Scene 24 傷つく者たち
静まり返った森の先で、
傷ついた者たちが待っていた。
神殿も、覚醒派も。
敵も、味方も。
命が失われかけるその場所で、
ソウルは再び、救う側に立つ。
けれど、西街道の異変は、
まだ終わってはいなかった。
これは、
傷つく者を前に、立場を越えて手を伸ばす者たちの物語。
森から街道へ出てきた爪痕は、そのまま西へ続いていた。
俺たちは、横倒しになった荷車を残して先へ進んだ。誰も話さない。聞こえるのは、靴が湿った土を踏む音と、装備の擦れる音だけだった。
少し前を歩くリオルが、何度も森へ視線を向けている。
反対側では、エレナが覚醒派の者へ手で合図を送り、隊列を少し広げた。
さっきまで互いを疑っていた二つの集団が、今は同じ森を警戒している。同じ側に立ったわけじゃない。
ただ、ここに何かいる。その一点だけは、誰も否定しなかった。
背後から足音が近づいた。振り返ると、マレクだった。救護用の革袋を肩に掛け、少し息を切らしている。
「レンは」
俺が聞く。
「連絡地点まで連れていった。水と場所を確認させて、旧分岐から動くなと念を押した」
「分かった」
「何かあれば、あいつがラグナへ走る」
マレクはそれだけ言って、俺の横へ並んだ。これでいい。レンは後ろにいる。
前線じゃない。
そう思った時だった。
いつからか、鳥の声が聞こえなくなっていた。
「……止まれ」
フィーナが足を止めた。
「どうした」
「鳥がいない」
言われて、俺も耳を澄ませた。確かに、何も鳴いていない。朝の森でこれほど静かなのは、おかしかった。その時。
喉の奥に、いきなり重いものが押し込まれた気がした。息が詰まる。冷たい汗が首筋を伝った。場所は分からない。形も分からない。ただ、強い恐怖だけが、唐突に流れ込んできた。誰かの。何かの。
「ソウル」
フィーナの声で我に返った。
「……今、何か入ってきた」
声が掠れた。
「残響か」
「分からない。ただ――俺の感情じゃない」
フィーナは俺の顔を見たが、それ以上は聞かなかった。
リオルが片手を上げ、隊列を止める。
「囲みを崩すな。左右、離れすぎるなよ」
覚醒派の護衛たちも、無言で武器の柄へ手をかけた。
「血だ」
前方で、神殿騎士の一人が声を上げた。
街道の端。草の上に、黒く濡れた跡がある。その先に人が倒れていた。
「待て」
リオルが前へ出ようとした騎士を止める。
俺は倒れている男を見た。灰色の外套。輸送隊の護衛だ。うつ伏せで、片腕だけが不自然な方向へ伸びている。
「俺が行く」
「私も行く」
俺たちのやり取りを聞いて、リオルが周囲を確認した。
「二人つける」
「護衛より、森を見てくれ」
俺が言うと、リオルはすぐに騎士へ指示を飛ばした。
「左右を警戒。木の間から目を離すな」
俺とフィーナが男へ駆け寄る。
「聞こえますか」
肩へ触れる。反応がない。首元へ手を当てる。脈はある。弱い。呼吸もしている。
「仰向けにする」
フィーナが頷き、俺と一緒に身体を返した。
顔は土で汚れている。額に浅い傷。問題はそこじゃない。左の脇腹から腰にかけて、外套が赤黒く濡れていた。
「布を」
フィーナが俺の医療鞄を開く。
俺は清潔な布を傷へ当て、その上から強く押さえた。男の身体が大きく震える。
「……っ」
「聞こえますか。傷を押さえています」
薄く目が開いた。
「……向こう……」
「喋らなくていい」
「まだ……いる……」
男の目が街道の先へ動く。俺も見る。道は少し先で曲がり、木々の間へ消えている。
「他にも生存者がいるのか」
リオルが尋ねた。
男は小さく頷いた。
「荷車……二台……」
息が途切れる。
「もういい。休んでください」
フィーナが男の顔を見た。
「助かるか」
「今は止血が先だ」
「分かった」
それ以上、フィーナは聞かなかった。
俺は圧迫を続けた。
マレクがこちらへ来て、俺の隣に膝をついた。
「状態は」
「意識あり。呼吸あり。脈は弱い。左脇腹から出血。圧迫中」
「そのまま押さえろ」
マレクの手に淡い光が集まった。傷へかざす。光が身体へ沈み込むように広がる。
