Scene 18 神殿を壊す女
戦う者には、戦う者の正義がある。
守ろうとする者には、守ろうとする者の理由がある。
けれど、その正しさがぶつかった時。
誰かを救うことが、
別の誰かを危険にさらすこともある。
今回登場するのは、
神殿に抗う覚醒派の指導者、エレナ・ドーン。
壊す者なのか。
守る者なのか。
ソウルは、まだ答えを持っていない。
一人の命と、
その後ろにいる人々。
どちらも見失わないために、
何を選ぶのか。
正義と正義が、初めて真正面からぶつかる物語。
レンを見送った後も、眠れなかった。
施療所の物置には、油皿の小さな火が残っている。
机の上には記録帳。
名前。
症状。
失われた記憶。
破壊された瓶。
何度読み返しても、そこに書かれていることは変わらなかった。
変えられないなら、せめて残すしかなかった。
俺は記録帳を閉じた。
物置を出ると、施療所の裏口近くにフィーナが立っていた。
壁へ背を預けている。
待っていたのかどうかは分からない。
フィーナが先に口を開いた。
「レンは帰ったか」
「ああ。工房に戻るように言った」
フィーナの目を見た。
「知っていて、何も言わなかったのか」
フィーナも視線を返した。
昼間と同じ沈黙だった。
「何を」
「レンが覚醒派の伝令だってことだ」
「ああ」
否定しなかった。
「十四歳だぞ」
「知っている」
「捕まればどうなるかも?」
「知っている」
短い答えばかりだった。
胸の奥に残っていた冷たさが、少しずつ別のものへ変わっていく。
「それでも、何も言わなかった」
「話す必要がなかった」
俺はフィーナを見た。
「必要がなかった?」
「レンは、自分の立場を隠していない」
「俺は知らなかった」
「だから何だ」
「危険なことをしてるって分かってたら――」
「止めたのか」
言葉が止まった。
フィーナの声は責めるものではなかった。
ただ聞いていた。
「止めようとはした」
「今日も止められなかった」
「だからって」
「私が話せば、レンはやめたのか」
答えられなかった。
レンは続けると言った。
小さな声で。
それでも、迷わずに。
「私が話すことではなかった」
フィーナは視線を外した。
「他人の過去も、所属も、私が勝手に話すことじゃない」
正しいのかもしれない。
少なくとも、間違っているとは言えなかった。
それでも。
「十四歳が殴られてから知るよりは、ましだった」
フィーナがこちらを見た。
「……そうか」
それだけだった。
俺も、それ以上言わなかった。
分かったわけではない。
納得したわけでもなかった。
ただ、ここで言葉を重ねても、同じところを回る気がした。
裏口の外から足音がした。
レンだった。
「帰ったんじゃなかったのか」
「途中まで行って、戻ってきました」
伝令鞄はまだ肩にある。
俺が見ると、レンは少しだけ鞄を身体の後ろへ回した。
隠したつもりではないらしい。
「また手紙か」
「違います」
レンはフィーナを見た。
「地下にいる人たち、怪我人が増えています」
フィーナの表情が変わった。
「何人だ」
「僕が聞いた時は、七人です。歩けない人が二人。あと、息が苦しい人が一人」
「どこで聞いた」
「西の配給所です。水を運んできた人から」
レンは俺へ向き直った。
「マレクさんのいる神殿の施療所へ運ぶと、見つかるかもしれないって」
俺はフィーナを見た。
「覚醒派か」
「ああ」
「治療できる人間は」
「いる。だが足りない」
「俺は行く」
フィーナはすぐには答えなかった。
何か言いかけるように、俺を見た。
「俺を止めるのか」
「止めても行くだろ」
「たぶんな」
「なら、一人では行かせない」
フィーナは壁から背を離した。
レンが一歩前へ出る。
「入口までは僕が案内します」
「お前は来るな」
俺は反射的に言った。
レンの足が止まる。
「危ない場所には入りません」
「同じだ」
「同じじゃない」
フィーナが口を挟んだ。
「レンが使うのは封鎖線の外だ。市場跡の地下へは入らない」
