Scene26 まだ間に合う
まだ、できることはある。
触れれば分かる脈がある。
呼びかければ返る声がある。
閉じかけた目も、まだこちらを見ている。
だから、諦める理由にはならない。
知っているものをすべて出し切り、できることを重ね、
誰かの手が、また次の手へとつながっていく。
思いが届くと信じて。
今はただ、小さな命の未来へ手を伸ばす者たちの物語。
担架が救護地点へ滑り込んだ。
「マレク!」
俺が叫ぶより先に、マレクがこちらを向いた。
血に濡れた布と、その下に横たわるレンを見た瞬間、表情が変わる。
「そこへ寝かせろ。圧迫はそのまま!」
近くにいた者たちが負傷者を横へ寄せ、外套を敷いただけの空間を開ける。
エレナが担架を下ろし、俺は傷を押さえたまま膝をついた。
「胸の下から上腹部。裂傷。出血が多い。意識あり。呼吸は浅くて速い。脈は速くて弱い。皮膚が冷たい」
見たこと。
触れたこと。
今、必要なこと。
それだけを並べる。
マレクは頷いた。
「いつからだ」
「襲われてすぐ。ここまで圧迫は続けてる」
「意識は落ちたか」
「まだない」
「よし。手を離すな」
「分かってる」
レンの目が薄く開いた。
「……ソウル、さん」
「いる」
声を返す。
それだけで、レンの眉間の皺がほんの少し緩んだ。
マレクがレンの外套をさらに開いた。
裂けた布の下で、血がまだ滲んでいる。
「探る」
短く言って、マレクが右手をかざした。
淡い光が指先に集まる。
見慣れた治療の光より薄い。
広がるというより、糸のように身体へ沈んでいく。
光は胸の下を通り、腹へ降りた。
正常な場所では、ほとんど揺れない。
けれど傷の近くへ来た瞬間、光が乱れた。
小さく震える。
濁る。
さらに深いところで、一度、流れが途切れた。
マレクの目が細くなる。
「外だけじゃないな」
胸の奥が冷えた。
「中も?」
「出てる。場所は一つじゃない」
「どこまで分かる」
「広がりは分かる。何がどれだけ傷んでるかまでは、ここじゃ断定できん」
もう一度、淡い光が沈む。
上腹部で大きく揺れた。
少し脇へ流れ、また濁る。
俺はレンを見た。
呼吸。
目の動き。
唇の色。
「レン、聞こえるか」
わずかに頷く。
「苦しいか」
「……ちょっと」
ちょっと、で済む顔じゃない。
それでも訂正はしなかった。
「喋らなくていい。息だけしろ」
レンがもう一度頷いた。
マレクが探査の光を消した。
「循環は残ってる。今なら治療をかけられる」
その言葉に、俺は息を吐いた。
まだ、手はある。
「布をもう一枚。乾いたやつ」
マレクが言った。
俺は片手で医療鞄を探った。
エレナが横から布を抜き取る。
「これか」
「それでいい」
濡れた布を外さず、その上から重ねる。
圧迫を続ける。
「肩を上げるな。平らなまま」
「分かった」
エレナが担架の端を押さえた。
マレクは傷の少し上へ両手をかざした。
今度の光は、さっきより強い。
淡い金色が血に濡れた布の縁を照らす。
「レン」
マレクが呼ぶ。
「今から治療する。熱く感じるかもしれん」
レンが目だけを動かした。
「……はい」
「よし」
光が沈んだ。
レンの身体が小さく強張る。
「っ……」
「動くな」
俺は肩へ手を置いた。
「いるから」
レンの呼吸が一度乱れた。
次の呼吸。
その次。
少しずつ、間隔が揃っていく。
マレクの額に汗が浮いた。
光は傷の周囲へ集まり、深いところへ沈み込む。
「脈は」
「待て」
首元へ指を当てる。
速い。
けれど、さっきより触れやすい。
「少し戻ってる」
「呼吸は」
「浅い。でも、さっきより入ってる」
「なら続ける」
マレクの声に迷いはなかった。
俺はレンの胸の動きを数えた。
まだ速い。
でも、止まりそうな呼吸じゃない。
「レン、分かるか」
「……はい」
「眠るなとは言わない。呼んだら目を開けろ」
「はい」
返事がある。
それだけで、胸の奥に固まっていたものが少しだけほどけた。
背後で足音がした。
「ソウル!」
フィーナだった。
剣を抜いたまま走ってくる。
外套の裾に泥と黒い血がついていた。
俺の横まで来て、レンを見る。
足が止まった。
「……レン」
声が一段低くなる。
レンの目がわずかに動いた。
「フィー……ナ」
「喋るな」
フィーナがすぐに言った。
