Scene 19 パン屋になります
戦いの中にいても、人は明日のことを考える。
働くこと。
食べること。
少しずつお金を貯めること。
いつか、自分の店を持つこと。
危険な役目を抱えながら、レンが語るのは、
黒パンと窯と、まだ見ぬ店の入口に置く時計のこと。
何かが解決したわけではない。
それでも、誰かが未来の話をしているだけで、
少しだけ救われる瞬間がある。
これは、不安定な世界の中で、
レンが当たり前のように明日を語る物語。
施療所へ戻った頃には、空が白み始めていた。
マレクへ必要なことだけを伝え、少し休んだ。
横にはなった。
眠れたかどうかは分からない。
朝になっても、地下で聞いた崩落の音が耳の奥に残っていた。
俺とフィーナは、ガルムの工房へ向かった。
どちらからともなく、そうなった。
ラグナの通りでは、いつもの朝の支度が始まっていた。
水を撒く音。
荷車の軋む音。
焼き上がったパンの匂い。
昨夜、あの地下で見たものとは、あまりに違う。
それでも、同じ街だった。
工房の戸は開いていた。
中から、小さな金属音が聞こえる。
歯車を噛み合わせる音。
工具が作業台へ触れる音。
いつもと変わらない音だった。
「来たか」
ガルムは顔を上げなかった。
作業台に向かい、小さな歯車を磨いている。
いつもの位置に、いつもの道具が並んでいた。
フィーナは戸口近くの壁へ背を預けた。
俺は作業台の前まで進んだ。
何から言えばいいのか、道すがら考えていた。
考えても、結局は同じところへ戻った。
「ガルム」
「何だ」
「レンのことです」
歯車を磨く手は止まらない。
「知っていて、止めなかったんですか」
「ああ」
「十四歳ですよ」
「知っている」
昨日、フィーナからも聞いた言葉だった。
それだけに、腹の奥へ残った。
「それで、黙って送り出したのか」
一拍、間が空いた。
磨く手が、ほんの少しだけ遅くなった。
「止めた者を、何人も見た」
「それは——」
「仕事の邪魔だ」
ガルムは次の歯車を手に取った。
会話は、そこで終わっていた。
終わらせたのは、ガルムの方だった。
納得はできなかった。
十四歳だ。
捕まれば、殴られるかもしれない。
記憶を切り離されるかもしれない。
帰れなくなるかもしれない。
昨日、俺はレン自身に、続けるのかと聞いた。
「はい」と答えた。
止められなかった。
だからといって、大人が黙って見ていていい理由になるとも思えない。
フィーナを見る。
目が合った。
すぐに外された。
昨日の続きを話す気にはなれなかった。
その時。
工房の扉が勢いよく開いた。
「できました!」
レンだった。
肩には、いつもの伝令鞄。
両手には布で包んだ何かを抱えている。
俺は、その鞄へ一度だけ目をやった。
レンは気づいたのかもしれない。
何も言わなかった。
「何がだ」
ガルムも鞄を見なかった。
レンの手元だけを見ている。
「新しいやつです」
「何の」
「パンです!」
「見れば分かる」
「じゃあ聞かないでください」
ガルムが眉を動かした。
レンは作業台の空いている場所へ布包みを置いた。
包みを開く。
黒いパンが三つ出てきた。
丸い。
いや。
丸かったものだと思う。
一つは横へ潰れ、一つは妙に細長い。
残りの一つには、端に黒く焦げた部分がある。
香りだけは悪くなかった。
焼いた穀物の匂いが、油と鉄の匂いに混じった。
レンが胸を張る。
「どうですか」
ガルムが一つ持ち上げた。
裏を見る。
横を見る。
指で表面を押す。
「見た目は三点」
「厳しいです!」
「二点でもいい」
「下がった!」
フィーナが小さく息を漏らした。
俺も、少しだけ口元が緩んだ。
ガルムがパンを割る。
中から湯気が出た。
一口食べる。
何度か噛む。
レンが、ガルムの顔を下から覗き込んでいる。
「味は」
「七点」
「本当ですか!」
レンが飛び上がった。
「やった!」
「うるさい」
「前より二点上がりました!」
「見た目は下がった」
「そこは今いいんです」
「よくない」
ガルムが残りを机へ置いた。
レンはもう一つをフィーナへ差し出した。
「フィーナさんも食べますか?」
「いらない」
即答だった。
「味、七点ですよ」
「ガルム基準だろ」
「だから信用できるじゃないですか」
「見た目三点も同じ基準だ」