「入口を知ってる時点で危ないだろ」
俺が言うと、レンが小さく首を振った。
「そこから先は知りません」
「中は入っちゃ駄目だって言われてます」
「誰に」
「ガルムさんと、エレナさんに」
初めて聞く名前だった。
「エレナ?」
フィーナが先に歩き出した。
「行けば分かる」
「またそれか」
「今は負傷者が先だ」
言い返せなかった。
夜のラグナは、昼間とは別の街に見えた。
中央市場へ近づく道には、まだ神殿兵が立っている。
灯りの数は少ない。
焼けた木の匂いと、昼間に割れた記憶瓶の甘い匂いが、湿った夜気に残っていた。
レンは大通りを避けた。
細い路地を二つ抜ける。
施療所の裏手。
使われなくなった染物屋の横。
壁沿いに積まれた空樽の間。
レンは走らなかった。
物陰へ飛び込むこともない。
慣れた道を、いつもより静かに歩いているだけだった。
それでも、背中の伝令鞄を見るたび、十四歳という年齢が頭に浮かんだ。
「レン」
「はい」
「いつもこの道を使うのか」
「毎回、同じ道は使いません」
「誰に教わった」
「道は自分で覚えました。使っていい道はガルムさんに確認します」
「夜も?」
「夜は一人で行くなって言われてます」
フィーナが振り返り、後ろを確かめた。
「今日は私がいる」
少なくとも、レン一人に好き勝手させているわけではない。
危険を承知で、周りの大人が道と役割を決めている。
だから安心できるかと言われれば、できなかった。
旧市場跡から二本先の通りで、レンが止まった。
崩れかけた石造りの倉庫。
扉は半分外れ、窓には板が打ち付けられている。
「ここまでです」
「地下は?」
「中の床下に入口があります。でも、僕は入りません」
フィーナがレンの肩を軽く押した。
「工房へ戻れ」
「はい」
「大通りは使うな。配給所の前を通れ」
「分かりました」
レンは俺を見た。
「ソウルさん」
「何だ」
「怪我人、お願いします」
俺は返事をするまで少し時間がかかった。
「ああ」
レンが走り出す。
「走るな」
思わず言うと、レンが振り返った。
「はい」
レンは足を緩め、歩き出した。
俺の肩から、少しだけ力が抜けた。
それでも、姿が角の向こうへ消えるまで見ていた。
倉庫の中は暗かった。
フィーナが床板の一枚をずらす。
下から冷たい空気が上がってきた。
湿った土。
古い木材。
薬草。
それに血の匂い。
階段を下りる。
壁には小さな灯りが一定の間隔で置かれていた。
揺れていたのは、油皿の火だった。
神殿の白い光とは、ずいぶん違って見えた。
地下へ下りると、通路は旧市場跡の下へ向かって伸び、途中でいくつかに枝分かれしていた。
さらに下りると、人の声が聞こえてきた。
「南の出口は使うな!」
女の声だった。
「歩ける者は二人ずつ東へ。記録箱は先に出すな。人を通せ」
指示は簡潔だった。
返事を待たず、次の指示が続く。
「水は半分残せ。全部持たせるな。次の組が使う」
「北側から三人戻りました!」
「負傷者は?」
「一人です」
「こっちへ」
通路を曲がった。
最初に見えたのは、血だった。
女の袖から落ちている。
自分のものか、担いでいる男のものか、見分けがつかなかった。
赤銅色の長い髪を後ろで束ねた女が、男の肩を担いで歩いてきた。
二十代後半くらい。
黒を基調にした戦闘装備。
肩からは、擦り切れた赤黒い外套が垂れていた。
腰には長剣。
片腕を、負傷者の脇へ回していた。
「そこへ寝かせる」
女が床へ敷かれた布を顎で示した。
周囲の男たちが動く。
「足は?」
「動きます」
「なら固定は後。先に脇腹だ」
女はしゃがみ込み、負傷者の服を切った。
手元が見えた。
左手。
薬指がなかった。
古い傷だった。
女は気にする様子もなく、布を引き寄せた。
「押さえろ」
そばにいた男が傷口へ布を当てる。
「強く。手を離すな」
フィーナが近づいた。
「エレナ」
女が顔を上げた。
「遅かったな。来ると思っていた」
「地上が塞がれた」
「知ってる」
その視線が俺へ移った。