俺は男の顔を見続けた。
呼吸。顔色。声への反応。
治療魔法が使われていても、患者の変化を見逃していいわけじゃない。
「脈、少し戻ってる」
「圧迫は続けろ」
「分かった」
男の呼吸が、少し深くなった。
マレクが周囲を見る。
「俺はこいつを後ろへ送る。次を探せ」
次。
その一言で、胸の奥が冷えた。
まだ、負傷者がいる。
俺たちは街道の先へ急いだ。曲がり角を越えたところで、輸送隊の残りが見えた。二台目の荷車は道を塞ぐように横倒しになっている。三台目は片側の車輪を失い、木へぶつかって止まっていた。記憶瓶の箱が割れ、街道一面にガラス片が散っている。
そして。
人がいた。
一人。
二人。
三人。
倒れている者。木にもたれている者。片足を引きずりながらこちらへ歩こうとしている者。
「生存者だ!」
誰かが叫んだ。
「待て!」
リオルの声が飛ぶ。
その声とほとんど同時に、森の中で枝が折れた。大きな音だった。全員が止まる。
低い唸り声。木々の奥で、黒い影が動いた。最初に見えたのは目だった。次に、太い前脚。
四足。
狼に似ている。だが、狼と呼ぶには大きすぎる。肩の高さは、人の胸ほどある。右の脇腹が大きく裂けていた。普通ならまともに走れる傷じゃない。それでも、そいつは前脚へ体重をかけた。傷の周囲に、淡い光が滲んでいる。記憶瓶の破片で見たものに似た、不安定な光。胸の奥がざらついた。
「来る!」
エレナが叫んだ。
魔獣が地面を蹴る。俺の前へフィーナが出た。細身の剣を抜く。刃に淡い光がまとわりつく。振り下ろされた爪を正面から受けず、身体をずらして刃で軌道を外す。爪が地面を抉った。
「ソウル、下がれ!」
その声を聞きながら、俺は別の方を見ていた。
荷車のそば。人が倒れている。
「負傷者がいる!」
俺はそちらへ走った。
「ソウル!」
「フィーナ、周囲を頼む!」
一度だけ振り返る。フィーナは何か言いかけて、魔獣へ向き直った。倒れていたのは、さっきまで隊列にいた覚醒派の護衛だった。黒い外套。肩から腕にかけて深く裂けている。血が多い。
「聞こえるか」
「……ああ」
「指は動かせるか?」
男が指を少し動かす。
「そのまま。肩を押さえる」
清潔な布を当て、強く圧迫する。
「痛いぞ」
「もう痛い」
「そうだな。少し我慢してくれ」
男が苦しそうに息を吐いた。
背後で金属のぶつかる音がした。
「もう一頭いる!」
神殿騎士の声。
「街道側を塞げ!」
リオルが叫ぶ。
「南を空けるな!」
エレナの声が重なる。
木々の間から、二体目の影が飛び出した。覚醒派の護衛が横から斬りかかる。魔獣が身体を捻り、爪を振る。
「下がれ!」
神殿騎士の一人が割り込んだ。
盾へ爪が叩きつけられる。金属が軋む。覚醒派の男が尻もちをついた。一瞬、二人の目が合う。
「立てるか」
神殿騎士が手を伸ばした。
「……ああ」
覚醒派の男がその手を掴む。
別の場所では、腕を切られた神殿騎士を、覚醒派の女が後ろへ引いていた。命令より先に、人が人を助けていた。リオルがそれを見る。エレナも見た。
「このまま別々に動けば、退路を潰される」
リオルが言った。
「分かってる」
エレナが剣を構え直す。
「今だけだ」
「十分だ」
リオルが頷いた。
「神殿側は街道を押さえる! 覚醒派は森側! 負傷者をラグナ側へ下げろ!」
「聞いたな!」
エレナも仲間へ声を飛ばす。
「今は森を見ろ! 背中は向こうに任せる!」
さっきまで距離を取っていた者たちが、同じ方向を向いた。信じたわけじゃない。必要だからだ。
それでいい。
「ソウル!」
マレクの声。
俺は圧迫していた男の手を傷口へ導いた。
「ここを強く押さえて。離すな」
「分かった」
「立てるか?」
「たぶん」
近くにいた神殿騎士へ声をかける。
「肩を貸してくれ」
騎士は一瞬だけ覚醒派の男を見た。何も言わず、反対側へ入る。
「行くぞ」
「……神殿側に運ばれるとはな」
「喋れるなら歩け」
「偉そうに。……でも、助かる」
