Scene 23 西街道
静かな朝は、いつも通りに始まった。
時計の音。
焼いた黒パンの匂い。
交わされる、たわいもない言葉。
けれど、その日常の先で、
西街道へ向かった輸送隊との連絡が途絶える。
神殿と覚醒派。
互いを疑いながらも、同じ異変を追う者たち。
まだ、誰も知らない。
そこに残されているものが、
人の手だけでは説明できないことを。
これは、
戻りかけた日常の向こうで、
新たな異変の気配に触れる者たちの物語。
朝、最初に聞こえたのは、時計の音だった。
カチ。
カチ。
カチ。
工房の壁に並んだ時計が、それぞれの時間を刻んでいる。少し進んだもの。遅れたもの。針の止まったもの。その下には、昨夜の豆と根菜の煮込みと、焼いた黒パンの匂いが残っていた。
「今日は焦げてません」
レンが黒パンを二つに割りながら言った。
「聞いてない」
俺が返すと、レンは少し不満そうに眉を上げた。
「先に言っておいた方が安心するかと思って」
「昨日の焦げた方は忘れたのか?」
「忘れてません」
「なら、安心はできないな」
「ひどいですね」
レンが木皿へパンを並べる。
フィーナは向かいで、湯気の立つ椀を両手で包んでいた。口には出さないが、レンのやり取りを聞いているらしい。口元がわずかに緩んでいる。
数日前まで、ラグナの旧市場区には神殿兵が立っていた。
縄で区切られた道。運び出される記憶瓶。怒鳴り声。泣く声。名前を書き留める俺の手。
今も、全部が元に戻ったわけではない。
閉まったままの店がある。
見かけなくなった人もいる。
それでも朝になればパンを焼く匂いがして、市場へ向かう荷車が石畳を軋ませる。
ガルムの時計も動く。
ラグナは、そんなふうに日常へ戻ろうとしていた。
「ソウル」
フィーナに呼ばれた。
「何だ」
「詰めすぎだ」
フィーナが視線を落とした先に、俺の医療鞄があった。
しゃがんで蓋を押す。
少し浮いている。
「そうか?」
このあと施療所へ寄るつもりで、朝のうちにいつもより多めに詰めていた。
「昨日より膨らんでいる」
「使うかもしれないだろ」
「何を入れた」
フィーナに聞かれ、俺は留め具を外した。
包帯。清潔な布。紐。針と糸。小瓶。水筒。記録帳。炭の筆記具。それと、小型の砂時計。
「全部使うつもりか」
「使わずに済むなら、その方がいい。でも、必要になった時に足りないのは困る」
俺が答えると、フィーナは少し黙った。
「……そうだな。念のため、か」
それだけ言って、自分の外套の留め具を確かめる。
俺も鞄を閉じ直した。
その横では、レンが布に包んだパンを伝令鞄へ入れていた。
ガルムの手が伸びた。
「貸せ」
「え?」
「鞄だ」
レンが肩掛け鞄を渡す。
ガルムは椅子に座ったまま、革の肩紐を強く引いた。金具を押し、縫い目を指でなぞる。次に鞄の底を片手で支え、もう一度留め具を確かめた。
「壊れてませんよ」
レンが言う。
「壊れてから直すのは遅い」
ガルムは鞄を返さず、今度はレンの足元を見た。
「右」
「はい?」
「靴紐」
「あ」
レンが自分の右足を見下ろした。
結び目が少し緩んでいる。
「昨日、ちゃんと結びました」
「昨日は今日じゃねえ」
ガルムが短く返す。
「はい」
レンは素直にしゃがんだ。
結び直す少年を、ガルムは黙って見ていた。
いつもの仏頂面だった。
それ以上のことは何も言わない。
俺は黒パンを口へ運んだ。
固い。
だが、昨日よりはいい。
「今日はちゃんと食えるな」
「今日も、です」
レンがすぐに言い返した。
「昨日は焦げてただろ」
「少しです」
「半分黒かったぞ」
「焼き加減の問題です」
「それを焦げたって言うんだ」
「ソウルさんまでガルムじいちゃんみたいなこと言わないでください」
「俺はそこまで口悪くねえぞ」
ガルムが横から言った。
レンがそちらを見る。
「気にするの、そこなんですか?」
小さく笑いが起きた。
その直後だった。
工房の扉が、三度、強く叩かれた。
空気が変わった。
レンの顔から笑いが消える。
ガルムが扉へ目を向けた。
「開いてる」
入ってきたのはマレクだった。
肩で息をしている。いつもの施療鞄とは別に、薬品や布を詰めた革袋を二つ下げていた。
「朝から悪い」
「患者か」
俺は立ち上がった。
マレクが首を振る。
「まだ分からん」
