閑話4 焦げる前に言え
戦いでもなく。
魔法でもなく。
誰かを救うための夜でもない。
ただ、同じ場所に集まって、
同じ鍋を囲んで、
失敗を笑って、
少し焦げた夕食を食べる。
そんな何でもない時間ほど、
あとになって思い出すものなのかもしれません。
ソウルとフィーナ。
レンとガルム。
少しずつ近づいてきた四人が、
ひとつの食卓を囲む。
これは、
焦げかけた鍋の向こうで、笑い声が増えていく物語。
施療所から工房へ戻った頃には、空がすっかり茜色に染まっていた。
ラグナの通りには夕食の匂いが流れている。焼いた肉。煮た豆。香辛料。どこかの家からは、鍋の蓋が鳴る音まで聞こえてきた。
腹が減っていた。
工房の扉へ手を掛ける。
そこで、別の匂いに気づいた。
焦げてはいない。
まだ。
けれど、何かが鍋の底で危ないところまで来ている匂いだった。
扉を開ける。
最初に見えたのは、火床の前に立つレンだった。
袖を肘までまくり、大きな木匙を握っている。火の上には、普段ガルムが湯を沸かす時より一回り大きな鍋が掛けられていた。
その隣では、フィーナが根菜を切っている。
奥の作業台にはガルム。こちらはいつもと変わらず、時計の裏蓋を開けていた。
俺は三人を順番に見た。
それから鍋を見た。
もう一度、レンを見る。
「何してる」
「夕食です!」
レンが胸を張った。
「それは見れば分かる。誰が作ってる」
「僕です!」
嫌な予感、というほどではない。
ただ、少しだけ鍋から目を離したくなくなった。
「今日はパンじゃないんだな」
「昨日の黒パンが余ったんです」
レンは台の上を指した。
布の上に、少し硬くなった黒パンが三つ置かれている。売り物にならなかった形の崩れたものも混じっていた。
「捨てるのはもったいないので、煮込みにします」
「店を出した時の練習か」
「はい。売れ残ったパンも食べられたら、無駄にならないですから」
それは、悪くない考えだった。
「いいんじゃないか」
俺が言うと、ガルムが作業台から顔も上げずに続けた。
「考えはな」
レンが振り返った。
「まだ食べてもないでしょう!」
「鍋を見れば分かる」
「何がですか」
「火が強い」
レンが慌てて鍋へ向き直った。
俺も火床を見る。
確かに強い。
「レン、薪を一本抜いた方がいい」
「大丈夫です!」
「その言葉が出た時ほど大丈夫じゃないんだよ」
俺が言うと、フィーナも包丁を動かしたまま頷いた。
「同感だ」
「フィーナさんまで」
レンは口を尖らせながら、火床から細い薪を一本抜いた。
鍋の中には、豆と刻んだ根菜、それに小さくちぎった黒パンが入っていた。湯気は出ている。匂いも、今のところは悪くない。
「フィーナも手伝ってるのか」
俺が聞くと、フィーナは切り終えた根菜を木皿へ寄せた。
「切っているだけだ」
「ずいぶん揃ってるな」
「旅をしていれば、このくらいはやる」
「料理できるのか」
フィーナの手が止まった。
「切ることはできる」
「聞き方を変える。料理は?」
「切ることはできる」
「二回言ったな」
レンが笑った。
「フィーナさん、味付けは僕に任せるって言いました」
「賢明な判断だな」
俺が言うと、フィーナがこちらを見た。
「お前は何ができる」
「食べる」
「役に立たないな」
「帰ってきたばかりの人間に厳しくないか」
「では、手を洗え」
フィーナが顎で水桶を示した。
言われるまでもなく、そのつもりだった。
手を洗いながら、レンの作業台を見る。
生の肉を切った板の横に、刻みかけの野菜が置いてあった。
「レン」
「はい」
「肉を切った板で、そのまま野菜を切るな」
「どうしてですか?」
「腹を壊すことがある」
「火を通せば大丈夫じゃないんですか?」
「全部が全部、そう思わない方がいい。少なくとも、分けられるなら分けろ」
レンは板と野菜を見比べた。
「分かりました」
「素直だな」
