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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第3章 正義という名の暴力

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Scene 21 必要な犠牲

誰かを守るために、

誰かを傷つけなければならないとしたら。


その選択は、

正しいと言えるのだろうか。


迷うことは弱さなのか。

決めることは強さなのか。


答えを探している間にも、

人の心は動き、

失われたものは戻らない。


それでも街では、

明日の配給を数え、

床を磨き、

次のパンを焼こうとする者がいる。


正しさと怒りの狭間で、

守ることの意味を問い直す物語。

 旧市場区での騒ぎから三日が経った午後、ラグナには薄い雲がかかっていた。市場の呼び声は戻っている。荷車も動いている。けれど旧市場区へ近づけば、縄の張られた道と神殿兵の姿がまだ残っていた。街が元へ戻ったというより、壊れたところを避けて、人が歩き方を変えただけに見えた。


 ガルムの工房前で、レンはいつもの伝令鞄を肩に掛けていた。いつの間にか、俺もそれを「いつもの」と思うようになっていた。そのことが、少しだけ引っかかった。

 レンは折り畳まれた書状を鞄へ入れ、肩紐の位置を確かめた。パン籠を持つ時と、そう変わらない手つきだった。


「配給所へ一通。そのあと西の共同井戸の近くで、もう一通受け取って戻るんだったな」

 俺が聞いた。

「はい」

 フィーナがレンを見る。

「旧市場区へは近づくな。封鎖線が動いていたら、南から回れ」

 レンが伝令をしていることを、フィーナは前から知っていた。

 必要だと判断すれば、この人は言わない。

 それが正しいこともある。

 正しいから、なお困る。

 レンは一度頷いた。

「分かってます」

 フィーナはレンの足元へ目をやった。

「走るな」

「それは無理かもしれません」

「なら転ぶな」

「努力します」

 軽い返事だった。

 レンは鞄の留め具に触れ、それから肩紐の位置をもう一度確かめた。

 少し間を置いて、言う。

「大丈夫です」

 いつもの笑みはなかった。


 ガルムが工房の奥から出てきた。レンの顔ではなく、肩の鞄を見る。

「こっち向け」

「え?」

「いいから向け」

 レンが背を向けた。ガルムは肩紐を指で引き、脇の留め具を外した。穴を一つ詰め、余った革を折り返す。次に靴のつま先へ目を落とした。


「右」

「何がですか」

「靴の紐だ」

 レンが自分の足元を見る。右の靴紐が少し緩んでいた。

「これくらいなら」

 ガルムの手が止まった。

「その『これくらい』で転ぶ」

 レンが黙った。

 ガルムは緩んだ靴紐を締め直した。

「大丈夫で済ませるな」

 レンが顔を上げる。

「怖いなら、怖いと言え」

 一瞬だけ、返事が遅れた。

「……分かりました」

「忘れるな」

「はい」


「なら行け」

 レンは一度だけ口を閉じた。

 それから、いつものように笑った。

「大丈夫です」

 ガルムは何も返さなかった。ただ、さっき詰めた留め具をもう一度押した。

「日が落ちる前に戻れ」

 俺が言うと、レンは少しだけ眉を上げた。

「ソウルさんまで、おじいちゃんみたいなこと言いますね」

「誰がおじいちゃんだ」

「俺まで一緒にするな」

 ガルムと俺の声が、ほとんど同時に重なった。

 レンが一瞬だけ目を丸くして、それから笑う。

「じゃあ行ってきます」

 レンは歩き出した。角を曲がるまでは、走らなかった。


 ガルムはその背を最後まで見送らなかった。工房へ戻り、途中だった時計へ向かう。

 レンを止めはしない。

 ただ、鞄の紐を詰め、緩んだ靴紐を締めた。

 自分に直せるものだけを直して、送り出した。

 それがガルムなりの見送り方なのかもしれない。

 正しいのかどうかは、俺にはまだ分からなかった。

 レンが角の向こうへ消えてしばらくして、覚醒派の使いが工房を訪れた。負傷者の手当てを頼みたいと、エレナからの伝言だった。フィーナにも一緒に来てほしいという。


 俺たちは旧市場跡から延びる地下通路を抜け、覚醒派が移った先の区画へ向かった。

 昼の光が届かなくなるにつれ、石壁の温度が下がっていく。前に通った時より人は少ない。箱の位置が変わり、昨日まで負傷者が寝ていた場所には、畳まれた布だけが積まれていた。