二人はそれ以上言わず、ラグナ側へ動き始めた。俺は次の負傷者へ向かった。若い神殿騎士。右脚を押さえて座り込んでいる。膝の下が不自然に曲がっていた。
「立つな」
「まだ戦えます」
「その脚で立ったら、運ぶ人間が一人増えるだけだ」
騎士が口を閉じる。
「フィーナ!」
呼ぶと、少し離れた場所で周囲を警戒していたフィーナがこちらを見る。
「何だ!」
「固定に使える板!」
フィーナが足元の壊れた荷箱を蹴り、細長い板を一本こちらへ滑らせた。
俺は布を巻き、板を脚の横へ当てた。
「今から固定する。痛むぞ」
「やってください」
膝の上と下。足首。締めすぎないように固定する。
「足の指、動かせるか?」
騎士が動かす。
「感覚は?」
「あります」
「よし」
近くにいた覚醒派の女へ声をかけた。
「この人を後ろへ」
俺が言うと、覚醒派の女が騎士を見る。
ほんの一瞬だった。
「歩けないんだな」
「無理だ」
俺が答えると、女は短く頷いた。
「分かった」
女は騎士の腕を自分の肩へ回す。
「重かったら言え」
「……すまない」
「今だけだからな」
騎士が少しだけ息を吐いた。
「……それでも助かる」
二人が下がっていく。その頃には、負傷者が次々とラグナ側の開けた場所へ集められていた。輸送隊の生存者。
神殿騎士。覚醒派の護衛。装備の色は違う。
けれど、流れる血に区別はなかった。
「ソウル、こっちを見ろ」
マレクが呼ぶ。
俺は駆け寄った。
「負傷者が多い。優先順位を決めるぞ」
「分かった」
「歩ける者は座らせる。動けない者から見る。強い出血と呼吸がおかしい者を先に回せ」
「はい」
頭が切り替わる。呼吸。意識。出血。痛む場所。動かせるか。歩けるか。マレクへ回すべきか。今ここで、俺ができることは何か。
「この人、先に!」
俺が声を上げる。
マレクが振り返る。
「理由は?」
「呼吸が浅い。右胸を強く打ってる。意識はあるけど、さっきより返事が遅い」
「こっちへ運べ!」
マレクがすぐに救護要員へ指示を出した。
次。
左腕から出血。
「この布を押さえて。自分でできるか?」
「できる」
「離さないでくれ」
次。
頭部の傷。
「名前は?」
「……ハロルド」
「ここがどこか分かる?」
「西街道」
「何があった?」
「獣……いや……急に……」
「もう喋らなくていい。目を閉じないで」
次。
脚の裂傷。出血は落ち着いている。
「この人は待てる」
「後でいいのか?」
近くの騎士が聞く。
「今すぐ命に関わる傷じゃない。先に呼吸がおかしい人を運ぶ」
騎士は一度だけ迷った。それから頷く。
「分かった」
俺は次へ動いた。
何人目か分からなくなった頃、俺の手は血で濡れていた。自分のじゃない。誰のものかも分からない。
それでも、頭は妙に静かだった。
病棟でもそうだった。呼吸が変わる。顔色が変わる。
呼びかけへの反応が変わる。
小さな変化を一つずつ拾う。ここにはモニターもない。検査機器もない。でも、人を見ることはできる。
「ソウル」
覚醒派の若い男が、血まみれの神殿騎士を連れてきた。
「こいつも見てくれ」
言いながら、男が騎士の顔を見た。動きが止まる。
「……こいつ」
声が硬くなった。
「旧市場区にいた奴だ」
騎士は意識がない。
覚醒派の男の手が、騎士の外套を強く掴んだ。
「俺の隣にいた奴を殴った奴だ」
周囲の空気が一瞬止まる。俺は騎士の胸へ手を当てた。呼吸は浅い。脈も弱い。
「今ここでは、どちら側かは関係ない」
覚醒派の男が俺を見る。
「でも――」
「関係ない」
男は何も言わなかった。握っていた外套から手を離す。ただし、騎士を放り出しはしなかった。地面へゆっくり下ろす。それで今は十分だった。
「マレク!」
俺が呼ぶ。
「こっちも呼吸が弱い!」
「運べ!」
再び手が動く。誰が神殿で。誰が覚醒派で。誰が輸送隊なのか。見る必要がなくなっていく。必要なのは、呼吸しているか。血が止まるか。返事があるか。今、助けられるか。それだけだった。
「ソウル」
マレクが短く呼んだ。
「何だ」
俺が振り返る。
「最初の脇腹の男」