顔。
肩の医療鞄。
手。
そこで止まった。
「誰」
「ソウルだ」
「医者?」
「違う」
俺が答えた。
「前の世界で、怪我人や病人を看る仕事をしてた」
エレナの眉がわずかに動いた。
「何ができる」
「見ないと分からない」
「じゃあ見て」
自己紹介はそれで終わった。
地下倉庫には、思っていたより多くの人間がいた。
周囲を見回した。
剣や弓を持つ者に混じって、負傷者や荷を運ぶ者もいる。
老人。
腕を布で吊った女。
子どもを抱く男。
床へ並べられた記録箱。
水瓶。
乾いたパン。
壁際には、名前と数字を書いた紙が何枚も貼られている。
負傷者の人数。
避難した人数。
残っている薬草。
水。
東側の出口はまだ使えるらしい。
人が途切れず、そちらへ流れていく。
覚醒派。
その言葉から想像していたものとは、少し違った。
「こっちに来て」
若い女に呼ばれた。
床に男が横たわっている。
顔色が悪い。
呼吸が速い。
「いつから」
「昼過ぎ。煙を吸って、それから」
「意識は」
「あります」
俺は男の肩へ触れた。
「聞こえますか」
瞼が動く。
「息を吸うと痛いですか」
男が頷いた。
胸の左右を見る。
片側だけが動きにくい。
転倒したのか、肋骨の辺りに大きな打撲があった。
「上体を少し起こして」
周囲の二人が動く。
「無理に寝かせない。本人が一番息をしやすい姿勢にして」
俺は医療鞄から布を出した。
「血は出てない。今は呼吸を見る。急に返事がなくなったら呼んで」
「分かった」
次。
太腿を切った女。
出血は止まりかけている。
縛りすぎた布を少し調整する。
次。
腕の骨が曲がっている男。
固定する。
次。
頭を打った若者。
名前を聞く。
答えられる。
時間を置いて、もう一度聞く。
誰の側か考える暇はなかった。
身体は、所属を待たない。
壁際で手当てを待っていた男へ、エレナが目を向けた。
「その男は後でいい」
男はまだ自分で歩けそうだった。
「歩ける者から、東の出口へ出す」
そばにいた男が口を挟んだ。
「でも、こいつは」
「歩ける」
エレナが遮った。
別の男が、証言の記録を収めた箱へ目をやった。
「この記録箱は?」
「置いていく」
エレナが即座に答えた。
周囲の者が一瞬、動きを止めた。
エレナが箱を指す。
「証言の記録には複製がある。全部持ち出せば、神殿も必死に追ってくる。原本はいくらか残した方がいい」
「記憶瓶は?」
「持てる分だけだ」
「残りは神殿に押収されてしまいます」
「人を先に出す」
エレナの声は変わらなかった。
「物や記録にこだわって、逃げ遅れるな」
一人が頷き、箱から手を離した。
「空の箱を二つ南へ置け。追手が来たら、南へ誘導する」
「分かった」
命令するだけではなかった。
エレナ自身も木箱を持ち上げ、通路の端へ寄せる。
その途中で、呼吸の苦しい男へ目をやった。
「その人は?」
俺は男を見た。
「動かさない方がいい」
「どれくらい」
「今は分からない。少なくとも歩かせるな」
「担架を一つ残す」
エレナは即座に決めた。
「東の二組目と一緒に出して」
今度は俺を見た。
「他は」
「腕の骨折は急がなくていい。太腿の女は出血を見ながら動かせる」
「分かった」
使える情報だけを拾っていく。
俺が何者かより、今、何ができるか。
エレナはそれだけを見ていた。
通路の奥から男が走ってきた。
「北の排水路、塞がれました」
「神殿?」
「記憶管理官が二人。兵が六人」
エレナが壁の地図へ向かった。
炭で線を引いた簡単な図だった。
地下の通路は、そこから東西南北へ枝分かれしていた。
「東は」
「まだ開いてます」
「何人通した」
「十三人」
「あと八人」
指が地図の上を動く。
「北は捨てる。南も使わない」
「西は?」
「狭い。負傷者は無理」
「なら東だけです」
「だから急ぐ」
エレナは地図から手を離した。
「フィーナ」
「ああ」
「最後の組を頼む」
「分かった」
「術式は使うな。気付かれる」
フィーナが短く頷く。