「右、見ておいて」

 分岐でフィーナが言った。

「見張りか」

「戻る時に、人が増えていないか」

「ああ」

 それだけだった。

 以前なら自分で確かめていたはずのことを、フィーナは俺に任せ、そのまま先へ進んだ。


 拠点へ着くと、俺は会議区画ではなく、奥の一角へ通された。敷いた布の上に、処置を待つ負傷者が二人いた。

 一人は前腕に巻いた布へ血が滲み、もう一人は片足を庇うように座っていた。

 俺は傷を洗い、出血を確かめ、汚れた布を替えた。もう一人の足首は腫れていた。折れてはいないように見えたが、無理に歩かせる理由もない。木片を当て、布で固定する。

「今日は体重をかけるな。移動するなら誰かに肩を借りてくれ」

「分かった」

 できることは多くない。それでも、悪くしないためにできることはある。


 最後の結び目を確かめたところで、赤銅色の髪を後ろで束ねたエレナがやって来た。

「助かった」

「これで全部か」

「今いる負傷者は、これで全部だ」

 エレナは一度だけ、会議区画の方へ目を向けた。

「もう一つ、話がある。フィーナにも聞いてほしい」


 会議区画の入口には二人の男が立っていた。武器は下げている。だが扉の前からは動かない。


 中へ入ると、エレナが先に机の位置へ向かった。周囲には三人の覚醒派構成員がいた。誰も座っていない。

 机の上には水差しと、折り畳まれた地図。それから、人員、食料、薬、空いている寝床の数を記した紙が並んでいた。避難者と負傷者の欄には、書き直された跡がいくつもある。

 ここでは何かを決めるたびに、別の何かが減るらしい。


 壁際に、一人の男がいた。三十代か、四十代か。見ただけでは分からない。手は前で縛られている。頬に傷はない。服も破れていない。ただ、縄が手首へ食い込み、指先が白くなっていた。

