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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第4章 届かない手

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Scene 25 大丈夫です

いつも、笑っていた。

「大丈夫です」と、何でもないことのように。


その言葉の奥にある怖さを、

誰も知らなかったのかもしれない。


守られるはずだった場所で、

届くはずだった手が、あと少しだけ遠い。


それでも、諦めるにはまだ早い。

血に濡れた手を離さず、命をつなごうとする者たちの物語。

俺は走った。

――いや、走り出そうとした。

その前へ、エレナが馬を寄せた。

「乗れ」

「走れる」

「走るより早い」

迷っている時間はなかった。

俺はエレナの後ろへ飛び乗った。

「フィーナ!」

振り返る。

フィーナは前線側に残り、負傷者を下げる道を確保していた。

剣を握ったまま、こちらを見る。

「行け!」

それだけだった。

マレクは前線側の救護地点を離れられない。

後ろからマレクの声が追ってきた。

「こっちは持たせる! レンを頼む!」


馬が地面を蹴った。

医療鞄が腰に当たる。

木々が両側へ流れていく。

もっと早く。

頭にあるのは、それだけだった。

レンは後ろにいる。

前線には出るな。

旧分岐より先へは行くな。

危なくなったら戻れ。

何度も確認した。

レンも、ちゃんと分かったと答えた。

だから、後方なら大丈夫だと思った。

俺たちは、そう思っていた。


街道の曲がり角を抜ける。

泥の上に、乱れた足跡が増えていた。

倒れた水桶。破れた布。

街道脇の木には、後方連絡地点の目印に結ばれた白い布が垂れている。

半分が泥に汚れていた。

「見えた」

エレナが前を見据えたまま言った。

前方に、後方連絡地点が見えた。

小さな天幕。水袋。包帯を積んだ木箱。

前線から下げられた負傷者たち。

その間を、人が慌ただしく動いていた。

「水をこっちへ!」

「歩ける者は街道の端へ!」

「森側から離れろ! ラグナ側へ下がれ!」

怒鳴り声が重なっている。

ここは前線ではなかった。

だから、戦うための人数は少ない。

負傷者を運ぶ者。水を配る者。次の伝令を待つ者。

その中に、小さな影があった。

「レン!」

伝令鞄を肩に掛けたまま、レンが水袋の束を抱えていた。

負傷者のそばへ水を届けている。

頼まれた仕事をしていた。それだけだった。


俺の声に、レンが振り返る。

「ソウルさん?」

驚いた顔。

その次の瞬間、森の方で枝が折れた。

太い木が軋むような音だった。

エレナが馬から飛び降りる。

「全員、下がれ!」

剣を抜く。

「歩ける者はラグナ側へ! 動けない者を置いていくな!」

低い唸り声が返ってきた。

木々の間から黒い影が現れる。

前線で見たものと同じ、大きすぎる四足の魔獣。

脇腹には傷がある。それでも動きは鈍っていない。

傷の周囲に、色の定まらない淡い光が滲んでいた。

「護衛、前へ!」

エレナの声に、後方へ残っていた護衛が二人、武器を構えた。


魔獣が地面を掻く。

レンの顔が強張った。怖い時の顔だった。

「レン、下がれ!」

俺が叫ぶ。

レンは頷いた。

水袋を地面へ置く。

伝令鞄を押さえながら、ラグナ側へ身体を向ける。

指示どおりに。ちゃんと、下がろうとした。

魔獣が吠えた。

護衛の一人が槍を突き出す。

魔獣は横へ跳んだ。

槍を避け、その勢いのまま街道脇へ回り込む。

「右へ行く!」

エレナが叫ぶ。

俺には、レンしか見えていなかった。

「走れ!」

レンが走り出す。

一歩。

二歩。

その直後、横倒しになった小さな荷車の脇から、魔獣が飛び出した。

レンが振り返る。目が大きく開いた。

逃げようとした。

間に合わなかった。

「レン!」


黒い前脚が振り抜かれた。

鈍い音がした。

レンの身体が横へ弾かれる。

伝令鞄が肩から外れ、泥の上へ落ちた。

水袋が転がる。

十四歳の身体が、あまりにも軽く飛んだ。

一瞬、時間が止まったように見えた。

でも、止まっていなかった。

エレナが横から斬り込む。

赤い髪が視界を横切った。

魔獣がこちらへ向き直る。

「ソウル、行け!」

その声で足が動いた。

俺はレンのもとへ走る。