「必要なら使う」
「使う前に引け」
そのやり取りだけで、二人が以前から知り合いなのは分かった。
通路の奥で、鈍い崩落音が響いた。
天井がわずかに震え、土埃が落ちてきた。
一度。
二度。
地下にいる全員の動きが止まった。
「西側だ!」
誰かが叫んだ。
エレナが通路へ走る。
俺とフィーナも追った。
石壁の一部が崩れていた。
その向こうから咳が聞こえる。
「誰がいる」
「ハインとロウです!」
「返事しろ!」
「こっちは動ける!」
土埃の向こうから声が返った。
もう一つ。
低い呻き声。
「もう一人いる」
フィーナが言った。
石の隙間から腕が見えた。
黒い袖。
金色の縁取り。
神殿兵だった。
若い。
額から血が流れている。
胸が不規則に上下していた。
「神殿兵だ」
覚醒派の男が言った。
空気が変わった。
「さっき西から入ってきた奴です」
「他にもいるのか」
「分かりません」
エレナが通路の向こうを見る。
「置いていく」
「確認だけする」
フィーナが言った。
俺は神殿兵のそばへ膝をついた。
「ソウル」
フィーナの声。
「呼吸がおかしい」
兵の口元へ耳を寄せる。
浅い。
途切れる。
血が喉へ流れ込んでいる。
俺は顔を横へ向けた。
「布」
誰も動かなかった。
「布をくれ!」
フィーナが自分の腰袋から出した。
口元の血を拭う。
「ソウル、行くぞ」
エレナだった。
「このままだと死ぬ」
「分かってる」
エレナの答えは早かった。
「なら」
「置いていく」
俺は顔を上げた。
エレナは兵士ではなく、その後ろを見ていた。
避難する人間。
負傷者。
記録を抱えた女。
歩けない老人。
「追跡隊が来る」
「二分でいい」
「その二分で出口が塞がれる」
「呼吸だけ戻す」
「その一人のために、後ろの全員を止めるのか」
言葉が詰まった。
俺の後ろに、人がいることは分かっている。
それでも、答えは決まらなかった。
「分からない」
エレナが俺を見る。
「何が」
「どっちが正しいかは分からない」
兵の胸が小さく動いた。
「でも、今は呼吸が止まりかけてる」
「その兵士が戻れば、次は誰を捕まえる」
「誰かが捕まるかもしれない」
「私たちの顔を覚えて戻ったら?」
「危険なのも分かってる」
「あなたが助けた人間が、明日誰かの記憶を奪うかもしれない」
「その可能性もある」
「なら、何で止まる」
すぐには答えられなかった。
正しいからじゃない。
神殿兵だからでもない。
覚醒派だからでもない。
ただ、目の前で息が止まりかけている。
それだけだった。
「死にそうだからだ」
エレナの顔から何も読めなかった。
「甘い」
「そうかもな」
「その甘さで、後ろの人間が捕まる」
「だから二分で終わらせる」
「一分」
「無理だ」
「一分」
エレナは譲らなかった。
俺も返事をしなかった。
兵の顎を上げる。
口の中の血を拭う。
呼吸が入りやすい位置へ身体をずらす。
脇腹からも出血していた。
布を当てる。
「押さえて」
フィーナがしゃがんだ。
傷口へ手を置く。
「強く」
「ああ」
兵が咳き込んだ。
血混じりの息が出る。
呼吸が少し深くなった。
「全員は救えない」
手を止めずに言った。
「でも、ここで何もしない理由にはならない」
フィーナは何も言わなかった。
ただ、傷口を押さえる手に、少しだけ力がこもった。
「もういい」
エレナが言った。
「まだ」
「時間だ」
俺の肩を掴んだ。
強い。
「離せ」
「ここで全員を捕まえさせる気?」
「せめて見つけてもらえる場所へ」
「運べない」
「目印だけでいい」
エレナの手が離れた。
「三十秒」
俺は医療鞄から白い布を一本出し、兵の腕へ結んだ。
「何を」
「見つけてもらう」
さらに、通路の入口側から見える位置へ、割れた板を立てる。
そこへ、もう一枚の白い布を結ぶ。
兵の腕と、通路の目印。
誰かがここにいると、それだけ分かればいい。
「行くぞ」
フィーナに肩を引かれた。
立ち上がる。
数歩進んで、振り返った。
兵の胸は動いていた。
