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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第3章 正義という名の暴力

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Scene 20 古い顔

名前を見るだけで、

時間が止まることがある。


忘れたくても忘れられない名前。

長い年月を越えても、

まだ胸の奥に残っている誰か。


五百年以上を生きてきたガルムが、

ひとつの名前の前で見せた、

ほんのわずかな沈黙。


これは、

止まった時計と、語られない過去に触れる物語。

 午後のラグナには、まだ昨日の跡が残っていた。

 旧市場区へ続く道には縄が張られ、神殿兵が人の流れを細く分けている。封鎖そのものは解かれていない。市場の声は戻りつつあったが、西へ近づくほど足音が減った。

 荷車の音。店先から聞こえる値切り声。子どもの笑い声。昨日の騒ぎなど待ってくれないように、街はもう次の日常へ戻り始めていた。

 俺とフィーナは、ガルムの少し後ろを歩いていた。工房で使う細かな部品を受け取りに出たらしい。俺たちは施療所へ戻る途中だった。


 ラグナ神殿前の掲示板に、人が集まっていた。

 新しい紙ではない。昨日、旧市場区の封鎖が始まった時に読み上げられた公示文が、そのまま掲示されている。雨除けの板の下で、紙の端だけが風に揺れていた。

 未登録の記憶の瓶。危険記憶。区域封鎖。確認と回収。

 読んだ内容は、もう知っている。

 それでも俺は、紙の下まで目を追った。

 ヴェスタ中央神殿、記憶管理部門。

 その下に、上層会議の承認印。

 さらに一つ、名前があった。

 最高司祭――アシュ・カルテア。


 隣で、金属の触れ合う小さな音が途切れた。

 ガルムの手が止まっていた。

 部品の入った小箱を持ったまま、掲示板を見ている。

 ほんの一瞬だった。

「知ってる名前ですか」

 俺が聞くと、ガルムはすぐには答えなかった。

 風が紙を鳴らした。

「古い名だ」

 それだけ言って、ガルムは歩き出した。

 俺は追って聞かなかった。

 フィーナも何も言わなかった。


 工房へ戻ると、時計の音が迎えた。

 壁の時計。棚の置き時計。作業台の上で分解された小さな機構。

 違う速さで動いているはずなのに、部屋に入ると一つの音に聞こえる。

 昨日、レンが床を磨いていた場所には、もう箒がなかった。パンの匂いも薄れている。

 ガルムは小箱を作業台へ置き、上着を脱いだ。何事もなかったように工具へ手を伸ばす。


 その時、戸口の鈴が鳴った。

 入ってきたのは、小さな置き時計を両手で抱えた年配の女だった。

 木の枠は角が丸くなり、文字盤の数字もところどころ薄れている。長く使われてきた時計だった。

「見てもらえますか」

 女は作業台へ時計を置いた。

「昨日から、動かなくて」

 ガルムは時計を引き寄せ、裏蓋を外した。

 俺とフィーナは少し場所を空ける。

 細い工具が一本、内部へ入った。

 歯車を押す。

 軸を確かめる。

 ばねを指先でわずかに持ち上げる。

「ばねだ」

「直りますか」

「直る」

 女の肩から、少しだけ力が抜けた。

「よかった」

 それだけ言って、時計を見た。

 ガルムは顔を上げない。

「急ぐのか」

「いえ。ただ――」

 女はそこで言葉を切った。

「主人が死んでからも、これだけはずっと動いていたので」

 工房の時計が、重なって鳴っていた。

「止まると、家が静かすぎて」

 ガルムの手は止まらなかった。

「夕方に来い」

「そんなに早く?」

「直ると言った」

 女は何度か頭を下げて、工房を出ていった。

 戸口の鈴が、もう一度鳴る。

 作業台には、裏蓋を外された古い時計が残った。

 ガルムは何も言わず、その隣へ部品の小箱を置いた。



 フィーナが、外套の内側から折り畳んだ紙を出した。

「これ」

 作業台の端へ置く。

「昨夜、地下から移した記録の中にあった」

 俺は紙へ目を落とした。

「神殿の押収記録か」

「写しだ。一部だけだ」

 フィーナはそれ以上説明しなかった。

 ガルムも礼を言わない。ただ、工具を置いた。

「施療所に戻る」

 フィーナが言った。

「先に行っててくれ」

 俺が答えると、一度だけこちらを見た。

「遅くなるな」

「分かってる」

 扉が閉じた。