それから俺を見る。
「何をすればいい」
「マレクの補助ができるか」
「できる」
答えは早かった。
マレクが一度だけフィーナを見る。
「出力を上げすぎるな。俺の術式へ合わせろ」
「分かった」
フィーナが膝をつき、マレクの反対側へ手をかざした。
青白い光が生まれる。
強くない。
細く、一定の光だった。
マレクの光へ重なる。
二つの光が、レンの胸から腹へゆっくり沈んだ。
俺は魔法のことは分からない。
だから、今ここにいるレンを見る。
呼吸は少し深くなった。
脈も、さっきより強い。
フィーナは何も言わず、光を乱さないように手を保っている。
その指先が、わずかに震えていた。
「寒い……」
レンが呟いた。
「分かった」
俺は近くの毛布を引き寄せた。
傷を圧迫している場所を避け、肩から脚へ掛ける。
泥で濡れた靴はそのままにした。
今は余計に動かしたくない。
「水……」
「今は飲むな」
レンの目が少しだけ不満そうに動いた。
その反応に、俺は一瞬だけ言葉を失った。
いつものレンだった。
「あとで飲ませる」
「……ほんとですか」
「嘘ついてどうする」
「ソウルさん、たまに……」
「喋るなって言っただろ」
レンの口元がほんのわずかに動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
できなかった。
でも、その表情を見て、俺は思った。
戻ってきている。
ほんの少しずつ。
「マレク」
「分かってる」
治療の光を保ったまま、マレクが答える。
「悪くはなってない」
その言葉だけで十分だった。
人垣の向こうがざわついた。
誰かが道を空ける。
聞き慣れた低い声がした。
「どけ」
ガルムだった。
息を切らしている。
工房で見る時より、肩が大きく上下していた。
レンのところまで来る。
止まる。
何も言わない。
視線が血に濡れた布へ落ちる。
次にレンの顔。
それから、担架の横に置かれた伝令鞄。
泥にまみれた鞄の留め具が外れていた。
ガルムの手が一度だけ動いた。
けれど鞄には触れず、そのままレンのそばへしゃがんだ。
「……どうだ」
俺に聞いた。
「出血は続いてる。中にも損傷がある」
ガルムの眉がわずかに動く。
「だが、治療には反応してる」
俺はレンの首元へ指を当てた。
脈はある。
ちゃんと触れる。
「まだ間に合う」
自分に言い聞かせたんじゃない。
ガルムを安心させるためでもない。
今の状態を見て、そう判断した。
ガルムは俺を見た。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、小さく頷いた。
「そうか」
それだけだった。
レンがゆっくり目を開けた。
「……じいちゃん」
ガルムの表情が、わずかに動いた。
「なんだ」
「来たの」
「見りゃ分かるだろ」
「……うん」
ガルムの大きな手が、レンの頭へ乗った。
皮の厚い手だった。
その手が、ほんの少しだけ震えていた。
「喋んな」
「みんな、それ……言う」
レンの口元が、今度はほんの少し上がった。
ガルムは何も返さなかった。
ただ、レンの肩へ掛かった毛布の端を直した。
時間の感覚が薄くなった。
天幕の外では、負傷者を呼ぶ声が続いている。
水を運ぶ足音。
誰かの短い悲鳴。
中では、治療の光だけが静かに動いていた。
俺は何度もレンへ呼びかけた。
そのたびに、目が動いた。
「レン」
「……はい」
「聞こえてるな」
「聞こえてます」
声は弱い。
でも、返ってくる。
やがて、マレクの光が少しずつ弱まった。
「一度切る」
フィーナも手を下ろした。
二人とも息が荒い。
「どうだ」
俺が聞く。
マレクはすぐに答えなかった。
レンの胸へ手を置き、もう一度、淡い光を沈める。
探るための薄い光。
さっきほど大きく乱れない。
傷の周囲ではまだ揺れる。
深いところにも濁りはある。
「さっきより乱れは弱い」
マレクが言った。
「完全に治ったわけじゃない。中の損傷も残ってる」
俺は黙って続きを待った。
「治したんじゃない。持たせてるだけだ」
「それでも」
「ひとまず、今すぐ危ない状態からは戻した」
息が抜けた。
自分でも気づかないほど、長く息を止めていたらしい。
フィーナが俺を見る。
「助かるのか」