それ以上はできなかった。
東側の出口へ向かう。
エレナが二人の構成員へ指示している。
後ろで石の擦れる音がした。
俺は足を止め、エレナに聞いた。
「何をしている」
「西の通路を落とす」
「負傷兵がいる」
「完全には塞がない」
エレナが続けた。
「人一人通れない幅まで落とす。空気は残す」
「救助が入れなくなる」
「追手を止めるのが先だ」
「さっきの負傷兵は」
「神殿側から掘れる」
「時間がかかる」
「全員を逃がすためだ。仕方ない」
仕方ない。
その言葉が胸に残った。
何が正しいのか、今の俺には分からない。
ただ、目の前の命を見捨てたくはなかった。
「フィーナ」
エレナが言った。
「先へ行って」
フィーナは動かなかった。
俺を見ている。
「ソウル」
フィーナが俺を呼んだ。
「先に行け」
「フィーナはどうするんだ?」
「最後の組を見てから行く」
最後の避難組が動き始めた。
フィーナが老人の腕を肩へ回す。
俺は呼吸の苦しい男の担架を持った。
反対側を、エレナが持つ。
「お前が運ぶのか」
思わず聞いた。
「手が空いてる」
「部下にやらせるかと思った」
「歩ける奴は出口を確保してる」
それだけだった。
担架を持ち上げる。
「傾けるな」
「分かってる」
「分かってない持ち方だった」
「悪かったな」
初めて。
エレナの口元が、ごくわずかに動いた。
笑ったのかは分からなかった。
東の出口近くで、構成員が人数を数えていた。
「十九人出ました。西に二人残っています」
「西の二人は、奥の別経路から出る」
「それならば、これで全員です」
エレナが頷いた。
「証言記録は」
「複製三箱。原本一箱を残しました」
「それでいい」
「記憶瓶が四本残っています」
エレナは一瞬だけ後ろを見た。
「置いていく」
「でも……」
「人が優先だ」
構成員は唇を噛んだ。
それでも頷いた。
地下から外へ出る。
夜気が肺へ入った。
狭い裏路地だった。
遠くに神殿の灯りが見える。
ここまで来れば、旧市場区の封鎖線からは外れている。
「負傷者は三か所へ分ける。一か所に集めるな」
エレナが指示した。
「見つからないように散らす。歩けない者だけ北の倉庫。軽傷は家へ戻せるなら戻す。記録を持っている者は別の場所へ回せ」
エレナは、俺を見た。
「あなたは?」
「施療所に戻る」
「神殿側へ?」
「マレクのところだ」
「神殿の施療所でしょ」
「負傷者を診る場所だ」
エレナは少し黙った後、尋ねた。
「今日、神殿兵も診た?」
「ああ」
「覚醒派も?」
「ああ」
「同じように?」
「怪我に敵味方があるなら教えてくれ」
フィーナがこちらを見た。
エレナは答えなかった。
しばらくして、俺の医療鞄へ視線を落とした。
「今日の被害、記録してる?」
エレナは続けて尋ねた。
「ああ」
「見せて」
「嫌だ」
俺は、即答した。
エレナの眉が動いた。
「昼間も神殿に渡さなかった」
「私は神殿じゃない」
「だから何だ」
「私たちは、その記録を必要としてる」
「記録された人間のために書いた」
「同じだ」
「同じかどうかは、俺が決めない」
エレナの目が止まった。
「本人が決める」
少しの沈黙。
「そう」
エレナはそれ以上、手を伸ばさなかった。
「じゃあ持っていて」
「言われなくても」
「なくさないで」
その言葉だけ、少し違って聞こえた。
「神殿は消すから」
昼間。
割られた小瓶。
ミラ。
九歳。
黒い髪。
頭の中に戻ってきた。
「覚醒派は消さないのか」
エレナの目が俺へ向いた。
「何を」
「都合の悪いもの」
答えはすぐには来なかった。
「消さないようにしてる」
「ずいぶん弱い言い方だな」
「人間がやってるから」
それだけだった。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
続いて二度。
神殿側の合図なのか、俺には分からない。
エレナはすぐに周囲へ視線を走らせた。
「移動する」
構成員たちが動き始める。
