Scene 22 優しすぎる
誰かを守るために、
選ばなければならない時がある。
けれど、
選んだあとにも、
正しかったのかは分からない。
手を伸ばせば、
救えるとは限らない。
それでも、
手を伸ばさずにはいられない人がいる。
決めることと、
見捨てないことのあいだで、
ソウルとエレナは向き合う。
正しさにも、
優しさにも、
答えはないまま。
それでも誰かを想い、
選ぼうとする二人の物語。
その日の夜。
俺はもう一度、覚醒派の地下拠点へ向かった。
昼に手当てした二人の様子を確かめるためだった。
前腕の傷は、出血が増えていないか。
腫れた足首は、固定したあとに悪くなっていないか。
フィーナは工房に残った。
手当ての確認だけなら、俺一人でいい。
地下拠点へ入ると、昼より灯りの数が減っていた。
人の声も少ない。
壁際の油皿だけが、細い通路を途切れ途切れに照らしている。
二人の状態を確かめた。
出血は増えていない。
足首の腫れも、ひどくはなっていなかった。
「今日はこのまま休んでくれ。その足にはまだ体重をかけるな」
そう言って立ち上がる。
帰ろうとしたところで、通路の奥を歩くエレナの背中が見えた。
赤銅色の髪を後ろで束ねたまま、一人で拠点の奥へ向かっている。
足取りは、いつもと変わらないように見えた。
何か言うためではなかった。
ただ、放っておけなかった。
俺は、その背を追った。
地下拠点の奥へ進むにつれ、灯りの数がさらに減っていく。
人の声も遠ざかり、代わりに地下のどこかを流れる水の音が近くなった。
途中、何人かの構成員とすれ違った。
誰もエレナへ声をかけなかった。
物資置場の裏へ回ったところで、エレナの足が止まった。
古い水桶と、空になった木箱が積まれている。
会議区画からは見えない、人目のない場所だった。
エレナは左手を壁についた。
呼吸が一度だけ深くなる。
喉が動いた。
さっきまでより、唇の色が薄い。
「大丈夫か」
声をかけるのと、エレナが身体を折るのはほとんど同時だった。
短く咳き込み、そのまま吐いた。
大きな音はしなかった。
身体が遅れて何かに追いつき、耐えていたものを勝手に押し出したような吐き方だった。
俺は数歩手前で止まった。
背中へ手を伸ばしかけて、やめる。
そこまで親しい間柄じゃない。
代わりに、水差しを取り、器へ少しだけ注いだ。
「水、飲めるか」
返事はない。
エレナは口元を袖で拭い、壁に手をついたまま呼吸を整えていた。
もう一度器を差し出すと、今度は受け取った。
「一気に飲むな。口をすすぐだけでいい」
「……分かってる」
声が少しかすれていた。
エレナは水を口に含み、吐き出した。
残った水には口をつけず、器を足元へ置いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
水桶の縁から落ちた雫が、石床へ小さな音を立てる。
エレナの左手が、器を持ち直した。
薬指のない手。
昼には、その手で地図を押さえ、人と食料と薬の数を追っていた。
今は、水面がわずかに揺れている。
俺はそこから目を外した。
けれど、エレナは立ち上がらなかった。
俺も隣には座らず、少し離れた木箱へ腰を預けた。
「あの男のこと、まだ考えてるのか」
「考えない方が変だろ」
「少し休め」
エレナの指が、器の縁をなぞる。
「決めることが残ってる。休んでる暇はない」
「全部、お前が決める必要はない」
指が止まった。
「そうだな」
短い返事だった。
「今日、それが分かった」
言葉が返せなかった。
エレナは器を床へ置いた。
「私は決められなかった」
昼にも聞いた言葉だった。
エレナは壁を見たまま続けた。
「私が迷ってる間に、あいつは動いた」
「でも、殺したのはお前じゃない」
「分かってる」
エレナの指が、器の縁で止まった。
「それでも、止められなかったのは私だ」
水の落ちる音だけが残った。
「決めなければ、誰かが先に動く」
エレナの指が、器の縁をなぞった。
「今日、それを見た」
「だから、次は早く決めるのか」
エレナが俺を見る。
「必要なら」
「誰かを切ることになっても」
「切らないことで、別の誰かにしわ寄せがいくこともある」
「だからって、一人を死なせる方に頷けるわけじゃない」
「男を生かしておくなら、見張りがいる」
エレナは淡々と言った。
「妹を保護するなら、薬も食料もいる。拠点を移すなら、人手もいる」
「全部に同じだけ回せるほど、ここには人も物もない」
「分かってる」
「なら、どこかで決めるしかない」
「それも分かってる」
「じゃあ、何が違う」
エレナは石床へ目を落とした。
「何を間違えた。何を選べばよかった」
少し間が空く。
「私には、まだ分からない」
俺にも、答えは出なかった。
病棟でも、似たようなことはあった。
一人の呼吸が苦しくなれば、その人のそばへ行った。