 エレナは向かいの椅子を示した。


「座ってくれ」

 俺とフィーナが腰を下ろす。

 エレナの視線が、壁際の男へ移った。


「この男は、物資運びを手伝っていた。正式な構成員ではない」

「何があった」

 俺が聞いた。


「神殿側へ情報を渡した」

 部屋の空気が、少しだけ重くなった。

「旧市場の周辺で私たちが動いていること。地下通路があること。物資を入れるおおまかな時間。こちらで確認できているのは、その三つだ」

 エレナは一度、俺とフィーナを見た。


「ここからは、手当てとは別の話だ。この男をどうするか決める」

「俺たちにも聞くのか」

「二人が来ているうちに、意見を聞いておきたい」

 エレナは俺を見る。

「ソウルは覚醒派じゃない。外から見た意見がほしい」

 次にフィーナへ視線を移す。

「フィーナも、私たちのやり方を何でも肯定する人間じゃない」

「同じ考えの者だけで、人一人の処遇を決めたくない」

 エレナは男へ向き直った。


「もう一度確認する。情報を渡した相手は誰だ」

 男はしばらく黙っていた。

「……名前は知りません。神殿の人間です」

「所属は」

「分かりません」

「新しい拠点の入口は話したか」

「話してない」

「記録を保管している場所は」

「知らない」

「構成員の名前は」

「誰の名前も言ってない」

 エレナは怒鳴らない。机も叩かない。責めているというより、事実を一つずつ並べているように見えた。


「なぜ話した」

 男の喉が動いた。

「薬を止めると言われた」

 誰も動かなかった。

「配給も外すと」

 男は縛られた手を見た。

「妹が、神殿の施療を受けてる。記憶が、もうかなり抜けてる。薬がなくなったら悪くなる。配給までなくなったら……」

 そこで言葉が切れた。

「俺が話さなければ、妹が死ぬと思った」


「だから全部話したのか」

 奥にいた構成員が低く聞いた。

「違う」

 男は顔を上げた。

「場所はぼかした。入口は言わなかった。名前も出してない。それなら、向こうも妹に手を出さないと思った」

「両方守れると思ったのか」

 同じ構成員が聞く。

 男は答えなかった。

 奥の構成員が息を吐いた。


「お前が話したあとで、二人戻ってない。負傷した奴もいる」

 構成員は一度、口を閉じた。

「あいつとは、ずっと一緒にやってきた」

「……そんなことになるとは、思ってなかった」

「思わなかったで済むのか」

「地下通路があることと、荷を入れる時間だけだ。入口は言ってない。誰がいるかも言ってない」

「それでも向こうは動いた」

「場所まで絞れるとは思わなかった」

「絞られた。その結果、二人戻ってない」

 構成員の声が一段だけ大きくなった。

 縛られた男は反論しなかった。俺には、食い込んだ縄の方が気になった。指を動かそうとしているが、うまく曲がっていない。


「少し緩める」

 俺が言うと、入口に立っていた構成員の一人が眉を寄せた。

「逃げるぞ」

「縄を外せとは言ってない。このままだと手を傷める」

「今、それを気にするのか」

「今だからだ」

 返事を待たず、医療鞄から折った布を出した。結び目と皮膚の間へ薄く差し込み、圧が一点へ集まらないよう位置をずらす。指先を押し、離す。白くなった皮膚へ色が戻るまでを数えた。