フィーナが俺の横へ来た。
「戻るぞ」
「ああ」
歩き出す前に、エレナを振り返った。
「さっきの負傷兵」
「何」
「助からないかもしれない」
言葉が続かなかった。
エレナは俺を見た。
「私の判断だ」
「そういう話じゃない」
「私には、そういう話だ」
平然としているように聞こえた。
けれど、左手が腰の布を掴んでいた。
薬指のない手。
すぐに離れた。
「あなたが止まった一分で、後ろの人たちは一分待った」
「分かってる」
「その一分で何も起きなかったから、今回はよかった」
「今回は?」
「次も同じとは限らない」
「だから見捨てろって?」
「違う」
エレナは首を横へ振った。
「一人を選んだ時、その後ろに誰がいるか忘れるなって言ってる」
その言葉に、足が止まった。
忘れるな。
昼間。
フィーナが言った言葉と同じだった。
意味は違う。
フィーナは、奪われる側を見ろと言った。
エレナは、助けようとした一人の後ろを見ろと言う。
どちらも、人を見ろと言っている。
見ている方向が違うだけだった。
「エレナ」
フィーナが呼んだ。
「何」
「西の通路、本当に落としてよかったのか」
「ああ」
「兵が残っていた」
「分かっていた」
「それでも落としたのか」
「承知の上の判断だ」
フィーナは黙った。
「反対?」
エレナが聞いた。
「賛成はしていない」
「それでいい」
「だが、今は撤退を優先する」
「ああ」
二人の間には、俺の知らない時間があった。
同じ側にいても、同じ考えとは限らない。
そのことだけは分かった。
俺とフィーナは路地を戻った。
しばらく、何も話さなかった。
旧市場区の方向から、低い音が響いた。
石が崩れる音だった。
俺は足を止めた。
フィーナも止まった。
「西か」
俺が聞いた。
「ああ」
「さっきの兵は」
フィーナは少し間を置いた。
「助かるかは分からない」
それ以上は聞かなかった。
歩き出す。
フィーナが少し前を行く。
「フィーナ」
「何だ」
「エレナは、神殿を壊したいのか」
足は止まらなかった。
「ああ」
「全部?」
「本人に聞け」
「聞いたら答えるか」
「たぶんな」
「お前よりは?」
フィーナが一度だけ振り返った。
「どうだろうな」
それで会話は終わった。
施療所の灯りが見えてきた。
負傷者の呻き声。
水を運ぶ音。
マレクの怒鳴る声。
その音が、戻るべき場所を示していた。
俺は医療鞄へ手を置いた。
中には記録帳がある。
神殿兵。
旧市場区の住民。
覚醒派の負傷者。
地下に残した神殿兵の胸が、最後に振り返った時も動いていたことを覚えていた。
あの時、十九人が避難を待っていたことも。
「忘れるな」
誰かの声が、聞こえたような気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene18では、覚醒派の指導者エレナ・ドーンが本格的に登場しました。
神殿に抗う者。
人を守ろうとする者。
そして、必要なら誰かを置いていく決断もする者。
ソウルとは、目の前の一人をどう見るかというところで、早くも考え方がぶつかりました。
どちらが正しいのか。
おそらく、この時点では簡単に決められないと思います。
一人の命を見るソウル。
その一人の後ろにいる、多くの人を見るエレナ。
そして、その両方を見ながら、フィーナもまた自分なりの判断をしています。
今回のSceneを書きながら、
「正しいことを選ぶ」というのは、思っている以上に難しいことなのだと改めて感じました。
誰かを守る選択が、
別の誰かを置いていく選択になることもある。
だからこそ、
この章では簡単な答えを出さずに進めていきたいと思っています。
次のScene19では、
張り詰めた空気から少し離れて、レンの未来へ目を向けます。
戦いの中にいても、
人は明日のことを考える。
夢を持つ。
そんな時間の物語へ続きます。
次回、
Scene19「パン屋になります」。
引き続き、お付き合いいただければ嬉しいです。