一度、息を整える。
「西街道の輸送隊と連絡が切れた」
工房の中に、時計の音だけが残った。
カチ。
カチ。
「輸送隊?」
俺が聞く。
「数日前の浄化で回収した記憶媒体だ。ヴェスタ中央へ運ぶ予定だった」
マレクの言葉に、フィーナの目が細くなった。
破損した記憶瓶。
未登録の瓶。
違法に採取された記憶。
証拠として保全された媒体。
あの騒ぎの後、ラグナでは扱いきれないものを中央へ送ると聞いていた。
あの地下で、十九人の避難を待った夜のことを思い出す。切り離された記憶。動かなくなった検査の紙。あの夜に集められたものの後始末は、まだ続いていた。
終わっていなかった。
「いつ出た」
ガルムが聞いた。
「夜明け前だ」
「人数は?」
今度は俺が聞く。
「護衛を含めて十二人。荷車が三台」
「最後の連絡は?」
「西の旧分岐を越える前。予定なら、もう次の確認地点へ着いている」
マレクの答えに迷いがない。
先に必要なことを調べてきたらしい。
「怪我人がいる可能性は」
俺が聞くと、マレクは俺の目を見た。
「ある」
それで十分だった。
俺は医療鞄を持ち上げた。
フィーナがこちらを見る。
「行くのか」
「怪我人がいるなら」
「そう言うと思った」
フィーナは立ち上がり、剣帯を確かめた。
「お前も来るのか」
「お前一人で西街道へ行かせる方が面倒だ」
「信用されてるのか、されてないのか分からないな」
「両方だ」
「なるほど」
「納得するな」
フィーナが即座に返した。
マレクが小さく息を吐く。
「続きは歩きながらにしろ。西街道口でリオルたちが待ってる。覚醒派側も来る」
「両方か」
俺が聞き返す。
「ああ。だから面倒なんだ」
マレクがそう言った時、レンが立ち上がった。
「俺も行きます」
「前線には出るな」
ガルムが即座に言った。
レンが口を閉じる。
「……分かってます」
「まだ役目も決まってねえだろ」
「でも、伝令は要ると思います」
レンはガルムではなく、マレクを見た。
マレクは少し考えた。
「ラグナと救護地点の間を往復する伝令なら頼める」
「できます」
「旧分岐より先には行くな。前線からの連絡は、そこで受け取れ」
「はい」
マレクが念を押すと、レンは今度は真面目に頷いた。
ガルムは伝令鞄をレンへ返した。
「持て」
「はい」
「死ぬな」
一瞬、レンの手が止まった。
それから、紐を握り直す。
「言われなくても」
「言う」
ガルムはそれ以上、何も言わなかった。
そのやり取りを聞きながら、俺は医療鞄を肩へ掛けた。
ガルムも工房を出た。レンを送り出すところまでは一緒に来るつもりらしい。
工房を出た時、朝の市場は動き始めていた。
パンを並べる声。
荷車の車輪。
店先へ水を撒く音。
数日前まで怒号のあった通りを、今日は子どもが走っている。
市場の端、板を打ちつけただけの空き店の前で、レンが足を止めた。
「ここ、パン屋にするなら悪くないと思うんです」
「まだ諦めてなかったのか」
「諦めませんよ」
レンはそう言って、そのまま歩き出した。
ラグナの西側へ向かうにつれ、家並みは低くなり、人の数も減っていった。
市場の音が遠ざかる。
代わりに、風に揺れる木の葉と、朝の鳥の声が近くなった。
普段なら、この時間は商人や農民の荷車が何台も行き交う。
だが今日は、街道へ向かう者より、ラグナへ戻ってくる者の方が多かった。
「この先、通れなくなってるぞ」
すれ違った荷車の男が俺たちへ声をかけた。
「神殿の騎士が道を押さえてる」
「何かあったんですか」
レンが尋ねた。
男は首を振った。
「知らん。荷車が戻ってこないとか、魔獣が出たとか、そんな話だ」
それだけ言って、男はラグナの方へ歩いていった。
フィーナが背中を見送る。
「まだ噂だけだな」
「ああ」
俺が答える。
「騒ぎになる前に戻れればいい」
フィーナの言葉に、俺は返事をしなかった。
西街道口には、すでに十数人が集まっていた。
白と灰を基調にした神殿騎士。
その前に立っているのはリオルだ。
少し離れた場所には、黒と深紅の装備をした覚醒派の者たちがいる。
エレナもいた。
互いに剣を抜いてはいない。
だが、近づこうともしていない。
数日前、旧市場区で向かい合っていた時と、ほとんど同じ距離だった。
「来たか」
リオルがこちらを見る。