「そんなやり方があるのか」

 入口の構成員が小さく言った。

「痛めてから治すよりは楽だ」

 男の指先へ、少しずつ色が戻った。

 大したことではない。前に居た世界なら、特別な処置ですらない。

 この世界でも、布と縄さえあればできることはあった。

 男は俺を見たが、礼は言わなかった。言われても困ったと思う。エレナも止めなかった。


「問題は、今の拠点についても、この男が一部を知っていることだ」

 エレナが言った。

「移動の時に使った退路を見ている。ここで解放して、もう一度神殿側に捕まれば、同じことが起きるかもしれない」


「どこまで見た」

 フィーナが男へ聞いた。

「移った時に通った道の一部だけだ。全部は知らない」

「外へ出る方向は」

「分かる」

「見張りが入れ替わる場所は」

「一か所だけ」

 答えるたびに、男の声は小さくなった。

 知っている情報は多くない。

 多くないから安全だとも言えない。


「このまま解放できないか」

 俺は続けて言った。

「妹も一緒に保護する。神殿から離せば、同じ脅しは使えない」

 エレナが俺を見る。

「神殿の施療を受けている妹を、神殿から切り離す?」

「脅しに使われてるなら、そこから離すしかない」

「離したあと、同じ施療ができる?」

「できる範囲でやる」

 エレナの視線は外れなかった。

「その『できる範囲』で悪化したら?」

 神殿へ依存しているから脅される。

 けれど、依存しているものを断てば助かるとも限らない。


「なら、拘束を続ける」

 フィーナが言った。

「別の場所へ移して、知らせる情報を絞ればいい」

 エレナはすぐに否定しなかった。

「移す場所は」

「今の拠点から離れた区画」

「そこまでの道を誰が確保する」

 フィーナの視線が机の地図へ落ちる。

「監視は何人必要だ」

 今度はエレナが、周囲の構成員へ聞いた。

「交代なら……二人ずつ」

 入口側の構成員が答えた。

「一日で何人使う」

 返事が止まる。

「妹の施療は。薬は。食料は。自力で動けないなら、誰が運ぶ」

 エレナは声を変えないまま、一つずつ確かめていった。

 誰もすぐには答えられなかった。

 フィーナが机の紙へ目をやる。

「食料も、人も、道も足りないか」

「足りない」

 エレナが答えた。

 俺が出した案も、フィーナの案も、間違っているとは思わなかった。少なくとも、他に手がないと決める前に考える価値はある。

 ただ、実行する人間も、食料も、薬も、ここには余っていなかった。

 正しさだけでは、人も荷物も運べない。


「記憶を切ればいい」

 壁際にいた若い構成員が言った。

「知ってる道だけ消せば――」

「却下」

 エレナの声が重なった。

「でも」

「神殿と同じことはしない」

 そこだけは迷わなかった。

「設備もない。雑に切れば、道だけでは済まない」

 フィーナの指が、自分の外套の端を一度だけつまんだ。すぐに離した。

 しばらく、誰も次の案を口にしなかった。

 地下のどこかを流れる水の音が聞こえた。

「……処刑するしかない」

 奥にいた構成員が言った。

 俺は顔を上げた。

 処刑。

 その言葉が、この場で初めて出た。

「待て」

 自分でも思ったより早く声が出た。

「難しいのは分かる。でも、それで殺していい理由にはならない」

「解放して、次の避難先まで潰れたらどうする」

 奥の構成員が返した。

「だからって――」

「二人はもう戻ってない」

 言葉が止まった。

 責任を取る、と言うのは簡単だった。

 でも、死んだ人間を戻すことはできない。俺はそれを知っている。

 知っているからこそ、目の前の一人を死なせる選択にも頷けなかった。

「渡した情報が、どこまで昨日の作戦に使われたかは分かっているのか」

 フィーナがエレナへ聞いた。

 エレナはすぐには答えなかった。

 代わりに、さっき声を荒らげた構成員が口を開く。

「南倉庫の時間を知ってたのはこいつだ」

「他にも知っていた者は」

「いる」

「神殿が別の情報筋で知った可能性は」

「ないとは言えない」

 フィーナの目がエレナへ戻った。

「なら、この男だけを殺せば正しいとも言えない」

「生かせば安全とも言えない」

 エレナが返した。

 拘束された男は逃げようとはしていない。縛られた手を膝の上に置いたまま、呼吸だけが速くなっていた。

 エレナは男へ向き直った。

「妹のことを確認する」

「……何を」

「住んでいる場所は」

「南の……水路沿いだ」

「施療所は」

「ラグナ神殿の西分所」

「薬は何日に一度」

「三日に一度」

「配給は」

「四日に一度。次は明後日だ」


 胸の奥が冷えた。

 何を確認している。

 そこまで考えて、自分で止めた。エレナはまだ何も決めていない。先を勝手に決めつけているのは俺の方だった。

 エレナは机の上の紙を見た。

 解放。

 拘束。

 記憶切離し。

 どれも、最後まで線を引けずにいた。

 薬。食料。見張り。妹の施療。

 紙の端に書き足した数字を、また見直している。

 迷っているのだと、その手の動きで分かった。

「まだ決められない」

 エレナが言った。

 それまでの言い切るような響きはなかった。

「もう少し、確かめさせてくれ」

 誰も、それを急かさなかった。

 拘束された男は、椅子の上でうつむいていた。

 時間だけが、水滴の音と一緒に落ちていった。


 動いたのは、奥にいた構成員だった。

 立ち上がり、男の後ろへ回る。

「決まらないなら、決める」

 低い声だった。

「待て」

 エレナが顔を上げた。

「まだ話してる」

「話してる間に、また誰か死ぬかもしれない」

 構成員は、男の腕を掴んだ。

「お前のせいで、あいつは帰ってこなかった」

 その声が震えていた。

 怒りだけではないと、俺にも分かった。

「よせ」

 エレナが席を立った。

 だが、遅かった。

 構成員は、男を引きずるように通路の方へ動かしていた。

「離せ」

 エレナの声が、初めて大きくなった。

 俺も動こうとした。

 しかし、足が地面に張りついたように動かなかった。

 フィーナの手が腰へ動き、途中で止まった。

 エレナが追おうとした瞬間、別の構成員が扉の前に立った。

「エレナ」

