足音。
誰かを呼ぶ声。
遠くで金属がぶつかる音。
レンの呼吸が止まっても、外の音は止まらなかった。
俺はその手を握ったままだった。
さっきまで、弱く握り返していた手。
まだ温度だけが残っている。
ガルムが、ゆっくり立ち上がった。
担架の横に落ちていた伝令鞄を拾う。
泥のついた革を、袖で一度拭った。
外れかけた留め具を押し込み、ねじれた肩紐を直す。
何度も触れてきた道具を扱うような、いつもの手つきだった。
けれど、その指は途中で一度止まった。
整えた鞄を、レンのそばへ静かに置いた。
「……もう、いい」
ガルムの声だった。
誰を責める声でもなかった。
俺の手を止めるためだけの、それだけの言葉だった。
フィーナも何も言わなかった。
下ろした手を、膝の上で強く握っている。
マレクは血に濡れた自分の手を見ていた。
俺はまだ、手を離せなかった。
傷を押さえていた手から。
握っていた手から。
どちらから先に離せばいいのか、分からなかった。
やれることは、やった。
そう思うには、まだ早かった。
何かが足りなかったのか。
それすら、分からない。
ただ――届かなかった。
俺の手も。
マレクの手も。
フィーナの手も。
ガルムの手も。
確かに、ここにあったのに。
レンの手から、最後の力はもう消えていた。
それでも俺は、その手を握ったままでいた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene27「届かない手」では、レンの命をつなぐため、ソウル、マレク、フィーナ、そしてガルムが、それぞれにできることを最後まで続けました。
Scene26では「まだ間に合う」という言葉は、状態を見たうえでの判断でした。けれど今回は、同じ言葉が「間に合ってほしい」という願いへ変わっていきます。できることを重ねても、それでも届かない瞬間がある。その苦しさを、この場面では描きたかったところです。
レンの最後の「……大丈夫、です」に対して、ソウルが返したのは「大丈夫じゃなくていい」「ここにいる」という言葉でした。強がらなくてもいい。ただ、ひとりにはしない。その気持ちだけは、最後まで届いていたのではないかと思います。
そしてガルムは、泣き叫ぶのではなく、レンの伝令鞄を黙って整えます。直せるものを直してきた彼だからこそ、その手つきに言葉にできない喪失を込めました。
手は確かに、そこにあった。
それでも、届かなかった。
次回、Scene28「最後の声」。
残された者たちは、その死とどう向き合うのか。




