Scene 20 古い顔
名前を見るだけで、
時間が止まることがある。
忘れたくても忘れられない名前。
長い年月を越えても、
まだ胸の奥に残っている誰か。
五百年以上を生きてきたガルムが、
ひとつの名前の前で見せた、
ほんのわずかな沈黙。
これは、
止まった時計と、語られない過去に触れる物語。
午後のラグナには、まだ昨日の跡が残っていた。
旧市場区へ続く道には縄が張られ、神殿兵が人の流れを細く分けている。封鎖そのものは解かれていない。市場の声は戻りつつあったが、西へ近づくほど足音が減った。
荷車の音。店先から聞こえる値切り声。子どもの笑い声。昨日の騒ぎなど待ってくれないように、街はもう次の日常へ戻り始めていた。
俺とフィーナは、ガルムの少し後ろを歩いていた。工房で使う細かな部品を受け取りに出たらしい。俺たちは施療所へ戻る途中だった。
ラグナ神殿前の掲示板に、人が集まっていた。
新しい紙ではない。昨日、旧市場区の封鎖が始まった時に読み上げられた公示文が、そのまま掲示されている。雨除けの板の下で、紙の端だけが風に揺れていた。
未登録の記憶の瓶。危険記憶。区域封鎖。確認と回収。
読んだ内容は、もう知っている。
それでも俺は、紙の下まで目を追った。
ヴェスタ中央神殿、記憶管理部門。
その下に、上層会議の承認印。
さらに一つ、名前があった。
最高司祭――アシュ・カルテア。
隣で、金属の触れ合う小さな音が途切れた。
ガルムの手が止まっていた。
部品の入った小箱を持ったまま、掲示板を見ている。
ほんの一瞬だった。
「知ってる名前ですか」
俺が聞くと、ガルムはすぐには答えなかった。
風が紙を鳴らした。
「古い名だ」
それだけ言って、ガルムは歩き出した。
俺は追って聞かなかった。
フィーナも何も言わなかった。
工房へ戻ると、時計の音が迎えた。
壁の時計。棚の置き時計。作業台の上で分解された小さな機構。
違う速さで動いているはずなのに、部屋に入ると一つの音に聞こえる。
昨日、レンが床を磨いていた場所には、もう箒がなかった。パンの匂いも薄れている。
ガルムは小箱を作業台へ置き、上着を脱いだ。何事もなかったように工具へ手を伸ばす。
その時、戸口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、小さな置き時計を両手で抱えた年配の女だった。
木の枠は角が丸くなり、文字盤の数字もところどころ薄れている。長く使われてきた時計だった。
「見てもらえますか」
女は作業台へ時計を置いた。
「昨日から、動かなくて」
ガルムは時計を引き寄せ、裏蓋を外した。
俺とフィーナは少し場所を空ける。
細い工具が一本、内部へ入った。
歯車を押す。
軸を確かめる。
ばねを指先でわずかに持ち上げる。
「ばねだ」
「直りますか」
「直る」
女の肩から、少しだけ力が抜けた。
「よかった」
それだけ言って、時計を見た。
ガルムは顔を上げない。
「急ぐのか」
「いえ。ただ――」
女はそこで言葉を切った。
「主人が死んでからも、これだけはずっと動いていたので」
工房の時計が、重なって鳴っていた。
「止まると、家が静かすぎて」
ガルムの手は止まらなかった。
「夕方に来い」
「そんなに早く?」
「直ると言った」
女は何度か頭を下げて、工房を出ていった。
戸口の鈴が、もう一度鳴る。
作業台には、裏蓋を外された古い時計が残った。
ガルムは何も言わず、その隣へ部品の小箱を置いた。
フィーナが、外套の内側から折り畳んだ紙を出した。
「これ」
作業台の端へ置く。
「昨夜、地下から移した記録の中にあった」
俺は紙へ目を落とした。
「神殿の押収記録か」
「写しだ。一部だけだ」
フィーナはそれ以上説明しなかった。
ガルムも礼を言わない。ただ、工具を置いた。
「施療所に戻る」
フィーナが言った。
「先に行っててくれ」
俺が答えると、一度だけこちらを見た。
「遅くなるな」
「分かってる」
扉が閉じた。
工房には、俺とガルムだけが残った。
紙を開く。
昨日までなら、見ても意味の分からない欄が多かったと思う。今は少しだけ読める。施療所で記録を書き、神殿の書類を何度も見たせいだ。