 工房には、俺とガルムだけが残った。


 紙を開く。

 昨日までなら、見ても意味の分からない欄が多かったと思う。今は少しだけ読める。施療所で記録を書き、神殿の書類を何度も見たせいだ。

 押収物の番号。回収場所。保全状態。移送先。

 記憶帳。施療記録。未登録の記憶の瓶。破損した媒体。

 同じ紙の中に並んでいる。

 人が自分を確かめるための帳面と、触れれば体調を崩す危険な瓶が、同じ欄で番号に変わっていた。


「これ、全部を危険物として扱ってるわけじゃないんですよね」

「書いた奴に聞け」

「聞けるならそうします」

 ガルムは返さなかった。

 俺は次の紙へ移った。

 端に、小さな備考欄がある。

 封印済み保管物。

 特殊保管番号。

 最高司祭管理。

 俺の指が、そこで止まった。

「また、アシュだ」

 ガルムは黙っている。

「これは、記憶の瓶ですか」

 しばらく、歯車の音だけが続いた。

「今のお前が知ることじゃない」


「今の、ですか」

「言葉尻を拾うな」

「気になります」

「気にしてろ」

「答える気はないんですか」

「ない」

 いつものガルムなら、そこで会話は終わる。

 今回も、たぶん同じだった。

 けれど俺は、もう一度紙へ目を落とした。


「この命令を、アシュが出したんですか」

 ガルムの工具は動いたままだった。

「紙に名前がある」

「それは見れば分かる」

「なら、それ以上は書いてない」

 俺は承認印を見る。

 最高司祭の名前。

 上層会議の印。

 記憶管理部門。

 紙に書かれているのは、それだけだった。

 誰が何を知っていたのか。

 どこまでが命令で、どこからが現場の判断だったのか。

 そこまでは分からない。

「便利な答えですね」

「答えてない」

「そうでした」


 少しだけ、いつもの調子が戻った。

 でも、さっき掲示板の前で止まった手を、俺は見ている。

 名前を見ただけにしては、妙な止まり方だった。

 そう思った。

 ただ、その先は分からない。


 ガルムは紙を俺から取り上げなかった。

 隠そうともしない。

 教えようともしない。

 作業台の上で、小さな歯車を一つずつ組み直していく。

 時計は、止まれば原因を探せる。

 欠けた歯。曲がった軸。切れたばね。

 壊れた場所を見つければ、直せるものもある。

 人の記憶も、制度も、同じようにはいかない。


 ガルムが五百年以上生きてきたことは知っている。

 けれど、俺が知っているのは、その数字だけだった。

 目の前にいるのは、いつも通り工具を握る老人だった。

 ただ、その背後にある時間だけが、俺の知っている人生の長さでは測れなかった。


 俺は最後の紙を閉じた。

「アシュに会えば、分かりますか」

 ガルムは答えなかった。

 作業台の端に置かれた懐中時計へ目を向けていた。

 針は動いていない。

 工房中の時計が音を刻んでいる中で、それだけが止まっていた。


 古いのは、紙でも名前でもなかった。

 ガルムが黙っている時間、そのものだった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

Scene20では、五百年以上を生きるガルムと、最高司祭アシュ・カルテアの間にある過去を、あえて詳しく語らずに描きました。


ひとつの名前を見た瞬間に止まる手。

答えようとしない言葉。

そして、工房の中でただ一つ止まったままの懐中時計。


長く生きるということは、それだけ多くの時間を抱えることでもあります。

楽しかったことも、失ったものも、言えなかったことも、全部が積み重なっていく。


今回、途中で登場した古い置き時計のエピソードも、その時間を少しだけ感じてもらうために入れています。

大切な人がいなくなっても、時計の音だけは生活の中に残る。

そんな小さな日常が、ガルムの五百年とどこか重なって見えたら嬉しいです。


そして、アシュの名前は出てきましたが、まだ何も分かっていません。

誰が命令したのか。

誰がどこまで知っていたのか。

ガルムとアシュの間に、何があったのか。


答えは、まだ先に置いておきます。


次のScene21「必要な犠牲」では、再び覚醒派側へ視点が向かいます。

神殿だけではなく、正義を掲げる側もまた、誰かを切り捨てる選択を迫られることになります。


引き続き、読んでいただければ嬉しいです。

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