「お店を出すなら、お客さんがお腹を壊すのは困ります」
「それは本当に困る」
奥からガルムの声が飛んだ。
「肉より鍋だ」
レンが振り返る。
「今度は何ですか!」
「混ぜろ」
「あっ」
レンが慌てて木匙を掴んだ。
鍋の底を擦る。
ごり、と嫌な音がした。
四人とも止まった。
レンがゆっくり俺を見る。
「……大丈夫です」
「今の音を聞いて、よく言えたな」
「まだ焦げてません」
フィーナが鍋の湯気を嗅いだ。
「少し焦げている」
「少しなら大丈夫です!」
ガルムがようやく作業台から顔を上げた。
「水を足せ」
「どれくらいですか」
「少しだ」
「少しってどれくらいですか」
「鍋を見ろ」
「見ても分からないから聞いてるんです!」
俺は水差しを取った。
「貸せ。少しずつ入れる」
「ソウルさん、分かるんですか?」
「分からない」
「えっ」
「でも、一気に入れて薄くするよりはましだろ」
「それはそうですね」
水を少し入れる。
レンが混ぜる。
フィーナが鍋を覗く。
ガルムはまた時計へ視線を戻していた。
「そこまで分かってるなら、手伝えばいいのに」
俺が言うと、ガルムは小さな歯車を磨きながら答えた。
「俺は時計を直している」
レンがガルムの手元を見た。
「さっきから同じ歯車を磨いてません?」
ガルムの手が止まった。
一拍。
「鍋を見ろ」
「やっぱりこっちが気になって見てたんですね」
「鍋を見ろ」
レンの声に笑いが混じった。
俺も笑った。
フィーナは笑わなかった。
ただ、包丁を置いた時、口元が少しだけ緩んでいた。
鍋は、ひとまず危機を脱したらしい。
次は味だった。
レンが木匙ですくい、小皿へ少し移す。
最初に差し出されたのは、フィーナだった。
「味見してください」
「嫌だ」
即答だった。
「まだ食べてもないじゃないですか」
「だから嫌だ」
「意味が分かりません」
「私に最初に食べさせるな」
「信用してください!」
「鍋の底を焦がした人間が言う言葉ではない」
レンが俺を見る。
「ソウルさん」
「俺に回すな」
「さっき食べるのが役目だって言ったじゃないですか」
「そんな立派なことは言ってない」
ガルムが作業台から言った。
「自分で食え」
レンが黙った。
小皿を見る。
俺たちを見る。
もう一度、小皿を見る。
「……大丈夫です」
「食べる前から言うな」
レンは覚悟を決めたように、一口食べた。
しばらく噛む。
「どうだ」
俺が聞く。
レンは首を傾げた。
「薄いです」
「水を足したからな」
俺が言うと、レンは塩へ手を伸ばした。
「塩を入れます」
「待て」
フィーナが止めた。
「何ですか?」
「その匙で入れるな。多い」
レンが持っていた木匙には、塩が山になっていた。
俺は思わず言った。
「入れる前に量を聞け」
「難しいですね、料理」
「今さら気づいたのか」
フィーナが塩を指先で少しだけ取り、鍋へ落とした。
レンが混ぜる。
今度はフィーナが自分から小皿を取った。
一口。
少し考える。
レンが身を乗り出した。
「どうですか?」
フィーナはもう一口食べた。
「前回作った時よりはいい」
「本当ですか!」
「声が大きい」
「だって、フィーナさんが褒めました!」
「褒めていない」
「『いい』って言いました!」
「『前回よりは』と言った」
「前進です!」
レンは満足そうだった。
その横で、俺とフィーナの目が合った。
どちらからともなく、同じ鍋を見た。
少し前なら、フィーナが味見をするだけでレンはもっと騒いでいたかもしれない。
今は、それもこの工房の中では珍しくなくなり始めている。
俺は何も言わなかった。
フィーナも言わなかった。
夕食が出来上がった頃には、外は暗くなっていた。
工房の中央に小さな卓を出す。
四人で囲んだ。
皿へよそうと、煮込みは思っていたより形を保っていなかった。黒パンは汁を吸い、豆と根菜の間で半分ほど崩れている。