「そこは忘れてください」
「無理だ」
レンが肩を落とした。
俺はパンを一つ取った。
「俺が食う」
レンが顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ」
「焦げてないやつにしてください」
「最初に言え」
「大丈夫です!」
「何がだ」
久しぶりに、最後まで聞いた気がした。
昨日、途中で止まった言葉。
今日は、ただの焼き損じのパンに使われている。
それでよかった。
パンを割る。
黒い生地の中に、粗く挽かれた穀物が残っていた。
一口食べる。
少し硬い。
香ばしい。
それから、わずかに苦い。
「どうですか」
「六点」
「なんで下がるんですか!」
「焦げてる」
「そこ、避けてくださいよ」
「商品にしたら客は避けてくれないだろ」
レンは不満そうにパンを見た。
ガルムが断面を指で押す。
「水が多い」
「え?」
「だから形が崩れる」
レンの顔がすぐに作業台へ向いた。
「やっぱりですか」
「粉を増やせ」
「でも、それだと高くなります」
返事が早かった。
「白い粉は使ってないだろ」
「使いません」
俺は手元の黒パンを見た。
「どうしてだ」
レンはパンを指で押した。
「白いパン、高いですから」
「黒い方が安いのか」
「はい。雑穀を混ぜれば、だいぶ安くできます」
レンの声が少し真面目になる。
「働いてる人とか、子どもでも買えるくらいにしたいんです」
「安くすると儲からないぞ」
俺が言うと、レンはすぐに頷いた。
「少しは儲けます」
「少しか」
「じゃないと窯が買えません」
レンは指を折った。
「粉代。薪代。それから窯」
「店もいるだろ」
「最初は小さくていいです」
「窯はいくらだ」
「まだ全然足りません」
俺が聞くと、レンは少し照れたように笑った。
「給金を貯めてます。伝令の仕事も、パン運びの分も、少しずつ」
伝令。
その言葉に、胸の奥が少しだけ引っ掛かった。
レンは気にせず続ける。
「売れ残ったら、安くします」
「それでも残ったら」
ガルムが聞いた。
レンは少し考えた。
「小さく切って、スープに入れます」
「誰が食う」
「施療所とか」
俺を見る。
「駄目ですか?」
「駄目じゃない」
昨夜の施療所を思い出した。
床へ横たわった負傷者。
水を運ぶ音。
食事を取れずにいた人間もいた。
「柔らかくすれば、食べられる人はいる」
「ですよね」
レンが嬉しそうに頷いた。
「形が悪いだけなら、捨てる方がもったいないです」
ガルムがパンをもう一口食べた。
何も言わない。
「そんなにパン屋になりたいのか」
俺は聞いた。
「なりたいです」
即答だった。
「どうして」
レンは少しだけ考えた。
大きな理由を探しているようには見えなかった。
「前に、配給所でずっと泣いてる子がいたんです」
「子ども?」
「はい。お母さんも困ってて」
レンは手の中のパンを見た。
「焼きたてのパンをちぎって渡したら、泣き止んだんです」
少し笑う。
「それだけなのに、そのあと笑って」
工房の中で、時計の針が小さく音を立てた。
「それ見て、パン屋になろうって思いました」
レンは不格好な黒パンを持ち上げた。
「お腹が空いてる時って、嫌なことばっかり考えるじゃないですか」
「そうか?」
「僕はそうです。でも、パンを食べると、ちょっと元気になるんです」
「七点のパンでも?」
「七点なら、少しくらい元気になります」
「俺は六点だ。勝手に上げるな」
レンが笑った。
昨日の地下通路が、頭をよぎった。
神殿兵。
覚醒派。
逃げる住民。
一人を置いていく判断。
その後ろにいた人たち。
レンは、何も知らないわけではない。
知った上で。
今はパンの話をしている。
「だから」
レンが言った。
「僕はパン屋になります」
声は大きくなかった。
宣言というより、予定を確認しているような言い方だった。
「まず、その形をどうにかしろ」
ガルムが言った。
「そこに戻ります?」
「店を出す前に商品を作れ」
「明日は焦がしません」
「形も直せ」
「それもやります」
「床も磨け」
レンが止まった。
足元を見る。
工房の隅に、途中まで磨かれた床板がある。
「忘れてたのか」
「忘れてません」
「今、見た」
「確認しただけです」
「嘘だな」