その問いに、マレクは少し黙った。
「まだ分からん」
はっきり言った。
「だが、さっきよりはいい」
フィーナの肩から、ほんの少し力が抜けた。
俺も頷いた。
今は、それで十分だった。
エレナが戻ってきたのは、その少し後だった。
剣は鞘へ戻している。
頬に泥がつき、左腕の装甲に新しい傷が増えていた。
「森側は押し返した」
誰にともなく言う。
そのままレンを見る。
「……状態は」
「一度、持ち直した」
俺が答えた。
エレナの目が閉じる。
ほんの一瞬。
「そう」
それだけだった。
リオルの声が遠くから飛んできた。
「動ける者からさらに後ろへ送れ! 重傷者はここから動かすな!」
救護地点全体がまた動き始める。
神殿の騎士が覚醒派の負傷者を運び、覚醒派の男が神殿騎士の担架を持つ。
もう誰も所属を気にしていなかった。
俺はすぐにレンへ視線を戻した。
レンの瞼が少し下がった。
「眠いか」
「……ちょっと」
「目を閉じてもいい。呼んだら返事しろ」
「はい」
「約束できるか」
レンが小さく頷く。
「できます」
その返事に、ガルムが鼻から短く息を吐いた。
「返事だけは一人前だ」
「じいちゃん……うるさい」
弱い声。
でも、いつものやり取りだった。
フィーナが少しだけ顔を伏せる。
俺はレンの手首へ指を当てた。
脈はまだ速い。
それでも、さっきよりしっかり触れた。
持ち直している。
そう判断した。
少なくとも、今は。
数分後。
俺はまた脈を取っていた。
一回。
二回。
三回。
四回。
指先へ伝わる拍動を数える。
速い。
でも、ある。
五回。
六回。
そこで、少し間が空いた。
俺は指の位置を変えた。
七回。
八回。
今度は続く。
疲れているだけか。
自分の指先が冷えて、感覚が鈍っているのか。
もう一度数える。
一回。
二回。
三回。
また、間が違う。
顔を上げた。
レンは目を閉じている。
胸が上下している。
呼吸はある。
さっきより穏やかに見える。
なのに。
何かが違う。
「レン」
呼ぶ。
瞼が動いた。
少し遅れて、目が開く。
「……はい」
返事はある。
「苦しいか」
「だい……じょ」
「それはいい」
言葉を止める。
「苦しいかどうかだけ教えろ」
レンは少し考えるように瞬きをした。
「……さっきより、楽」
「そうか」
答えながら、首元へ指を移す。
脈は触れる。
弱くはない。
でも、妙に速さが揃わない。
マレクを見る。
まだ別の負傷者へ指示を出している。
フィーナはすぐそばにいる。
ガルムもいる。
誰も、まだ気づいていない。
レンの頬へ目を戻す。
さっきより白い。
気のせいかもしれない。
治療の光が消えたせいで、そう見えるだけかもしれない。
俺はレンの手を取った。
冷たい。
毛布の外へ出ていたからか。
そう思い、包む。
それでも。
胸の奥に、小さな棘が刺さった。
「マレク」
自分でも驚くほど低い声が出た。
マレクが振り返る。
「どうした」
俺はレンから目を離さなかった。
「……もう一度、診てくれ」
マレクの表情が変わる。
「何があった」
「分からない」
正直に言った。
「でも、何かおかしい」
レンの胸が上下する。
呼吸はある。
脈もある。
意識もある。
さっきより楽だと言った。
それなのに。
俺の指先だけが、違うと言っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene26「まだ間に合う」では、重傷を負ったレンを前に、ソウル、マレク、フィーナ、それぞれが自分にできることを重ねていく場面を描きました。治療魔法があっても、すべてを元通りにできるわけではない。それでも、呼吸がある。脈がある。声が返ってくる。その一つひとつを確かめながら、ソウルは「まだ間に合う」と判断します。
ガルムが駆けつけ、レンと言葉を交わす場面では、特別なことを言わせるのではなく、いつもの二人らしさを残しました。だからこそ、一度持ち直したように見える時間が、ほんの少しだけ日常へ戻ったようにも感じられます。
けれど、最後に気づいた小さな違和感。
呼吸も、脈も、意識もある。それなのに、ソウルの指先だけが何かを告げています。
次回、Scene27「届かない手」。
伸ばした手の先に、ソウルたちが見たものは――。