最初にマレクへ目を向け、その後、俺の医療鞄を見た。
「助かる」
「まだ怪我人がいるかも分からないんだろ」
俺が言うと、リオルは短く頷いた。
「だからだ」
視線がレンへ移る。
「今日は転ぶなよ」
「転んでません」
レンがすぐに言い返した。
「まだ、な」
リオルはそれだけ言うと、視線を街道へ戻した。
その声を聞いて、エレナがこちらへ歩いてきた。
前に会った時より顔色は戻っている。
ただ、目の下の薄い影は消えていなかった。
「覚醒派を疑っているんでしょう」
エレナが言った。
「可能性を捨てていないだけだ」
リオルが短く返した。
「こちらも同じです。神殿が証拠を消すために輸送隊を止めた可能性を、捨てていません」
エレナはそう言って、リオルから視線を外した。
二人の間に沈黙が落ちた。
俺は口を挟んだ。
「今、それを言い合ってる場合か?」
リオルとエレナの視線が、同時に俺へ向いた。
「連絡が切れた人間が十二人いる。先にそっちを確認した方がいい」
エレナが唇を閉じた。
リオルが息を吐く。
「そうだな」
マレクが地面へ簡単な街道図を広げた。
炭で引かれた一本の道。
途中に二つの分岐。
リオルが指を置く。
「最後に連絡があったのはここ。旧石橋の手前だ」
「その後、こちらから二人出しています」
エレナが別の地点を示した。
「街道沿いを確認させました。でも戻っていません」
「二人とも?」
俺が聞く。
「ええ」
空気が少し変わった。
輸送隊だけなら、盗賊や襲撃という説明もできる。
だが、その後に向かった人間まで戻らない。
フィーナが地図を覗き込んだ。
「森側へ逸れた可能性は」
「ある」
リオルが答える。
「ただ、荷車三台が同時に入れる道はない」
「なら、少なくとも荷車は街道上に残っているはずだ」
フィーナが言う。
「壊されていなければな」
エレナが続けた。
リオルが何か返しかけて、やめた。
俺は地図から目を上げる。
「救護場所は?」
マレクがラグナ側の分岐を指した。
「ここに置く。前へ行きすぎない。動ける怪我人はここへ戻す。動かせないなら、俺たちが行く」
「人手は?」
「まずは今いる人数で動く。足りなければ、ラグナから呼ぶ」
マレクの答えを聞いて、レンが一歩前へ出た。
「連絡は俺がやります」
エレナがレンを見る。
「前には出るな」
「はい」
「この分岐とラグナの間だけだ。向こうから呼ばれても、旧分岐より先へ来るな」
「分かってます」
レンが頷く。
その横から、ガルムが低い声を出した。
「分岐より先へ行くな」
レンが振り返る。
「ガルムじいちゃん、今エレナさんにも言われました」
「二度言われるくらいでちょうどいい」
「信用ないですね」
「ない」
「即答ですか」
レンが口を尖らせた。
ガルムは返事をせず、レンの伝令鞄の金具をもう一度押した。
朝、工房で確かめた場所と同じだった。
俺もレンを見る。
「危なくなったら戻れ」
「はい」
「大丈夫だから残る、とか言うなよ」
一瞬。
レンの目が俺を見た。
それから、小さく笑った。
「分かってます」
俺は、それ以上言わなかった。
マレクが救護用の荷を持ち上げた。
「レン。まずは俺と連絡地点まで来い。場所を覚えろ」
「はい」
レンが水の入った革袋を担ぎ、マレクの後を追う。
数歩進んだところで、レンが振り返った。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ」
俺が手を上げる。
ガルムは何も言わなかった。
ただ、レンが前を向くまで見ていた。
やがてレンとマレクの姿が、街道の手前の人影へ紛れていった。
その後、調査に出る者が分かれた。
神殿側はリオルを中心に街道の北寄り。
覚醒派側はエレナを中心に南寄り。
完全に一緒には動かない。
互いの隊が見える距離だけ保つ。
俺とフィーナは、その中間に入った。
共同調査というより、互いを監視しながら同じ場所へ向かっているように見えた。
街道を進み始めたのは、朝の陽が木々の上へ出た頃だった。
市場の音はすぐに遠くなった。
残るのは靴音と、湿った土の匂い。
昨夜の雨が、荷車の轍に薄く溜まっている。
俺の右後ろを歩いていたフィーナが、不意に言った。
「近い」
「何が」
「さっきから二度、私の足を踏みそうになっている」