「大丈夫です。今日やります!」
レンは上着の袖をまくった。
肩には、まだ伝令鞄が掛かっている。
俺は何も言わなかった。
フィーナも、鞄を見ていた。
けれど、口にはしなかった。
レンは箒を取りに行く。
途中で戻ってきた。
「あ」
「今度は何だ」
「店の時計」
ガルムを見る。
「いつか店を出したら、入口に時計を置きたいです」
「パン屋に時計がいるのか」
「朝に来る人が時間を見られるじゃないですか」
「自分で買え」
「高いです」
「働け」
「働いてます」
「もっと働け」
「ひどいです」
レンは壁いっぱいに並ぶ時計を見上げた。
「古いやつでもいいです」
「壊れてたら時間が分からん」
「直してください」
「金を取る」
「身内価格で」
「誰が身内だ」
「僕です」
「知らん」
レンが笑った。
ガルムはもう答えなかった。
ただ、工具を持つ手が一度だけ止まった。
俺はその横顔を見た。
何を考えているのかは分からない。
少し前。
俺はこの男に聞いた。
なぜ止めなかったのか。
答えは、まだ分からない。
それでも。
レンが明日のパンの話をしている。
ガルムがその出来に点数をつけている。
フィーナが食べないと言いながら、パンを見ている。
俺は六点のパンを食べている。
それが今、この工房にあるものだった。
「ソウルさん」
「何だ」
「次はちゃんとしたの食べてください」
「今日のはちゃんとしてないのか」
「試作品です」
「さっき商品にする気だっただろ」
「形がいいやつだけです」
「随分都合がいいな」
「商売ですから」
「十四歳が言う台詞か」
「もうすぐ店主になるので」
「いつだよ」
レンは少し考えた。
「窯を買ってからです」
「先は長いな」
「だから働きます」
箒を持ち上げる。
「今日は床磨きの続き。明日はパンを焦がさない。次の配給日には、もう少し多く持っていきます」
「予定だらけだな」
「忙しいです」
レンは笑った。
「ソウルさんも、次も食べてくださいね」
「ああ」
答えてから、少しだけ間があった。
「次は七点以上にしろ」
「八点にします」
「欲張るな」
「じゃあ七点半で」
「細かいな」
「大事です」
レンは笑った。
そのまま箒を持って工房の奥へ走った。
「走るな」
俺とフィーナの声が重なった。
レンが止まる。
振り返った。
「はい!」
レンは歩き出した。
俺とフィーナは目を合わせた。
どちらからともなく、視線を外した。
何かが解決したわけではない。
昨日のことも。
レンのことも。
フィーナとのことも。
何一つ答えは出ていない。
それでも。
工房にはパンの匂いが残っていた。
時計の針が動いている。
レンが床を磨く音がする。
明日の話をしている声がする。
俺は残ったパンをもう一口食べた。
やっぱり少し焦げていた。
今は、その苦さが、やけにうまく感じた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene19では、前回までの張り詰めた空気から少し離れて、
ガルムの時計工房で過ごす、ほんの短い日常を描きました。
神殿と覚醒派。
危険な役目。
まだ答えの出ていないこと。
それらを抱えたままでも、レンは黒パンを焼き、
窯を買うためにお金を貯め、いつか自分の店を持つ話をします。
そして、その店の入口には、ガルムに直してもらう時計を置きたい。
書いていて、こういう何気ない未来の話こそ、
この物語では大切なのだと感じました。
大きな夢ではなくてもいい。
明日はパンを焦がさない。
次はもう少し多く焼く。
今日残った床磨きを終わらせる。
そんな小さな予定を当たり前のように口にできることも、
きっと、生きようとすることなのだと思います。
一方で、ソウルにはまだ、
ガルムがなぜレンを止めなかったのか、その答えが分かりません。
フィーナとの間にも、前回から残ったものがあります。
何かが解決したわけではない。
それでも、パンの匂いがして、時計の針が動き、
誰かが明日の話をしている。
Scene19は、そんな時間を描いた回になりました。
次回、Scene20「古い顔」。
物語は再び、ガルムが抱えてきた長い時間と、
現在の神殿へつながる過去へ触れていきます。
引き続き、お付き合いいただければ嬉しいです。




