閑話3 息を数える (第3章の後)
魔法では、届かない苦しさがある。
傷を塞ぐことも、
病を消すこともできない。
それでも。
呼吸を数えること。
少し楽な姿勢を探すこと。
一口の水を、急がず待つこと。
派手な奇跡ではなく、
誰かの苦しさをほんの少し軽くするために、
ソウルがこの世界で、
自分にできることを確かめていく。
これは、
治せなくても、そばでできることを探し続ける物語。
朝から、施療所は騒がしかった。
扉が開くたび、湿った外気と一緒に人の声が流れ込んでくる。
咳。
子どもの泣き声。
木桶を床へ置く音。
薬草を刻む乾いた音。
旧市場区を巡る騒ぎがひとまず収まってから、まだ何日も経っていない。
ラグナの街は動き始めていたが、施療所へ来る人の数は減っていなかった。
俺は壁際の寝台で、包帯を巻き終えた男の腕を確認した。
「指、動かせますか」
男が二度、握って開く。
「痛みは」
「さっきよりましだ」
「なら、今日は荷車を押さないでください」
「それは無理だな」
「じゃあ、せめて片手で持てない物は持たない」
「細かいな」
「細かく言わないと、またここに来ることになります」
男は渋い顔をしたが、最後には頷いた。
「ソウル」
奥からマレクの声が飛んだ。
振り返ると、別の寝台へ向かいながら片手で俺を呼んでいる。
「こっちだ」
俺は医療鞄を肩へ掛け直し、後を追った。
窓際の寝台に、痩せた年配の女性が座っていた。
六十を越えているように見える。もっと上かもしれない。
胸は薄く、肩が上下するたび、鎖骨の下が大きくへこんだ。
横になるのが苦しいらしく、背中を壁へ預けたまま、浅い呼吸を繰り返している。
寝台の脇には、娘らしい中年の女性がいた。
濡らした布で、母親の額を拭いている。
「昨日から息が苦しい」
マレクが言った。
「熱は高くない。胸の音も前から悪い。治癒をかけても大きく変わらん」
「薬は」
「いつもの煎じ薬を使っている」
マレクは老母の顔を見た。
「今日は急に悪くなったわけじゃない。だが、楽な状態でもない」
それから俺を見る。
「しばらく、お前が見ろ」
返事が一拍遅れた。
「俺が?」
「聞こえなかったか」
「聞こえました」
「なら返事をしろ」
「……はい」
マレクはもう次の寝台を見ていた。
「変わったことがあれば呼べ。分からなくても呼べ。分かったつもりで放っておくな」
「はい」
「それから」
振り返らないまま言った。
「死にそうになってから呼ぶな」
「それは分かってます」
「ならいい」
そのまま、別の患者のところへ行った。
残された俺を、老母と娘が見ていた。
娘の視線は、俺の腰にも手にも一度ずつ向いた。
魔法士が使う術具を探したのだと思う。
「治療師さんでは、ないんですよね」
「はい」
正直に答えた。
「魔法も使えません」
娘の表情が、少しだけ固くなった。
無理もない。
息の苦しい母親を任された相手が、治療師でも魔法士でもない。
不安にならない方がおかしい。
「マレクさんが戻るまで、状態を見ます」
俺は老母の前へしゃがんだ。
「名前を聞いてもいいですか」
「エマ」
声は小さい。
言葉の途中で息を足している。
「エマさん。今、一番つらいのは息ですか」
頷いた。
「痛いところは」
「背中が……痛い」
長く同じ姿勢で座っていたのだろう。
腰の後ろへ手を入れると、丸めた布はすでに潰れていた。
「お名前は」
俺は娘にも聞いた。
「ノーラです」
短い返事だった。
俺は医療鞄から、小さな砂時計を出した。
ガルムから渡されたものだった。
金属の枠。淡い灰色の砂。
ひっくり返す。
砂が細く落ち始めた。
「何をしているんですか」
娘が聞いた。
「呼吸を数えます」
エマの胸と肩を見る。
一つ。
二つ。
速い。
浅い。
途中で咳が入り、そのたび肩へ余計な力が入った。
砂が落ち切るまで数え、木炭筆で記録帳へ数字を書いた。
次に、背中へ入っていた布を抜いた。
「少し身体を動かします」
エマが頷く。
「苦しくなったら、すぐ言ってください」
娘にも手を借り、身体を少し前へ起こした。
膝の上へ厚く畳んだ布を置き、そこへ腕を預けてもらう。
背中は丸くなる。
ただし、胸を押しつぶさない程度に。
「この姿勢の方が、少し楽ですか」
返事はすぐにはなかった。
エマは何度か呼吸をした。
「……少し、楽です」
娘が母親の顔を覗き込んだ。
「本当?」
「ノーラ、少し良くなったわ」
まだ呼吸は速い。
楽になった、と決めるには早い。
俺は潰れていた布を畳み直し、腰ではなく肘の下へ入れた。
肩の力が抜ける場所を探す。
一度。
二度。
少しずつ位置を変えた。
「水は飲めていますか」
「朝から、ほとんど飲んでいません」
娘が答えた。
「飲むと咳が出るんです」
俺は水差しを見た。
無理に飲ませるのは違う。
「一度に飲まなくていいです」
布を水で湿らせ、まず唇へ当てる。