「悪かった」
「一度なら偶然だ」
「二度なら?」
「注意不足」
「三度なら?」
フィーナが横目で俺を見る。
「蹴る」
「気をつける」
俺が答えると、フィーナは前を向いた。
口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。
意識して歩幅を合わせた覚えはなかった。
それでも、いつの間にか同じ歩幅で歩けるようになっていた。
少し先で、リオルが手を上げた。
「止まれ」
全員の足が止まる。
街道脇の茂みに、灰色の布が引っかかっていた。
神殿の印が入った外套の一部。
裂けている。
リオルが近づき、布を拾い上げた。
「輸送隊の護衛のものだ」
「血は?」
俺が聞く。
「見える範囲にはない」
リオルが布を返す。
その先の土が、大きく抉れていた。
エレナがしゃがみ込む。
「剣の跡じゃない」
俺も少し離れて地面を見る。
一直線の傷ではない。
何か重いものを引きずったような跡。
その脇の木の幹には、太い爪で何度も掻いたような深い傷が残っていた。
「魔獣か」
神殿騎士の一人が呟いた。
「まだ断定はできないが、警戒を上げろ」
リオルがすぐに指示を飛ばした。
そこから先、聞こえるのは足音と装備の擦れる音だけになった。
さらに数分進む。
最初に見えたのは、車輪だった。
街道の端。
一本だけ。
車軸から外れ、泥の中へ半分沈んでいる。
「止まれ」
今度はエレナが声を上げた。
全員が足を止める。
その先に、横倒しになった荷車があった。
木枠が裂けている。
外から押し潰されたというより、内側から何かが弾けたような壊れ方だった。
馬はいない。
人影もない。
リオルが二人の騎士へ手で合図し、左右を確認させる。
エレナも覚醒派の一人へ森側を見るよう指示した。
フィーナが俺の前へ半歩出た。
「ソウル、下がれ」
「分かった」
荷車へ近づく。
足元で、小さなものが光った。
ガラス片。
いや。
記憶瓶だったものだ。
いくつも割れている。
透明な破片の内側に、淡い光が残っていた。
色の定まらない光が、消えかけるように揺れている。
胸の奥が、ざらついた。
触れていない。
それなのに。
耳の奥へ、何かが引っかかる。
声ではない。
音でもない。
息を詰めた時のような感覚だけが残る。
「ソウル?」
フィーナの声がした。
俺は顔を上げた。
「どうした」
「……何か、引っかかる」
俺が答えると、フィーナの表情が変わった。
「記憶瓶か」
「分からない。……でも、それだけじゃない気がする」
本当に、それしか言えなかった。
荷車の向こうへ回っていたリオルが、急に足を止めた。
「エレナ」
低い声だった。
呼ばれたエレナが近づく。
「何です」
リオルは答えず、地面を指した。
エレナも黙った。
俺たちも近づく。
街道の土に、大きな跡が残っていた。
人の足ではない。
馬でもない。
何本もの爪が、深く地面を抉っている。
その跡は荷車の周囲を回り、割れた記憶瓶の上を通り、森の奥へ続いていた。
だが。
おかしい。
「こっちだけじゃない」
フィーナが先に気づいた。
彼女が指した先にも、同じ爪痕がある。
森へ入っていく跡ではない。
反対だった。
森から街道へ出てきている。
さらに別の跡が、輸送隊の進んだ西へ続いていた。
俺は医療鞄の肩紐を握った。
指先に力が入る。
これは、人間同士の争いだけではない。
胸の奥のざらつきは、まだ消えていなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene23「西街道」では、
黒パンを囲む穏やかな朝から一転し、
西街道で途絶えた輸送隊の行方を追うことになりました。
神殿と覚醒派。
まだ互いへの疑いを残しながらも、同じ異変へ向かう者たち。
そして街道に残されていたのは、
人間同士の争いだけでは説明できない痕跡でした。
レンは後方の伝令として。
ソウルとフィーナは調査隊とともに。
それぞれが、自分にできる役目を選んで動き始めます。
次回は、西街道のさらに奥で、異変の正体が少しずつ姿を見せ始めます。
傷ついた者たちを前に、ソウルは再び「救う側」として動くことになります。
次回、Scene24「傷つく者たち」、お楽しみに!