背後で剣と爪がぶつかった。

護衛の声。

魔獣の唸り。

背後の戦闘には目を向けなかった。

レンだけを見る。


街道の端に倒れていた。

身体を少し丸め、左の胸の下から上腹部を押さえている。

指の隙間から血が流れていた。

出血が多い。

「レン、聞こえるか」

膝をつく。レンの目が動いた。

「……ソウル、さん」

意識はある。

呼吸もある。

浅い。

速い。

首元へ指を当てる。

脈は速く、弱い。

皮膚が冷たい。

「動くな。今、診る」

外套を開く。

左の胸の下から上腹部へ、斜めに深い傷が走っていた。

布が裂け、その下から血が滲み続けている。

爪による傷だけじゃない。

身体ごと弾かれている。

胸の中。腹の中。外から見えない損傷があってもおかしくない。

ここでは分からない。

でも、今ここで終わりだと決めつけるには早い。


「布を!」

自分で医療鞄を開く。

清潔な布を重ね、傷へ当てる。

強く圧迫した。

「っ……!」

レンの背中が浮く。

「痛いな。分かってる。今は血を止める」

手のひらへ温かい血が染みてくる。

押さえても、布の色が変わる。嫌な速さだった。

それでも、呼吸はある。意識もある。

今は、止められる出血を止める。

「担架!」

声を上げる。

「持ってくる!」

近くにいた覚醒派の男が答えた。

もう一人と一緒に、外套と棒を組んだ簡易担架を広げる。


レンの手が、俺の袖を掴んだ。

「ソウル、さん」

「いる。動くな」

レンが何か言おうとする。唇が震えた。

「だい……じょ……」

そこまでだった。息を吸おうとして、顔が歪む。

いつもの言葉を言おうとしている。

「喋るな」

俺は圧迫する手を緩めなかった。

「今は息をしてろ」

レンの目が俺を見る。

いつもなら笑っていた。

何でもないみたいに。

でも、今は笑えなかった。

目に涙が滲んでいる。

「……こわ、い」

小さな声だった。

胸の奥が痛んだ。

怖いと言った。それでいい。今は、それでいい。

「分かった」

俺はそれだけ返した。

「ここにいる。動かなくていい」


担架が横へ置かれる。

「身体を捻るな。肩と腰を支えてくれ。俺は傷を押さえる」

「分かった」

二人が位置につく。

背後で魔獣が吠えた。エレナの怒声が重なる。剣がぶつかる音。

しばらくして、足音が近づいた。

「道は空けた」

エレナだった。剣先から黒い血が落ちている。呼吸が荒い。

レンを見た瞬間だけ、表情が止まった。

「エレナ」

「分かってる」

短く答える。

「前を開ける。マレクのいる救護地点まで戻す」

それ以上、何も言わなかった。


レンを担架へ移す。

肩。腰。できるだけ身体を捻らない。

持ち上げた瞬間、レンが短く息を漏らす。

俺は傷から手を離さない。

呼吸はある。意識もある。脈も触れる。

まだ、できることがある。

戻れば、マレクがいる。

治療魔法が使える。

フィーナも来る。

ここより、できることは増える。


「レン」

俺は呼びかけた。わずかに目が動いた。

「まだ間に合う」

願いだけで言ったんじゃない。

呼吸がある。意識もある。脈も触れる。

まだ手を打てる。

そう判断した。


「行くぞ!」

担架が持ち上がる。エレナが先に走る。

俺は血で濡れた手を離さないまま、その横を走った。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene25「大丈夫です」では、後方連絡地点にいたレンが魔獣の襲撃に巻き込まれ、ソウルが懸命に命をつなごうとする場面を描きました。


いつも「大丈夫です」と笑っていたレンが、今回初めて口にしたのは、「怖い」という言葉でした。

強がることも、誰かを安心させることもできない状況でこぼれたその一言を、ソウルは否定せず、ただ「ここにいる」と受け止めます。


けれど、まだ終わってはいません。

呼吸はある。脈もある。意識もある。

ソウルは「まだ間に合う」と判断し、レンをマレクのいる救護地点へ運び始めます。


次のSceneでは、その言葉どおり、本当にレンへ手を届かせることができるのか。

ソウルたちの「助けたい」という思いと、この世界の命の重さを、もう一段深く描いていきます。


次回、Scene26「まだ間に合う」。

届かなかった手を、それでも伸ばし続ける。

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