見た目だけなら、あまり期待はできない。
匂いは悪くなかった。
俺は一口食べた。
少し焦げた味がする。
でも、豆の甘さと塩気が合っている。黒パンも汁を吸って柔らかくなっていた。
「どうですか?」
レンが俺の顔を覗き込む。
「普通にうまい」
「普通ですか……」
「うまいって言ってるだろ」
「もう少し驚いてくれてもいいと思います」
レンが不満そうに匙を置いた。
「じゃあ、驚くほど食べられる」
「それ、褒めてます?」
「半分くらいは」
ガルムが向かいから言った。
「焦げている」
レンがすぐに振り返る。
「そこはもういいじゃないですか!」
「焦げているものを焦げていると言っただけだ」
「味はどうですか」
ガルムは答えず、匙を動かした。
レンが待つ。
ガルムはもう一口食べた。
「ガルムさん」
「何だ」
「味は?」
「食える」
レンの顔が明るくなる。
「それ、かなり高い評価ですよね?」
「勝手に決めるな」
「だって、二杯目です」
ガルムの手が止まった。
見ると、確かに器はほとんど空だった。
「小さい器だ」
「同じ器です」
俺が言うと、ガルムがこちらを見る。
「お前は黙って食え」
「はいはい」
隣では、フィーナが自分の器へもう一杯よそっていた。
レンが見逃さなかった。
「フィーナさんも二杯目ですね!」
フィーナの手が止まる。
「確認だ」
「何をですか?」
「一杯目と同じ味か」
俺は匙を置いた。
「鍋は同じだぞ」
「知っている」
「じゃあ確認になってないだろ」
「うるさい」
レンが笑った。
ガルムが三杯目をよそった。
今度は誰も言わなかった。
言わなくても、レンは見ていた。
嬉しそうに口元を緩めている。
「次は、焦がしません」
レンが言った。
俺は空になりかけた鍋を見た。
「まず、焦げていないパンを一つでも作ってから言え」
「大丈夫です!」
「それが信用できない」
俺が言う。
「信用できないな」
フィーナも続けた。
「同感だ」
最後にガルムが言った。
三人の声がほとんど重なった。
レンが目を丸くする。
「ひどくないですか?」
今度は、誰からともなく笑いが出た。
工房の壁では、いくつもの時計がそれぞれの音を刻んでいる。
卓の中央にあった鍋は、いつの間にか空になっていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
閑話4「焦げる前に言え」では、
ソウル、フィーナ、レン、ガルムの四人が、ひとつの鍋を囲む何でもない夕食の時間を描きました。
レンが挑戦したのは、余った黒パンを使った煮込み料理。
火が強い。
鍋は焦げかける。
塩は入りすぎそうになる。
それでも、誰かが手を出し、誰かが口を出し、最後にはみんなで同じものを食べる。
この話で描きたかったのは、特別な出来事ではありません。
一緒に笑うこと。
失敗をからかうこと。
文句を言いながら、もう一杯よそうこと。
そういう小さな積み重ねの中で、人と人との距離は少しずつ近づいていくのだと思います。
ガルムは相変わらず口数が少なく、フィーナも素直に褒めません。
ソウルも、それを「家族のようだ」と言葉にはしません。
けれど、同じ鍋を囲んでいる四人を見ていると、書いている側としても、いつの間にかこの工房が彼らにとってひとつの居場所になりつつあるのだと感じました。
そして何より、今回はレンの明るさをたっぷり描きたかった一話でもあります。
「大丈夫です!」と言いながら失敗して、それでも懲りずに次へ進む。
そんなレンらしい日常を、もう少しだけ皆さんにも見てもらえたらと思っています。
次はいよいよ、第4章へ。
何でもない日々の中で積み重なってきたものが、これからの彼らの選択や想いに、少しずつつながっていきます。
引き続き、
『テルナ・ヴァイド ―失われた神と残された記憶―』を楽しんでいただければ嬉しいです。