一瞬、手が止まりかける。
「どうした?」
「落ち着いた。出血も抑えられてる」
胸の奥に、小さく息が入った。
「……助かった?」
「今はな」
マレクは俺を見る。
「止まるな。次がいる」
「分かってる」
それでも、一人が助かった。
その事実は、確かに残った。
俺は次の負傷者へ向かった。
前方では、剣と盾の音がまだ続いている。フィーナが魔獣の爪を外へ逸らし、リオルの騎士たちが街道側を押さえる。エレナたちは森側から回り込もうとする個体を牽制していた。
傷ついた一体が、地面を掻きながらもう一度身体を起こした。
その瞬間、胸の奥へまた何かが流れ込んできた。
痛い。
怖い。
――違う。
これは、俺のものじゃない。
「ソウル!」
フィーナの声で意識を戻す。
「救護に集中しろ!」
「ああ!」
今は考えるな。感じたものの正体は後でいい。
目の前にいる人間を見る。
戦っている者も傷ついていた。運ばれてくる者は増え続ける。
それでも、救護の手は止まらなかった。
「担架が足りない!」
「外套を二枚使え!」
「水をこっちへ!」
「この人は歩ける!」
「なら肩を貸して後ろへ!」
声が重なる。
神殿と覚醒派。もう、どちらの声なのか分からなくなる。
負傷者だけが、同じ方向へ運ばれていた。
ラグナ側。
救護地点。
生きている者を、生きているうちに後ろへ。それだけだった。
しばらくして、前方の音が少し遠のいた。
「街道上は押し返した!」
リオルの声が聞こえる。
「追うな!」
エレナも続ける。
「負傷者を先に下げる!」
「全員いるか!」
リオルが声を張る。
「神殿側、確認!」
「覚醒派も数えろ!」
エレナが続けた。
俺はようやく一度だけ息を吐いた。膝に手をつく。立てる。まだ動ける。
「ソウル」
フィーナが戻ってきた。
頬に細い血の跡がついている。
「怪我したのか」
「違う。返り血だ」
「本当に?」
「お前にだけは言われたくない」
フィーナが俺の手を見る。血で赤い。
「俺のじゃない」
「分かっている」
フィーナは短く息を吐いた。
「何人、助けた」
俺は周囲を見る。
座っている者。横たわっている者。名前を呼ばれ、返事をする者。マレクの治療を受けている者。
「……分からない」
フィーナは何も言わず、俺の返事を待った。
「でも、今ここにいる人たちは、みんな生きてる」
それだけ言った。フィーナは小さく頷いた。
その時だった。
街道の後方から、馬が走ってきた。速い。乗っているのは覚醒派の男だった。顔が青ざめている。
「エレナ!」
男は馬から飛び降りる。
「どうした」
エレナが駆け寄った。
「後方です」
「何があった」
「魔獣が一体、前線を抜けました」
周囲の空気が変わる。
「どこへ」
リオルが問い返す。
「街道を外れて、森伝いにラグナ側へ。連絡地点の方向です」
俺の手が止まった。連絡地点。旧分岐から動くなと念を押した場所。レンがいる。
「救護地点は?」
マレクの声が低くなる。
男が息を整えながら答えた。
「救護地点の状況は、まだ分かりません。確認に出した伝令も戻ってきていません」
胸の奥が冷えた。俺は顔を上げた。街道の向こう。ラグナへ続く道を見た。レンがいる方向を。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene24「傷つく者たち」では、
西街道で生存者を見つけたソウルたちが、魔獣の襲撃の中で救護にあたりました。
神殿と覚醒派。
立場の違う者たちが、傷ついた人を前に一時的に手を取り合う。
そしてソウルもまた、看護師として培ってきた力で、目の前の命をつなぎ止めていきます。
「今ここでは、どちら側かは関係ない」
その言葉どおり、Scene24では救える命が確かにありました。
けれど、異変は前線だけでは終わりません。
前線を抜けた魔獣が向かった先には、後方の連絡地点があります。
そして、そこにはレンがいます。後方は無事なのか ――。
次回、Scene25「大丈夫です」。
どうぞよろしくお願いいたします。