別の部屋で呼び出しが鳴れば、誰かに頼んだ。
人が足りなければ、先に行く部屋を決めなければならない時もあった。
全員へ同じだけ手を伸ばせたわけじゃない。
何かを優先するたび、後ろへ回る人がいた。
そんなことは、ずっと前から知っている。
病床の数を数えた。
残っている薬を数えた。
夜勤に入れる人間を数えた。
数えなければ、回らない。
嫌だったのは、数えることそのものじゃない。
その数字の向こうにいる人間まで、
数字だけになったように扱われる瞬間だった。
それでも、目の前にいる一人を先に諦めることには慣れなかった。
慣れたふりなら、何度もした。
「それでも、まだ生きてる人を、最初から死んだ側へ数えたくない」
言ってから、自分でもきれいな答えではないと思った。
助けられると言っているわけではない。
全員を救える方法を持っているわけでもない。
ただ、先に線を引くことだけが嫌だった。
エレナはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐く。
「優しすぎる」
褒められたようには聞こえなかった。
エレナは立ち上がった。
まだ顔色は戻っていない。
それでも、さっきまで壁へ預けていた身体を、自分の足だけで支えた。
「お前は、そうやって誰にでも手を伸ばす」
俺を見る。
「いつか、その優しさが、お前の命を奪うぞ」
否定しようとして、言葉が出なかった。
救えなかった人間の顔を、いくつも覚えている。
名前を思い出せない人までいるのに、握った手の冷たさだけが残っていることもあった。
この世界へ来てからも、触れたものから、知らない痛みが流れ込んできた。
聞こうとしたわけでもない声が、耳の奥に残った。
身体の中へ入り込んだ痛みが、自分のものなのか、誰かのものなのか分からなくなることさえあった。
それでも、放っておくことはできなかった。
それが正しいと思っているわけじゃない。
ただ、目の前にいる人間へ手を伸ばさない方を、俺はまだ選べなかった。
「お前は、自分の判断が正しいと思ってるのか」
少し間があった。
「思ってない」
エレナは俺を見た。
「正しいかどうか分からなくても、決めなきゃならない時はある」
「間違ってたら?」
「その時は、私が背負う」
「背負えば済むのか」
「済まない」
返事は早かった。
「死んだ人間は戻らない」
「……分かってる」
俺は口を閉じた。
これ以上続ければ、誰にも出せなかった答えを、エレナ一人に求めることになる。
そんな答えを、俺も持っていない。
エレナの考えを、正しいとは思えない。
それでも、あいつが何も感じていないわけでもなかった。
何も感じない人間なら、もっと簡単に嫌えた。
けれど、エレナはさっき吐いていた。
それでも、男は戻らない。
たぶんエレナは、この先も背負い続けるのだろう。
エレナは器を拾い、桶の横へ戻した。
袖で口元を拭う。
乱れた髪を片手で後ろへ押し、外套の襟を直した。
それから、ゆっくり立ち上がった。
顔色は、まだ戻っていない。
それでも、戻るつもりなのだろう。
「もう行く」
「水は」
「あとで飲む」
「少しずつにしろ」
「分かった」
エレナは数歩進み、足を止めた。
振り返らない。
「ソウル」
「何だ」
「どこまで手を伸ばすかは、考えておけ」
「エレナ、お前もな」
エレナは返事をしなかった。
そのまま、通路の明かりの中へ戻っていく。
俺はしばらく、その場に残った。
水桶の縁から、雫が一つ落ちた。
誰かを守るには、選ばなければならない時がある。
選んでも、誰かが傷つくことがある。
そんな場面を、病院でも何度も見てきた。
正しさや優しさの尺度を、俺はまだ知らない。
それでも俺は、また手を伸ばすのだろう。
ただ、目の前の一つの命を救いたい。
それだけで。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene22では、
ソウルとエレナが、それぞれの「正しさ」をぶつけ合いました。
限られた人手。
限られた薬。
限られた時間。
誰かを守るために、
誰かを後回しにしなければならないことがある。
それを知っているからこそ、
エレナは決めることから逃げられません。
そしてソウルもまた、
すべてを救えるわけではないことを知っています。
それでも――
目の前にいる一つの命を、
最初から諦める側へ置きたくない。
二人とも答えを持っていません。
それでも、それぞれのやり方で前へ進もうとします。
「いつか、その優しさが、お前の命を奪うぞ」
エレナのこの言葉は、
この先のソウルにも残り続けます。
第3章「正義という名の暴力」は、ここで終わります。
そして次章は、
第4章「届かない手」。
手を伸ばせば、届くとは限らない。
それでも手を伸ばすことに、意味はあるのか。
次は、その問いがソウル自身へ突きつけられる物語です。