エマが小さく口を開いた。
少し間を置いてから、一口だけ。
飲み込むのを確認する。
咳は出なかった。
「もう一口いきますか」
エマが首を振った。
「じゃあ、今はやめます」
その時だった。
足元にあった古い木椅子を脇へ動かそうとして、背もたれへ手を掛けた。
指先が触れた瞬間。
息が、詰まった。
冷たい。
胸が重い。
暗い天井。
帰りたい。
誰の声なのかも分からない。
言葉と呼ぶには短すぎる感覚が、胸の奥へ流れ込んだ。
俺は手を離した。
木椅子が、床を小さく擦った。
「どうしました?」
娘のノーラがこちらを見る。
「……何でもありません」
自分の呼吸を一度整える。
椅子を見る。
古い傷。擦れた背もたれ。
それだけだった。
残響。
たぶん、そうだった。
だが、今ここにいるエマの状態について、何か教えてくれたわけではない。
むしろ、混ぜれば判断を誤る。
俺は椅子から視線を外した。
もう一度、砂時計をひっくり返した。
今度はエマだけを見る。
胸。
肩。
口元。
呼吸の間。
さっきより肩の上下が小さい。
数も、少し減っていた。
記録帳へ書く。
姿勢変更後。
呼吸、やや減少。
本人「さっきよりは、いい感じ」と話す。
水、一口。咳なし。
魔法を使ったわけではない。
傷が塞がったわけでもない。
病気が消えたわけでもない。
それでも。
エマは、さっきより長く息を吐けていた。
「不思議ですね」
娘が言った。
「何がですか」
「何も光ってないのに」
言われて、少しだけ笑いそうになった。
「光らないこともあります」
それだけ答えた。
エマが、薄く目を開けた。
「……さっきより、息がしやすい」
「それなら、この姿勢を続けましょう」
「良くなったのですか」
「治ったわけではありません」
俺は答えた。
「だから、苦しくなったらすぐ言ってください」
エマは、わずかに口元を動かした。
「夢のないことを言いますね」
「嘘を言うよりはいいでしょう」
「それもそうですね」
しばらくして、マレクが戻ってきた。
俺が説明する前に、エマの姿勢と顔を見た。
次に、机の上の記録帳を見る。
「何をした」
「姿勢を変えました。水は一口。呼吸は最初より少し減っています」
「魔法は」
「使えません」
「知っている」
マレクはエマの胸へ手を当て、呼吸を確認した。
それから簡単な診察をして、娘へ薬の説明をする。
俺には何も言わなかった。
やがて、立ち上がる。
「ソウル」
「はい」
「次」
指さした先に、杖を抱えた老婆がいた。
足首を布で巻き、困った顔でこちらを見ている。
「転んだ。頭は打ってないらしい。歩けるか見ろ」
「俺が?」
「そうだ。いちいち聞き返すな」
マレクはもう別の患者へ向かっていた。
俺は一度、エマを振り返った。
娘が布の位置を直している。
エマは腕を預けたまま、ゆっくり呼吸をしていた。
さっきより少しだけ静かな呼吸だった。
残響が、エマを楽にしたわけではない。
特別な力も、奇跡も使っていない。
ただ、呼吸を数えた。
姿勢を変えた。
一口の水を与えた。
それだけだった。
この処置だけで、大丈夫だとは思っていない。
救えないものがあることを、俺は知っている。
楽にできない苦しさがあることも。
それでも。
今は、次の人が待っている。
俺は砂時計を医療鞄へ戻し、老婆の前へしゃがんだ。
「名前を聞いてもいいですか」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
閑話3「息を数える」では、
ソウルがマレクの施療所で、初めて一人の患者を任される場面を描きました。
魔法を使うことはできない。
病気そのものを治すこともできない。
それでも、呼吸を数え、姿勢を変え、一口の水を急がずに待つ。
そうした小さな対応によって、エマの苦しさはほんの少しだけ和らぎました。
この話を書きながら、改めて感じたのは、
「治すこと」と「楽にすること」は、同じではないということです。
大きな力や奇跡がなくても、
目の前にいる人をよく見ること。
変化に気づくこと。
その人にとって少しでも楽な方法を探すこと。
ソウルが元の世界で積み重ねてきた看護の経験は、
この世界でも、少しずつ彼自身の居場所につながり始めています。
そして途中では、久しぶりに残響感応の気配も描きました。
ただし、それが今回エマを助けたわけではありません。
残響という特別な力と、
ソウル自身が身につけてきた技術。
この二つがこれからどう関わっていくのかも、
今後の物語で少しずつ描いていきたいと思っています。
次の閑話では、少し雰囲気を変えて、
ソウル、フィーナ、レン、ガルムの何でもない日常へ。
重い出来事が続いたからこそ、
彼らが一緒に笑える時間も描いていきます。
引き続き、テルナ・ヴァイドの物語を楽しんでいただければ嬉しいです。