 短く名を呼ばれただけだった。

 それだけで、エレナの足が止まった。

 止めれば、今度は身内同士で刃を向け合うことになる。

 その一瞬の計算が、エレナの顔をよぎるのが見えた。

 エレナは、動かなかった。

 動けなかった、のかもしれない。

 男の姿が、通路の暗がりへ消えた。

 誰も、間に合わなかった。


 しばらくして、足音が一つだけ戻ってきた。

 男を連れていった構成員だった。

 こちらを見ない。

 水桶の前へしゃがみ、手を洗った。

 長く。

 指の間まで、何度も。

 もう汚れているようには見えなかった。

 誰も、何も言わなかった。

 エレナも、何も言わなかった。

 ただ、水が石床へ落ちる音だけを、立ったまま聞いていた。


「武器を置け」

 エレナが言った。

 男の手が止まった。

「今は拘束する。処分は、あとで決める」

 男は何も言わなかった。腰の武器を外し、石床へ置いた。

 入口にいた構成員の一人がそれを拾い、男の腕を取った。

 男は逆らわず、別の区画へ連れていかれた。


 どれくらい経っただろうか。

 エレナが、ようやく口を開いた。

「止められなかった」

 誰に向けた言葉でもなかった。

「私が迷ってる間に、あいつはもう限界まで来てた」

「決めることばかり考えて、そこまで見えてなかった」

 エレナは視線を落としたまま、動かなかった。

「残された妹は、どうする」

 フィーナが言った。

 エレナは、まだ通路の方を見ていた。

「妹の施療と配給は、こちらで引き受ける」

「神殿の施療が必要なんだろ」

 俺が言った。

「必要な薬は確保する。神殿でしか受けられない施療が必要なら、西分所に出入りできる協力者を頼る」

「それで帳尻が合うのか」

「合わない」

 返事は早かった。

 エレナは少し黙った。

「決めきれなかった。その間に、止めるべきものを止められなかった」

「妹には、何て言う」

 俺が聞いた。

 エレナの返事は、少し遅れた。

「全部は言えない」

「じゃあ、また誰かが決めるのか。何を知っていいか」

「そうなる」

 否定しなかった。

 その返事が、いちばん重かった。

 妹に何を知らせるかも、結局は残された側が決める。

 それが正しいとは思えなかった。

 それでも、全部を伝えることが正しいとも言えなかった。

 男だけは、もう戻らない。

 会議は、それで終わった。

 油皿の火が小さく揺れている。机の端には、男の前に置かれていた水の器が残っていた。半分ほど入ったままだった。

 片づけようとした若い構成員が器へ手を伸ばし、途中で止めた。結局、そのまま置いた。


 俺とフィーナは、会議区画を出た。


「右」

 分岐でフィーナが言った。

 来る時に頼まれた通り、人影を確かめる。

「増えてない」

「分かった」

 それだけで、フィーナは先へ進んだ。

 地下通路を抜ける頃には、夕方の光が入口の先まで差し込んでいた。

 地上へ出る。市場の方から荷車の軋む音がした。夕餉の煙が屋根の間へ上がっている。地下にいた時間だけ、街から切り離されていたように感じた。

 その時、向こうから軽い足音が近づいてきた。


「戻りました!」

 レンだった。

 肩の鞄は出発した時と同じ位置にある。ガルムが直した留め具も外れていない。頬が少し赤い。走ったのかもしれない。けれど息は上がっていなかった。


「次の配給、明日の昼でいいそうです」

 レンは鞄から受け取った紙を出し、フィーナへ渡した。

「共同井戸の方も、今日は兵が増えてませんでした。あと、工房の床もまだ半分です」


「共同井戸の方も、今日は兵が増えてませんでした。あと、工房の床もまだ半分です」

「床の話まで報告するのか」

 俺が聞いた。

「ガルムじいちゃんには大事です」

 レンは鞄の紐を押さえた。

「あと、明日はもう少し焦がさないようにします。七点半でしたよね」

「七点以上だ」

「細かいですね」

「言い出したのはお前だろ」


 レンは笑った。いつもの笑い方だった。

 俺の握ったままの手へ、レンの視線が落ちた。

「手、どうしたんですか」

 開いてみると、爪の跡が薄く残っていた。

「何でもない」

「それ、僕が言うと怒られるやつです」

「誰に」

 レンは少し考え、工房の方を指した。

「二人くらいに」

 思わず息が抜けた。

「お前はまず、自分の大丈夫をどうにかしろ」

「それとこれは別です」

「便利だな」

「便利です」


 レンはすぐにフィーナへ配給所の返事を伝え始めた。フィーナは短く確認し、受け取った紙の端へ何かを書き足す。


 その横でレンは、明日の配給の数を指で数えていた。

 明日の昼には、また配給がある。

 工房へ戻れば、床磨きの続き。

 そのあとには、次のパンが待っている。


 会議の中では、人を生かすために何人必要かを数えた。

 ここでは、明日配るパンの数を数えている。

 同じ数えるという行為なのに、まるで違って見えた。


 さっき、一人の男が通路の奥へ連れていかれた。

 今、レンが夕方の街から戻ってきた。

 一人は戻らなかった。

 一人は戻ってきた。

 その違いを、誰が決めたのか。

 正しさだけでは、答えにならなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene21「必要な犠牲」では、

誰かを守るための判断が、

別の誰かを傷つけてしまう瞬間を描きました。


正しい答えを探していたはずなのに、

迷いの隙間から、

別の誰かの怒りが入り込んでしまう。


止められなかったこと。

決めきれなかったこと。

そして、

もう戻らない人がいること。


それでも地上では、

レンがいつものように戻ってきて、

明日の配給を数え、

床磨きの続きを気にして、

次のパンの話をしています。


失われる命と、

続いていく日常。


その二つが、

同じ時間の中にあることを、

ソウルはまだ受け止めきれません。


正しさだけでは、

答えにならない。


それでも人は、

次の選択をしなければならない。


そんな問いを残す物語でした。


次回、Scene22「優しすぎる」へ続きます。

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