押収物の番号。回収場所。保全状態。移送先。
記憶帳。施療記録。未登録の記憶の瓶。破損した媒体。
同じ紙の中に並んでいる。
人が自分を確かめるための帳面と、触れれば体調を崩す危険な瓶が、同じ欄で番号に変わっていた。
「これ、全部を危険物として扱ってるわけじゃないんですよね」
「書いた奴に聞け」
「聞けるならそうします」
ガルムは返さなかった。
俺は次の紙へ移った。
端に、小さな備考欄がある。
封印済み保管物。
特殊保管番号。
最高司祭管理。
俺の指が、そこで止まった。
「また、アシュだ」
ガルムは黙っている。
「これは、記憶の瓶ですか」
しばらく、歯車の音だけが続いた。
「今のお前が知ることじゃない」
「今の、ですか」
「言葉尻を拾うな」
「気になります」
「気にしてろ」
「答える気はないんですか」
「ない」
いつものガルムなら、そこで会話は終わる。
今回も、たぶん同じだった。
けれど俺は、もう一度紙へ目を落とした。
「この命令を、アシュが出したんですか」
ガルムの工具は動いたままだった。
「紙に名前がある」
「それは見れば分かる」
「なら、それ以上は書いてない」
俺は承認印を見る。
最高司祭の名前。
上層会議の印。
記憶管理部門。
紙に書かれているのは、それだけだった。
誰が何を知っていたのか。
どこまでが命令で、どこからが現場の判断だったのか。
そこまでは分からない。
「便利な答えですね」
「答えてない」
「そうでした」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
でも、さっき掲示板の前で止まった手を、俺は見ている。
名前を見ただけにしては、妙な止まり方だった。
そう思った。
ただ、その先は分からない。
ガルムは紙を俺から取り上げなかった。
隠そうともしない。
教えようともしない。
作業台の上で、小さな歯車を一つずつ組み直していく。
時計は、止まれば原因を探せる。
欠けた歯。曲がった軸。切れたばね。
壊れた場所を見つければ、直せるものもある。
人の記憶も、制度も、同じようにはいかない。
ガルムが五百年以上生きてきたことは知っている。
けれど、俺が知っているのは、その数字だけだった。
目の前にいるのは、いつも通り工具を握る老人だった。
ただ、その背後にある時間だけが、俺の知っている人生の長さでは測れなかった。
俺は最後の紙を閉じた。
「アシュに会えば、分かりますか」
ガルムは答えなかった。
作業台の端に置かれた懐中時計へ目を向けていた。
針は動いていない。
工房中の時計が音を刻んでいる中で、それだけが止まっていた。
古いのは、紙でも名前でもなかった。
ガルムが黙っている時間、そのものだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene20では、五百年以上を生きるガルムと、最高司祭アシュ・カルテアの間にある過去を、あえて詳しく語らずに描きました。
ひとつの名前を見た瞬間に止まる手。
答えようとしない言葉。
そして、工房の中でただ一つ止まったままの懐中時計。
長く生きるということは、それだけ多くの時間を抱えることでもあります。
楽しかったことも、失ったものも、言えなかったことも、全部が積み重なっていく。
今回、途中で登場した古い置き時計のエピソードも、その時間を少しだけ感じてもらうために入れています。
大切な人がいなくなっても、時計の音だけは生活の中に残る。
そんな小さな日常が、ガルムの五百年とどこか重なって見えたら嬉しいです。
そして、アシュの名前は出てきましたが、まだ何も分かっていません。
誰が命令したのか。
誰がどこまで知っていたのか。
ガルムとアシュの間に、何があったのか。
答えは、まだ先に置いておきます。
次のScene21「必要な犠牲」では、再び覚醒派側へ視点が向かいます。
神殿だけではなく、正義を掲げる側もまた、誰かを切り捨てる選択を迫られることになります。
引き続き、読んでいただければ嬉しいです。




